短編讃歌

『瞳に映る夢』

瞳に映る夢

 トウコ、というのが彼女の名前だった。瞳の子、と書いて瞳子。とある日の昼下がり、僕らが初めて話したとき、へんな名前でしょ、と彼女ははにかむように笑った。

 瞳子さんはこの海辺の街の片隅にある、小さな喫茶店を営んでいた。かわいい雑貨にあふれた店内は、いつも綺麗に掃除されていた。彼女の淹れる珈琲は、気取った嫌味のない、彼女らしい味だった。

 彼女は本を読むのが好きだった。僕が店の扉を開けると、カウンターの向こうにはいつも彼女が座っていた。その手には、カフェオレみたいな色をしたブックカバーがかけられた、小さな文庫本。

「夢中になっちゃうんです」と彼女は言った。「物語って、まるで自分がそこにいるみたいに思えるでしょ。ファンタジーとか、SFとか、こっちの生活ではありもしない出来事を、まるで自分の体験みたいに思うことができる。それってすごいことでしょ」

 現実の世界のことを「こっちの生活」と表現するあたり、彼女がどれだけ物語の世界に没頭しているかがうかがえる。

「まるで夢みたい。今日みたいな晴れた日の午後に見る、白昼夢のような」

 いまはどんな本を、と訊ねると、彼女は恥ずかしそうにブックカバーを外し、文庫本の表紙を見せてくれた。べつに服を脱がせたわけではないのに、耳たぶを真っ赤に燃やす彼女の顔を見ると、なんだか悪いことをしたような気がした。文庫本の表紙には、ちょんまげの武士が描かれていた。いま彼女は、はるか江戸時代にまでタイムスリップしている最中なのだ。



「自分で物語を書かないんですか」

 僕がそう訊くと、瞳子さんはどちらともつかないような微妙な表情をした。

「うぅん」

煮え切らない返事のあとに、「書かないわ、恥ずかしいもの」と続けた。

「どんな話なんです? 瞳子さんの書く話なら、僕は読んでみたいなあ」

 僕がそうかまをかけると、彼女はぱっと笑顔を弾けさせて「ほんとに?」と訊いてきた。わかりやすいひとだ。僕が笑うと、彼女は「あ! 嵌めたのね、ひどい!」と怒った。



 彼女の人となりのとおり、まっすぐで明るい物語だった。その物語を読んでいるあいだ、僕は幸福だった。いつでも瞳子さんがそばにいるような気がした。僕がページをめくるとき、物語の中で瞳子さんは、あの喫茶店を扉を開けたときのように、暖かな笑顔で僕を迎えてくれた。原稿用紙に並ぶ端正な手書き文字は、彼女の見ている白昼夢を僕に雄弁に語り聞かせてくれた。

 お話を書いて暮らすのが夢なの。彼女はそう言った。なれますよ。僕はそう言った。心からの言葉だった。彼女は昼下がりの太陽のように笑った。



 瞳子さんの口から閉店の話を聞いたのは、初めて会った日からしばらく経ってからだった。外にはどしゃ降りの雨が降っていた。僕は瞳子さんから借りたバスタオルでずぶ濡れの服の水分を拭き取りながら、彼女の言葉を聞いた。

 実家の父の容態が良くないという。母を早くに亡くし、しばらく独り暮らしだったが、先日大病を患い、病院のベッドで昼夜を過ごしているとのことだった。

「そうですか」と僕は言った。

「ごめんなさい」彼女は言った。

「……そうですか」僕はもう一度言った。そして、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。



「瞳子さんのたいせつなものってなんですか」

 やっぱりこのペンですか。いつも彼女が使っている、古びた万年筆を手に取りながら僕がそう訊ねたら、彼女は静かに首を振った。

「物語はペンがなくても書けるんです。夢見ることを忘れなければ。夢見ることを諦めなければ」

 彼女はそう言った。こんな昼下がりに見る白昼夢のような、「想像すること」を放棄しなければ、物語はいつだって書けるんです。



 いまはもうすっかり寂れた、あの喫茶店のあった建物の前で、僕は瞳子さんの淹れた珈琲の味を思い出していた。正直、あんまり美味しくなかったなあ。きっと今日みたいな晴れた日の昼下がりは、彼女はきっと諦めずに夢を紡いでいるんだろう。大丈夫です、瞳子さんならきっとなれますよ。

 彼女の瞳には、いまどんな物語の世界が映っているんだろう。そんなことを考えながら、僕は彼女の幸福を願った。

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