『月と酩酊』

月と酩酊

 つくるのに失敗した水ようかんみたいな色の夜空に向かって、私は「あああああ」と叫んだ。だれに聞いてもらうためでもない、ただ声をあげたいがための純度100%の叫び。近所迷惑、社会人としての節度ある言動、そんな言葉がぼんやりと頭に浮かぶが、もはやその言葉に貸す耳を持ち合わせていない。私が天から授かったなけなしのふたつの耳は、いま私自身の心の叫び声を聴くのに精いっぱいだからだ。

「——ああああああ!」

 ひととおり気がすむまで叫んだあと、私はふう、と溜息をつく。

 見上げると、水ようかんの夜空には黄色い月がぷわぷわ浮かんでいる。あー、おいしそう、と私は思った。今日の夜空はどちらかと言うと栗ようかんだ。月みたいな栗、じゃなかった、栗みたいな月。見つめていたらなんだか栗ようかんを食べたくなってきた。コンビニ寄ろうか。しこたま呑んだ麦酒のあとにはあまり合わないけれど、今日くらいはそういうぜいたくもいいかな。いや、太るか。まあいいや、べつに私が太ったってだれかが哀しむわけでもない。ましてや、私の体重の微増で地球の裏側の子どもたちが苦しむわけでもない。まあ、せいぜい古いアパートの階下の住人が、私の足音をすこし気にするようになるくらいだろう。

 そんなことより空を見上げて、あゝ栗ようかん、でも太る、いやちょっとくらいなら……ぐるぐるぐるぐる思考がめぐる。ついでに目の前の世界もぐるぐる回って、いつの間にか頭の上には夜空ではなく硬い壁があって、あれ栗ようかんはどうした、頭いたいし、と思ったら道端の石塀に寄りかかって頭をぐりぐりこすり付けていた。なにやってんだ私。トンネル掘削機か。

「うう……前後不覚」

 アルコールに激烈に強いわけではない、それは前からわかっている。けれど、今日の私はなんだか調子が悪い。ふだんなら麦酒をしこたま呑んだくらいでこれほど前後不覚になることはない。はずだ。たぶん。おそらく。だと思われる。その可能性は大いにある。ちょっとくらいはある。いや記憶にないだけかもしれないけれど、酒癖の悪さで知り合いにからかわれたことないし。

 今日の私はただ、ふとしたきっかけで体内に侵入した小さなとげが、心のどこかに引っかかって取り出すことができない。

 ——椎戸しいどさんは彼氏いないのぉ? はやくしないと行き遅れちゃうよぉ?

 その言葉を思い出して、私はまた叫んだ。「むきぃー!」知るかボケっ! うるさいハゲ親父っ! それは立派なセクハラだからな、裁判になったら私が勝つんだぞ!

「むぐぅ……」

 なんだかお腹が痛くなって、その場に座り込んだ。

 今日の飲み会は最悪だった。先週結婚したばかりの、会社の後輩のおめでとう会。見た目も雰囲気も女の子らしい、職場のおじさんたちにも人気の一般職。まわりからちやほやされて、褒めそやされて生きてきたんだろう。わかる。めっちゃいい子だし。たしかにかわいいし。じゃあ。私はどうする。立場ないじゃん。後輩の結婚なんて嬉しくないわけがない。めでたくないわけがない。でも、私はどうすればいい? だいじな後輩の結婚を心の底から素直に喜べない私は、いったいどうすればいい? 上司にセクハラされてもなにも言い返せない私は、いったいどうすればいい?

 その問いにはだれも答えてくれない。ようかんに浮かぶ栗も、いましがた頭をぐりぐりした物言わぬ石塀も。

 それもこれも、ぜんぶのせいだ。

「……」

 私はスマホを取り出し、電話アプリを呼び出す。そして電話帳からひとつの名前を表示させる。ずっと忘れようとがんばってきたのに、それでもいざ目にすると心臓が跳ね上がってしまうひとの名前。こいつのせいだ。私の人生が狂ったのは、ぜんぶこいつのせいだ。

 こいつが私の気持ちに気づかなかったばっかりに、私はいまこんなにも苦しんでいるんだ。

「……っ!」

 酔いの勢いに任せて、発信ボタンをタップする。もう知らん。どうにでもなれ。もし出たら一瞬で切ってやる。もし出なかったら末代まで呪ってやる。私の心をこんなにもかき乱した罰だ。

 数秒のコール音ののち、画面には「通話中」の文字が浮かんだ。自分でやったくせにテンパってしまって、私はスマホを取り落としそうになる。奇蹟的な反応速度で地面に落ちる寸前で受け止める。よかった、もし落としたりしたら向こうがびっくりするだろう。あわててスマホをなけなしの耳の片方にあてる。

『……もしもし?』

 小さなスマホの筐体から聞こえる、懐かしい声。一瞬で切ってやると意気込んでいたくせに、いざその声を聞いてしまうと、スマホを握る手に力が入ってしまう。こんなはずじゃないのに。やっぱり今日の私はどこかおかしい。そしてやっぱり、私の人生を狂わせるのはほかならぬこいつなんだ。

麻子まこ?』

「はい、麻子です。椎戸麻子です。どうもごきげんよう」

 何キャラなんだよ、と自分で自分に突っ込む。

『……どうも、相賀おうかじんです』

 知ってるわ。律儀に返しやがって。

『どうかしたの?』

 相賀にそう言われて、私は言葉につまる。どうかしたのか、だって? どうかしてるのだ、今日の私は。どうかしたのと訊かれて、いったいなんて答えればいい?

 言ってしまおうか。酔いの勢いに任せて電話をしたなら、おなじ勢いで気持ちを伝えてしまおうか。

「……月が綺麗だな、って思って」

『……は? なにそれ、もしかしていたずら電話?』

 タチ悪ぃ、と相賀が悪態をつく。こいつ……と私の腹わたは煮えくりかえる。夏目漱石くらい常識だろ。なんで知らないんだ。こんなにわかりやすいのに、なんで気づかないんだ。鈍感め。こいつさては童貞か?

『麻子、もしかして酔ってる?』

「酔ってまへーん」

『それはただ単に呂律が回ってないだけなのか、とつぜん関西弁をしゃべりだしたのかどっちなんだよ……』

「これぇ? これはね……ええと、スワヒリ語れーす!」

『酔っぱらいめ……』

 そりゃそうだ。私は酔っぱらいだ。酔っぱらいじゃなけりゃ、そもそもおまえに電話なんてできっこない。

『月、綺麗なの?』

「うん、栗ようかんみたい」

『それって綺麗って言うのか……?』

「おいしそう」

『……さいですか』

 私は立ち上がってまた歩き出した。視界にはようかんの夜空が広がる。ぴかぴか煌めく栗からしたたる淡い光が、道端の電燈や家々の窓にひっ付いて、深い宵闇にぼんやりとにじむ。

 綿菓子みたいなふわふわの雲が栗にかぶさった。栗ようかんにふわふわの綿菓子。今日は甘いものオンパレードのぜいたくな夜だ。

「あ、流れ星!」

『お、よかったじゃん。願いごと言え』

「相賀が一生独身でだれからも愛されない寂しい男になりますように!」

『おいっ! なんでそういうときだけ滑舌いいんだよっ!』

「あれぇ? ……なんだ、流れ星じゃないじゃん。ただのUFOだった」

『なんだそうか……って、それ事実だとしたらとんでもない大発見だぞ……』

「UFOは相賀を寂しい男にしてくれないから興味ないもーん」

 悪女め……と相賀は声を震わせる。

『麻子、今日めっちゃ酔ってんのな』

「さよう。余は酩酊でおま」

『おまって……』

「気持ち悪いでおま」

『歩き途中か? 道端で吐くなよ』

「吐かないよ。いまひとりだから受け止めてくれるひといないし」

『仮にひとがいても受け止めさせるなよ……』

「相賀だったら受け止めてくれるよね?」

『い、や、だ』

「ノリ悪いなあ」

『おまえのテンションがおかしいんだよ』

「いつものことでしょ。私はそういう人間なの」

『そう、麻子はそういう人間として一生を生きていくしかない』

「人生って儚いねえ」

『うん、人生は吐かないのがいちばんいい』

「だれも受け止めてくれないしね」

『そうだね』

「あはは」

 いつものような愚にもつかない会話についつい笑ってしまう。電話の向こうからも、くすっ、とかすかな空気の揺らめきを感じた。

「なにしてたの?」

『明日の仕事の準備だよ。だいじなプレゼンなんだ』

「いぇーい、がんばってねぇ」

『当たり前だろ、だから俺は忙しいんだ。酔っぱらいに構ってるひまはない』

「なんだとぅ?」

 つまんねえこと言うやつ。

「もういいよ。はいはい、お忙しいところお邪魔いたしまして申し訳ございませんねえ。今日は綺麗ですねっ!」

 儚い人生を嘆いたところで通話を切ろうとする。そこで、相賀が低い声で『麻子』と呼びかけた。

「なに?」

『いやなこと、あったんだろ』

 私は歩みを止めた。薄暗い住宅街の路地に冷たい風が吹き抜ける。

「……どうして」

『わかるよ。麻子、あんま無理すんな』

「……」

 返す言葉がなくなって気恥ずかしくなった私は、足許に落ちていた小石を蹴り上げて空気を取り繕おうとした。

「なにー、もしかして心配してくれてんのー?」

『当たり前だろ』

 私がふざけて吹っかけた言葉に、相賀はまじめくさった声で返す。

 月にかかっていた雲が流れ、ふと、私の足許は明るくなった。

「な、なにそれ、急にへんなこと言わないでよ」

『急にへんな電話してくる麻子に言われたくない』

「そ、それは、」

『ま、麻子のその気まぐれを受け止めてやれる懐があるのは、この世界に俺くらいしかいないもんな。感謝しろよ』

 吐いたもんは受け止めらんねえけどな、と彼は言う。上手いこと言ったと言わんばかりの得意気な相賀の表情が頭に浮かぶ。そんな彼のようすに安心してしまって、恥ずかしくなった私はスマホを握りしめ、あわてて叫んだ。

「うっせー、ばーかっ!」

『な……っ!』

「ありがと、じゃあね!」

 切話ボタンをタップする。「通話が終了しました」という画面の表示をしばらく見つめたあと、私は目を閉じた。

 ——わかるよ。麻子、あんま無理すんな。

 ——当たり前だろ。

 あいつ、そういうことふつうに言っちゃうんだもんな。

 私の心をこんなにもかき乱たくせに、こんなにもあたたかくしてくれる。

 卑怯ものめ。

「……そっか。心配、してくれてんのか」

 私は思う。

 相賀、おまえのことが好きで、ほんとうによかったよ。

 私の憂鬱の大半はおまえが原因なんだけどな。まあ、今日はとくべつに赦してやろう。

 また夜空を見上げる。月はいまも煌めいている。

「そうだ、栗ようかん」

 そう言ってふたたび歩き出す。酩酊もすっかり醒めた私の、コンビニまでのその道のりを、月はきらきらと照らし出してくれていた。

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