『スリーピング・プリンセス・シンドローム』

スリーピング・プリンセス・シンドローム

「先輩って、いわゆる『本の虫』ですよね」

 そう話しかけると、先輩は読みかけの文庫本から顔を上げて、ぼくを見つめた。

「なによ、唐突に。まあ確かに読書は好きだし、『本に熱中する人』『愛書家』って意味では、本の虫かも知れないけど——」

 先輩はそう言って、文庫本を机の上に置いた。脇にあったしおりをちゃんと挟んで置くあたり、ほんとうに律儀な人である。

「——女の人を捉まえて『虫』だなんて。ちょっと失礼じゃないかしら? よりによってこんな純真な女生徒に対して」

 まったくしつけがなってない後輩ね、だれが教育したのかしら。先輩はそうぷりぷり怒りながら、ふっくらと薄紅色の頬を膨らませた。そして、読みかけの文庫本を取り上げてふたたび読み始めた。

「あはは、ごめんなさい先輩」

「心がこもってないわね」

「ところで先輩。どうして何かに熱中する人のことを、『虫』って言うんでしょうね」

「………」

 文字を追っていた先輩の視線が止まった。彼女はその内から溢れ出る好奇心のせいで、少しでも気になったことには、こうして律儀に反応してしまう。

「どうしてでしょうね」

「先輩、『本の虫』って英語でなんていうか知ってますか」

「……ビブリオフィリア、だったかしら」

「ご名答」ぼくはポンと柏手を打った。「さすがです」

 ぼくの言葉に気を良くしたのか、先輩は「ふふん」と得意気に鼻を鳴らした。

「そういうきみは、なんの虫なの? 文芸部に入ってこの方、本を読んでいるのを見たことがないけれど」

「ぼくですか。ぼくは……そうだなあ、『睡眠の虫』とでも言いましょうかね。明日に備えて英気を養うために、一生懸命睡眠をとること……それが至上です。睡眠を愛していると言っても過言ではない。ちなみに睡眠愛好は『ソムノフィリア』というらしいですよ」

「自慢気に言うことじゃないわ……こんなところで寝ちゃだめよ」先輩は呆れ返った様子で柳眉を傾けた。「でも、そう言って明日の部活中も寝るんでしょ? あんまり英気を養いすぎても、ホエー豚ぐらいにぶくぶく肥えるだけよ」

「ぼくの英気がですか」

「そうよ」

「ぼくは先輩の英気のホエー豚だったら食べたいです!」

 唐突に叫んだぼくに対して、先輩は顔を赤らめながら怒った。「私はたまにちょっと疲れてうとうとしちゃうだけ! 好きで寝てる訳じゃないの!」

 まったく、だれがこんな文芸部員に育てたのかしら……先輩はぶつぶつ小言を吐きながら、ふたたび文庫本に意識を注ぎ始めた。


 ——部活時間の終了間際。

 すう、すう、と小さな寝息が聞こえる。遠くで吹奏楽部の合奏の音が響く。

 ぼくは気付かれないように先輩のそばに近づいた。静かな寝息に合わせて、肩がゆっくりと上下している。そうっと長い髪を搔き上げる。隙間から覗いた寝顔は、今どの物語の夢を見ているのだろう。

「……先輩」

 ぼくは静かに語りかける。反応はない。わずかに開かれた薄桃色の唇から、かすかな吐息が漏れている。廊下からは行き交う生徒の笑い声が聞こえる。

 そっと先輩の唇に触れた。確かな温度だった。ぼくの身体のなかの深いところで、りん、と鈴の音が鳴るのが聞こえた。

「先輩」

 ぼくはもう一度呼んだ。

 ソムノフィリア。睡眠愛好。

 眠っている相手に性的興奮を抱く、パラフィリア(性的倒錯)。

「こんなところで寝ちゃだめですよ。先輩がそう言ったんじゃないですか」

 ぼくはそう言って、先輩にもう一歩近づいた。吹奏楽の音も、廊下を行き交う生徒の笑い声も、もうすっかり聞こえなくなっていた。遠くの野山に夕陽は沈み、空は鮮やかな紫色に染まっていた。

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