放たれる②
その日の夜、私は自分の部屋の椅子に座りながら、スマートフォンを手に取っていた。部屋の電気も点けずに、画面の明かりだけが闇に浮かび上がる。仄暗い水の底に沈んだような私の心を照らしてくれるのは、スマートフォンの着信履歴に並んでいる、ひとつの名前。
いままでたくさんお話したなあ。楽しいことはとびきり楽しそうに、哀しいことはほんとうに哀しそうに、彼女は私に語りかけてくれた。私はほとんど相槌ばかりだったけれど、彼女と話しているとほんとうに嬉しかった。大切なこともくだらないことも、彼女はたくさん私に話してくれた。
「和泉」
なんとはなしに彼女の名前を呼んでみた。その呼び声はしかし、水底に沈む部屋の闇に溶け出して、誰に届くこともない。
私の心に根差した、真っ白な一輪の花。
枯らしてはだめ、と思った。この花を枯らしてはだめ。私の心に芽吹いた花を、大切な和泉との繋がりを司る花を、ぜったいに枯らしてはいけない。
でも、和泉はそれを拒絶した。私と一緒にこの花を育んでいくことを、彼女ははっきりと拒絶したのだ。もうこの花に水をあげられない。和泉の寵愛という水を失った花は、静かに私の心からなけなしの養分を搾り取って、叶わなかった私の愛の色に染まる。
この世界は檻のなか。生きると言うことは、その檻のなかに在るということ。すべては句点の向こう。自分の感情は閉じ込めて、自分の都合は押し込んで、ただ他人の言うことに従って生きていく。私は十数年間、そうやって生きてきたんだ。そうすれば先生は褒めてくれるし、両親も少しだけ安心してくれる。それ以外にない。私が生きる理由は、それ以外にないんだ。
——小夜子。
和泉が私を呼ぶ声が聞こえた。鈴の音が鳴るような、胸の奥に響き渡る声。私と言う存在をこの世界に知らしめる、福音のような声。
私は気づいた。和泉に拒まれた世界なんて、なんの意味もないじゃないか。和泉なしで生きていくことなんて、なんの理由もないじゃないか。
——小夜子。
生きていれば制約ばかりだ。大人はみんな自分勝手で、子どもの私に自分の都合ばかり押し付ける。もううんざりだ。私は和泉とともに在りたい。こんな檻のなかではない、もっと自由な世界。
「小夜子!」
階下から男の怒鳴り声がした。いまさっき聞いた私を呼ぶ声は、和泉のものではなかったんだ。私の父親だという男が、また泥酔してわめいているんだろう。母親だという女が、まるで発狂しているようなやかましさで男を罵倒している。母親の悲鳴が聞こえた。何かが倒れ込むような、大きな物音がした。そのあと、少し階下が静かになった。母親の罵倒する声は聞こえなくなった。父が怒りにまかせて床を踏みしめる足音だけが、私のいる部屋にまで壁を伝って響いてくる。
「お父さん、お母さん。明日、高校の卒業式なんだ。私、卒業するんだよ。ここまで育ててくれて、ほんとうにありがとう」
今日までなんども練習を重ねてきた言葉を、きっと受け取られることのないその言葉を、暗い部屋のなかで反芻してみる。私のか細い声は部屋の闇のなかに溶け出していき、空虚な余韻だけが残された。
「喜んでくれるかな。『卒業おめでとう』って、言ってくれるかな」
一瞬だけ、両親の喜ぶ顔が浮かんだ。しかしそれもすぐに消えてしまう。きっとひとはそれを、「幻想」と呼ぶ。
「小夜子!」
また男の怒号が聞こえた。その声と足音で、父親が階段を昇って来ようとしているのがわかった。私はベッドに飛び込んだ。記憶がよみがえる。わけのわからないことを怒鳴りながら暴れ回る男。まるで言葉の通じない怪物。その光景を思い返すたび、身体じゅうの痣や傷が悲鳴をあげるように痛んだ。
「——ッ!」
ふとんを頭からかぶり、声にならない声をあげた。
もううんざりだった。
ここではない。ここではないんだ、私と和泉が在るべき世界は。
こんな鉄の檻に囲まれた場所ではない。和泉の髪の色みたいに煌めいて、和泉の奏でる声のように優しくて、和泉自身のように自由な世界。
和泉みたいになりたい。
和泉みたいに自由になりたい。
ねえ和泉、どうすれば自由になれるの?
檻に囲まれた制約ばかりの人生のなかで、あなたのように自由になるにはどうすればいいの?
あなたと繋がれば、私は自由になれると思っていた。でもあなたはそれを拒んだ。檻のなかの惨めな私と、檻の外の自由な和泉。私にはもうどうすることもできないの?
……そうだ。わかったよ、和泉。
私があなたのように自由になるためには、この檻を壊せばいい。この世界に巡らされた制約ばかりの檻、それを壊してしまえばいい。ただそれだけでよかったんだね。そうすれば、私と和泉を隔てる鉄の檻はなくなる。私は私の望む世界へ、和泉の望む私に、自由になれる。
そうだよね、和泉?
「……」
和泉からの返事はない。でもいいんだ、じきに私も和泉のいる世界に行ける。だから待っててね。私はもうすぐ自由になるの。そんな私を——和泉、ずっと見ていてね。
私は祈るようにその言葉を繰り返す。私の心に根差した花は、真っ赤な愛の色に染まっていく。
足音が部屋の前で止まったのがわかった。悲鳴のような歪んだ音をたてながらドアノブが傾いた。
「和泉、私ね——」
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