短編神話
『未完成、あるいはこの世界の終わり』
未完成、あるいはこの世界の終わり
私は小説家である。それも売れない小説家だ。
部屋で机に向かっていても、小説のネタがまったく出てこない。うんうん唸りながらなんとかひねり出そうとしても、まったく駄目であった。私の中から出てくるものと言えば、昼間に喰ったカップラーメンがいい感じに消化された、いわゆる快便というものだけだ。頭の中はもやもやだが、腹の中はなんともすっきりであった。
あまりにうんうん気張りすぎて、私はうっかりペンを真っ二つに折りたい衝動に駆られた。
「これはいかん」
気分転換がてら自分の根城である六畳間を這い出た。街は師走も半ばを過ぎ、年の瀬が目前まで迫っている。街はイルミネーションでびかびかに飾り立てられ、私のような日陰者が安息を得る地はなかなか見当たらない。
しまった、と私は憔悴した。
街はもうすぐクリスマスを迎えようとしている。クリスマスとは、赤い服に白髭を蓄えた屈強な男どもの集団が、私のような日陰者を探し出しては追い回して、全裸にして市中曳き廻しの刑に処すという、世にも恐ろしい祭り事ではなかったか。巻き上げた日陰者の衣服や金銭は、煙突の上から一般庶民の住宅に無料配布されるという。ああ恐ろしい。はやく夕飯買っておうちへ帰ろう。
そう思った矢先、私は誰かに呼び止められた。
「お兄さん、ケーキいかがッスか」
声のした方を振り向くと、そこには赤い服を着た軽そうな若い男と、同じく赤い服を着た無表情な若い女が立っていた。私は咄嗟に身構えた。こいつらがあの悪名高きサンタクロースか、市井(ただし日陰者に限る)を暗澹たる恐怖に陥れる秘密結社の一員か。
「ケーキいかがッスか」
「……刑期?」
やはり市中曳き廻しの刑か! 若い女はいまだ無表情で私を見つめている。私は天を仰いだ。もはや年貢の納め時か。
「そッス。ケーキ。いろいろ種類あるんで、よかったら」
最近は刑期にも種類があるのか……私はおとなしく彼らに付き従った。ここで市中曳き廻しの刑に処されるのも、もしかしたら悪くないかと思えた。何故ならば、若い女はいかにも美人であったからだ。
連れてこられたのは、なんてことないケーキ屋だった。
「ケーキいかがッスか」
「ケーキ……」
刑期じゃなくてCake。いらねえ、と私は胸中で悪態をついた。何が哀しくて、十二月の六畳間で独りケーキなぞ喰わなければならんのだ。
「ケーキいらないんスか」
「うぅん、一人でホールはちょっと」
若い男はいかにも「こいつ身ぐるみ剥いで市中曳き廻してやる」とでも言いそうな眼で睨んでくる。ノルマでもあんのか、やめてくれ。対して女は無表情だ。心中を見通すかのような双眸で私を射抜いてくる。あんまり彼女が見つめるものだから、私は少し恥ずかしくなってきた。顔赤くなってるのバレてないだろうか。
「じゃあ何が欲しいんスか」
「……え?」
「世界の終わりッスか」
「………」
まるでケーキ屋の店員とは思えないその言葉に、私はしばし呆然とした。世界の終わり、だって?
「世界の終わりッスね。あざーッス」
男のその言葉を受けて、終始無表情だった女が手を伸ばした。その拳は何かを握っているように見える。女は、私に同じように手を伸ばして「それ」を受け取るように促した。
私がその通りにすると、彼女が拳を紐解いた。すると、私の掌に「それ」が落ちてきた。
真っ二つに折れたペン。
私が普段使っている、先程まさしく真っ二つに折ろうと思った、あのペンそのものだった。
女が口を開いた。
「それには私が、祝福と呪縛をかけた。貴方はもう、物語を完成させることは出来ない。貴方が物語を完成させれば、この世界は終わってしまう。物語の永遠の未完成、あるいはこの世界の終わり。貴方はどちらをご所望かしら」
彼女の青い深淵のような瞳に、私は吸い込まれそうだった。男が「お会計ッス」と言わなければ、私はそのまま気を失っていたかもしれない。
「世界の終わり一点、四九八〇円ッス」
恐ろしくなった私は五千円札を男に突き付け、お釣りも受け取らずにケーキ屋を後にした。部屋に帰ってペンを机上に放り投げ、すぐにふかふかの蒲団を頭から被り、眠った。この出来事が夢だと願い、眠った。
朝起きて目を向けると、真っ二つに折れたペンが、机上に乱雑に置かれていた。
「成る程」
編集担当氏はいかにも胡散臭いとでも言いたげな表情を寄越した。
「ケーキ買わされると思ったら折れたペンで、それには呪いがかけられてて、もう小説を書き切ることが出来ない、と」
「はい」
「何故ならば、小説を完成させたら世界が滅びるから、と」
「はい」
「馬鹿かコノヤロウ!」
担当氏はぽかぽか頭を殴ってきた。痛い、痛いからやめて!
「尾富センセイ、いい加減変な言い訳やめましょうよ。締切はこの年末なんです」
「うむ」
「うむ、じゃねえよ。本当にわかってんのか」
担当氏は僕に大して怖くない視線で睨み付ける。
「センセイ、最近全然ぱっとしませんよね。短編の『彗星カレイドボーイ』だって評価イマイチだしつまんないし、『夜はご存知ない』なんてただの雰囲気小説じゃないすか、つまんないし」
「むぐう」
「こっちはクリスマス返上であんたの原稿を督促するんだ……あー、なんか腹立ってきた。この売れない三流作家め、万年引きこもりのくせに何やってんだ! 俺と彼女とのユメのひとときを返せ!」
「どう、どう」
億劫になりながらも、上野動物園の猛獣みたいな様相を呈してきた担当氏をなだめた。ていうか、担当氏彼女いたのか。こんな甲斐性のない男にくっ付くなんて、物好きなジョシもいるものだ。
私は自らの非業を嘆いた。世界の命運は私の手に握られている。六十億人(推定)の生命は、私の小説の進捗に懸かっているのである。
ああ、神よ! 我を助けたまえ!
「お会計お願いします」
店員に呼ばれ、見ると担当氏の姿はすでになかった。
「珈琲二点、一〇〇〇円です」
彼の飲んだ珈琲の伝票は、テーブル上にそのまま残されていた。
それからの数日間、私は自室に立てこもった。
やはり小説のネタは浮かんで来なかった。それもそのはず、私はもはや考えてすらもいなかったのだ。「物語を完成させたら世界が終わる」だなんて馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、その言葉は心のどこかに引っかかっていた。部屋の隅に折り畳んだ蒲団の上に投げ出したスマートフォンには、一時間おきに担当氏からの進捗確認メッセージが入ってくる。それらを全て無視し、電気も点けない薄暗い部屋の中で、PCを起動してネットの海に沈んでいた。
世の中には星の数にも等しいほどの物語がある。書籍として出版されているものはもちろん、インターネットに公開されている作品もあるのだ。それらは投稿サイトに投稿され、数多の人たちの目に晒されている。お互いがお互いを評価し、批評して、「おもしろい創作とは何か」を探究しているようだった。
「おもしろい創作」だなんて——私は半ば自棄になりながら、とある投稿サイトを眺めた。そして、その中のいくつかを読んでみた。
「うむ」
最初は「ちょっと読んでみてやるか」くらいの軽い気持ちであったが、いつの間にか次第に没頭していった。何が私にそうさせているのかは分からなかった。しかし、自分の中で何か忘れかけていたモノを思い出させられるような、不思議な感覚がした。
いくつもの作品を読んでみる。掌編、短編、長編、そこには沢山の物語があった。誰かに読まれるために、誰かの目に触れるために、物語はそこに黙して待っている。ひとたびクリックすれば、そこにはひとつの世界が広がっている。「おもしろい創作とはかくあるべし」という、熱い想いが伝わってくる。
そうだ、これだったんだ。
私の忘れかけていたものは、これだったんだ。
スマートフォンが鳴った。
出ると、担当氏であった。
『尾富センセイ、もう締切は明日ですよ! 編集長に五体投地で土下寝する覚悟は出来ているんでしょうね!?』
「……覚悟?」私は言った。「そんなものとうに出来ている」
『なに格好いい感じに言ってんすか、そんな覚悟する前に原稿仕上げろこのダメ作家!』
担当氏の怒鳴り声がスマートフォンの小さな筐体を震わせる。しかし私は動じない。そうだ、もう覚悟は出来ているのだ。
「覚悟は出来ているよ。世界を終わらせる覚悟がね」
『はあッ!?』
私は通話を切断し、スマートフォンを再び蒲団の上に投げ出した。そして部屋着のままコートを着込み、机上から「それ」を掴み取って、サンダルをつっかけて外へ飛び出した。二〇一五年もあと一日、新しい年へ急ぎ足で向かっている街を、私は駆け抜けた。
街は生まれ変わろうとしている。
世界は生まれ変わろうとしている。
ならば、自分はどうか?
新しい一歩を踏み出す勇気は、覚悟は、その心の中に炎を灯しているか?
私はケーキ屋に辿り着いた。クリスマスも終わり、客足はすっかり落ち着いているようだった。全力で走り抜けてきた私を認めた女性店員は、ぜえぜえ肩を揺らす私にややドン引きしながらも、「いらっしゃいませ」と言って笑顔を向けてくれる。あのとき私に折れたペンを渡した女ではない。私は彼女ににじり寄り、掴んで持って来た「それ」を突き付けた。
「これ、売ってますか」
「……はい?」
「世界の終わりですよ、これ。売ってないんですか?」
私の顔と折れたペンを交互に見比べ、店員はぷるぷる小刻みに首を振った。私はそれで確信する。
世界の終わりなんて、そもそも売っていなかったんだ。
考えてみれば当然の話だ。ここはケーキ屋で、渡されたのは私のペンで、行き詰まっていた私はそれを折ろうとしていて——きっと実際に折ってしまったんだろう。他ならぬ私自身が。あのとき外には出ていないし、ケーキ屋にも行っていないのだ。全ては私が、創作の魔に追い詰められた私が見た、幻想だったんだ。
なぜなら、おもしろいと思っていなかったから。
創作というものの真髄を、忘れかけていたから。
物語というものの本質を、見失っていたから。
私は思い出した。創作というものが、どれほど心踊るものかを。世界なんて終わらせておけばいい。ならば私が、また新しく世界を始めてやろう。物語にはその力がある。読者一人ひとりの意識の中に、ひとつの世界を構築してしまう力がある。私はその力を信じている。
「私はやるぞ! 見ていろ、栄光の文壇よ、偉大なる文豪たちよ!」
周囲は騒然となった。ケーキ屋の前で快哉を叫ぶ私を見て、通行人のおじいさんの目が驚愕に見開かれていた。
自室に帰還した私は、過去に類を見ない速度で原稿を仕上げた。完成稿を担当氏に無事メール送信し、私はふうと一息ついた。そして、なんとはなしにあの投稿サイトを覗いてみた。
そこではやはり、「おもしろい創作」を真摯に追究する人々が、今日もお互いを切磋琢磨しているのだった。
しばらく眺めているうちに、担当氏から着信があった。
『尾富センセイ、原稿確認しました。お疲れさまでした』
「うむ。大儀であった」
『……あ、あの。なんか言うことないんですか。時計見てくださいよ。もう短針がてっぺん越えてますよね? ゆく年くる年終わっちゃいましたし、何ならガキ使も終わってますよ』
「いかにも」
『俺なんて言いましたっけ、締切は今年の年末って言いましたよね。今年ってあれですよ、申年のことじゃないですよ? どういうことかわかってます? 俺ずっとセンセイの原稿待ってたんすよ、年末年始返上で。どういうことかわかってます?』
「うむ。やはり君には悪いことをした」
『そうそう』
「その労は労ってやらないとな」
『その調子』
「こほん」
私はひとつ咳払いをし、言った。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
『そういうことじゃねえ!』
私が原稿を仕上げたら、世界ではなく二〇一五年が終わっていた。
たとえ世界が終わったとしても、また始めればいい。物語にはその力がある。
物語の完成——それは世界の始まりだ。
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