短編惑星
『放たれる』
放たれる①
「あたしね、自由が好きなの」
私が憧れた彼女には、へんな口癖があった。仄暗い洞窟みたいな私の心のなかに、彼女——和泉の言葉はしみ出た地下水の一雫のように響き渡り、彼女の笑顔は差し込む一条の陽光のように底を照らした。
卒業式の日。それは、巣立ち行く若者たちが、限りのない真っ白な「自由」と、覚悟と責任という「制約」を手にする日。
そんな卒業式を明日に控えた放課後の教室は、しんと静まり返っていた。時間と空間をさまよって漂流した教室のなかに、私と和泉だけが取り残されているみたいだった。
「ねえ小夜子、知ってる? 『自由』って、ミズカラニヨルって意味なんだって」
自らに由る。自分の意思で選び取って、決断をすること。
視線を落として、なんとはなしに眼鏡を弄んだ。「知っていることを知っていると言えず我慢している」ときに出るという、どうやら私の癖らしいその所作を見て、和泉は相好を崩した。
「なんだあ、やっぱり知ってたんだ。小夜子は物知りだなあ」
私はあいまいに笑った。自分では笑ったつもりであったが、うまく笑えていただろうか。和泉の目には、口角がちょっと痙攣したくらいにしか見えなかったかもしれない。
彼女はいつもいつも、私の胸の奥の、とっても柔らかいところをくすぐる。彼女だけだった。こうやって温かく私を包み込んでくれるのは、ほかならぬ和泉だけだった。屈託なく笑う彼女を見ると、私は自分という存在がこの世界に許されているように思えた。
私は和泉を盗み見た。春の雨に濡れる桜の花びらのように、彼女の唇が夕陽を受けて明媚な光を放っていた。私はその唇を見つめながら、自分の唇に指先で触れた。その骨張った硬い指先とはちがうであろう、彼女の唇の感触を想像して、私の心はぎこちなく揺らめいた。
「……どうして自由が好きなの?」
私の問いに、和泉は両手を広げて応えた。
「だってそうじゃない? 自分の意思で自分の道を決める、一度しかない自分の人生なんだから。明日は卒業式、私たちがついに自由を手にする日だよ。職業選択の自由、宗教の自由……それから、恋愛の自由!」
彼女は両手を広げながら、机と机のあいだでくるくる回った。「自由って、素敵なことだよね」
レンアイ。私は彼女の口から放たれた言葉を舌の上で転がしてみた。私がその言葉を口にしたら、きっとレンコンの亜種のように聞こえるだろう。
そうだ、明日は卒業式だ。進学の関係で、和泉とは離ればなれになることが決まっている。私は家庭の事情で卒業後すぐに就職することになっているが、和泉は東京にある服飾の専門学校へ行くらしい。
やっぱり和泉はすごいなあ。彼女はそうやって、自分の意思でやりたいことをやって、言いたいことを言って、行きたいところへ行ってしまう。そこに私は追いつくことができない。あいまいに笑って、黙って眼鏡をいじくることしかできない。自分という檻のなかに閉じ込められたまま。
いやだな、と私は思った。こんな惨めな自分のまま高校を卒業して、和泉と離ればなれになるのは、いやだった。
和泉みたいになりたい。
和泉みたいに自由になりたい。
レンアイ。何気なく言ったであろう和泉のその言葉は、私の心の奥底にはっきりと深く根を降ろした。その歪んだレンアイは、私の心から養分をどんどん吸い取って、ぶくぶくに肥えてしまうだろう。誰の目にも触れない暗いところで、私の「レンアイの亜種」は、その根を膨らませ、葉を茂らせ、真っ白な花を咲かせる。
「卒業、しちゃうんだね。あたしたち」
「……うん」
「どう、小夜子? 高校生活、楽しかった?」
なにも知らない彼女は、そのままの笑顔で訊ねてくる。
きれいな瞳。
その視線に、息を呑む。
「……うん」
私は時間をかけてうなずいた。それを見た和泉は、「よしよし」と満足そうに目を細める。
楽しかったよ、和泉。当たり前でしょ。
だって、こんなにたくさん、あなたとお話できたんだから。
和泉と過ごした時間。それらはすべて、私にとってかけがえのないものだ。一緒にカフェに行ってバイト先の先輩のグチを聞いたり、一緒にケーキ食べ放題に行ってお腹こわしかけたり、一緒にカラオケに行ってあなたの歌声を聴いたり。どれもささいなことだったけれど——和泉にとってはささいなことだっただろうけれど、私にとっては大切な思い出。私の人生に彩りを与えてくれた、宝ものの思い出。
和泉、あなたはどうだった?
私と一緒にいて、楽しいと思ってくれた?
「小夜子がそう思ってくれてたなら、あたしは満足だ」
私は自分のつま先を見つめた。和泉はそういう子だ。自分の楽しみは二の次で、他人を喜ばせることばかり考えている。私が楽しければそれでいいんだ。
……じゃあ、和泉は楽しくなかったのかな。
よほど不安そうな顔をしていたんだろう、和泉は私の表情を見ると、私の頬に手を当てて、諭すようにささやいてくれた。
「小夜子が楽しければあたしは楽しいし、小夜子が嬉しいなら、あたしも嬉しいの。小夜子が悲しかったらあたしも悲しいんだから、そんな顔しないでよね」
ぺちん。頬に当てられた手で、そのままおでこをたたかれた。
「あたしも楽しかったってこと。小夜子ならわかってくれてると思ったのに」
おどけたように頬を膨らませる。
「……うん」
私は和泉にたたかれたおでこをさすった。そんな私の仕草を目にして、彼女はいたずらに微笑む。
甘い痛み。私の心を撫でるようにくすぐる、和泉の言葉と動作、そして表情。
私はこれで充分だった。卒業式の前日、だれもいないふたりきりの教室で、私と和泉は笑い合っている。私にとってはそれだけでよかった。これもまた、私の人生を彩る思い出のひとつになっていくんだ。
でも——ひとつだけ願いが叶うなら、この時間が永遠に続けばいい。和泉と過ごすこの時間が、私のすべてになればいい。
和泉はどうかな。
私のささやかな願い、受け止めてくれるかな。
「そうだ、小夜子は? 小夜子の好きな言葉はなに?」
「わ、私? 私は……句点、かな」
「クテン?」
和泉は不思議そうに小首を傾げた。
「『まる』だよ、『まる』」
「『まる』……?」
彼女はそう言って、右手の人差し指と親指で輪っかをつくり、私の目の前に掲げた。
きれいな指。
「作文とかで使う、あのちっちゃな丸のこと?」
「そう」
「へえ!」彼女は心底驚いたようだった。「あんな丸のこと、好き嫌いで考えたことなかった」
ふつうはそうだろうな。やっぱり私はどこか異常なんだと思う。どこか歪んでいて、壊れていて、狂っている。
「なんで? なんで丸が好きなの?」
「それは……」私は逡巡した。「……制約だから、かな」
「セイヤク?」
彼女は異国の言葉でも聞いたように、私の言葉を繰り返した。
「言葉は句点を超えて存在することはできないの。句点があれば、それは言葉の終わり。そして句点がなければ、物語は語られることができない。物語のなかでぜったいにないといけない言葉なんてないけれど、句点は使うのがルールでしょ。それが言葉の制約であり、限界なの」
「……?」
「わからないよね」
「うん、ごめん、ちょっとわかんなかった」彼女は正直だ。もし私だったら、あいまいに笑うことしかできないだろう。
「でも、小夜子、制約とか限界とか、そういうのが好きってこと?」
「そういうことかな。不安なんだ、『ここまで』って言うのが決められていないと」
物語の限界、言葉の制約——それはつまり、そこから先は何かを伝える手段がないということ。伝達手段がなければ、自分の感情が漏れ出ることもないし、逆に言えば、誰かの言葉で傷つけられることもない。
いわば檻のようなもの。自分の感情と、外の世界との、はっきりとした境界線。
十数年間、私はそうやって生きてきた。
「やっぱり小夜子はすごいね。あたしの知らない本、たくさん読んでるもんね」
「べつにすごくなんか」
「大学行かないなんて、ほんとにもったいない。小夜子頭いいんだから、ぜったいにすごいひとになるのに」
「……」
和泉に悟られないように、スカートに隠れた膝頭の青あざをさすった。でも、和泉はやっぱり勘が鋭い。わずかに揺れ動いた私の心の機微を、感じ取ってしまう。
「あ、ごめん……ちょっと無神経だったかな。事情はよく知らないけれど……小夜子、ほんとうは進学したいのに、就職するんだよね」
和泉は申し訳なさそうに目を伏せる。ううん、と私はかぶりを振った。そんなこと、和泉が謝ることではない。私の事情なんて、あなたは知らなくていい。だから、和泉、そんな顔はやめて。私なんかのために哀しまないで。太陽みたいに明るいあなたの笑顔を、私はずっと見ていたいの。
「でも、自由もいいかもしれない。自分で選び取って、自分で決めて生きていく。そこにあらかじめ決められた限界なんてないし、制約なんてない」
私はじっと和泉を見据えた。彼女はまだちんぷんかんぷんという様子で、呆けた表情で私を見つめている。桃色をした薄い唇のあいだから、並びのよい白い歯が垣間見える。
きれいな口。
私はその隙間に吸い込まれていきそうな、甘い眩暈を覚えた。自分の脈動が早くなるのを感じた。声が震え出す。
「ねえ和泉」
「ん?」
彼女は私を見つめながら、小首を傾げた。
「どうしたの、小夜子?」
私の唇はからからに乾いていた。酸みたいな味のするぬるい生唾を飲み込んだ。
制約から解き放たれる。そこにあるのは自由。
——自由って、素敵なことだよね。
それは和泉が教えてくれた。
「私ね、和泉のことが好きだよ」
私の震えた声が教室に響き渡った。彼女の表情が一瞬で冷えて固まったように見えた。しかしすぐに温度を取り戻し、いつもの笑顔に戻った。
「なによ急に……。私も小夜子のこと好きだよ。これからも仲良くしようね」
「ちがう」
私は和泉を見つめた。
「ちがう、そうじゃないの」
「……なにがちがうの?」
「付き合って欲しいの」
今度はほんとうに、彼女の表情から温度がなくなった。私という存在をこの世界に許してくれるもの、この世界につなぎ止めてくれるものは、その瞬間に目の前から姿を消した。
「……あたしたち、女の子同士だよ。どういうこと?」
突き放すような声色。異質なものを見るような視線。
「そのまんまの意味だよ」それでも私は平然として言葉を放った。「和泉と付き合いたいの、手を繋いで街を歩いて、一緒にミスドのドーナツ食べて、ショッピングしてかわいい洋服とか買って、それで」私は言葉を止めることができなかった。句点はどこだ。「お互いの部屋に行って、キスとかして、おっぱい触ってあそこ触って、それで、繋がりたいの」
「……」
「繋がりたいの」
私は繰り返し言った。このまま卒業したくないという思いが、私にここまでさせたのかもしれない。後悔はなかった。私は自由になりたかったんだ。和泉みたいに、自分の言いたいことを言って、やりたいことをやって、伝えたい思いを伝えて——後悔はなかったはずなのに、私の感情に急に句点が穿たれたみたいに、それ以上言葉を発することができなくなっていた。
和泉は一歩後ろに退いた。そして、「ごめん」という一言。
私は視線を落として眼鏡を弄んだ。そのとき、私の心と和泉のいる世界とのあいだに、はっきりと境界線が描かれているのが見えた。
「あたし、付き合ってるひとがいるの」
「……そうだよね」
「すごい優しくて、いいひとで、頼りがいがあって、それで……男の子、で」
彼女は力なげにうつむいた。長い髪がはらはらと垂れ下がった。
きれいな髪。
艶やかな輝きを放つキャラメルブラウンの髪から、私は目が離せなくなった。いますぐ彼女のもとへ駆け寄って、きれいな髪の上から、優しく頭をかき抱いてあげたい——そして、いますぐぎざぎざに切り刻んで、和泉の泣く顔も見てみたい。どんな顔で泣くんだろう。きっと、泣き顔もきれいだろうなあ。
私の心の中のどこか深いところで、ぴちゃん、と雫がこぼれ落ちた音が聞こえた。
「あと、あたし、そういうの無理だから」
そう吐き捨てるように言うと、和泉は小走りに教室を去っていった。
私はその後ろ姿を、いつまでもいつまでも見つめていた。
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