5−7
「これまでの柊政権には、たしかにさつきは勝ち続けていた。もし仮にそのまま今回の選挙を迎えていたら、わたしはこんなことしなかったと思う。でも今回はちがった。たったひとつの要素が選挙を狂わせた。柊政権にとって……柊阿久乃にとって、それは決定的なちがいで、革命的なちがい。その存在だけで今回の選挙の結果を覆しかねない、柊阿久乃の唯一の武器。それが、きみという存在」
「……そんな、」
僕は窒息しそうになりながらも声を絞り出すしかなかった。「わからないですよ、そ、そんなこと」
「さつきもきみを警戒していた」
はづきさんの言葉で、僕の絞り出す空気は喉の奥に押し込められる。
「どうにかして柊阿久乃からきみを引き離したいと、悩んでいたんだよ」
あのお見舞いの日にさつき会長が保健室で見せた、僕に向けた真剣な眼差し。あのときさつき会長は、僕を善桜寺政権へ引き入れようとしていた。柊阿久乃から僕という存在を取り除くために。
「でも、どうして」
ぼくは阿久乃会長に問いかける。「阿久乃会長、得票数で勝てばいいって言ってたじゃないですか、なのにどうしてこんなことに」
「きみを見捨てることはできなかったみたいだね」
「……え?」
はづきさんが言った言葉の意味を、僕はしばらく理解しあぐねた。
僕を見捨てることができなかった?
「……どういうことですか」
「きみはあっちゃんの、弱点なんだよ」
「弱点……?」
僕の間の抜けた声が時計塔に響く。はづきさんは、そう、とうなずいて言葉を繋いだ。
「気づいてなかったの? きみがあっちゃんの期待に応えれば応えるほど、あっちゃんの役に立てば立つほど、あっちゃんはきみを無下にできなくなる。あっちゃんがきみの能力を買って、きみがあっちゃんの信頼を勝ち取れば、ふたりはもう泥沼のなかなんだよ。他人を信頼するというのは、弱さを見せつけ合うということ。弱さを共有するということ。皮肉なものだね、きみはあっちゃんにとって最大の武器でありながら、最大の弱点でもあったんだよ」
最大の武器であり、最大の弱点。
会長は僕なんかのために、あれほど勝つことを望んでいた選挙を、捨てたっていうのか?
ということは、ほかでもない僕の存在が、阿久乃会長の悲願の邪魔をした……?
僕は天を仰いだ。
阿久乃会長は僕のことなんてなんとも思っていないと思っていた。奴隷なんていう役目を押し付けて好き放題こき使って、自分のわがままばかり通して僕の言うことなんてこれっぽっちも聞いてくれないで、彼女が抱いているその感情に触れさせてもくれずにいつも僕を置いて行ってしまう、そう思っていた。めちゃくちゃにまわりを引っ掻き回して、そのうえめちゃくちゃは生徒会の特権だと信じきっていて、自分の道の正しさを信じて疑わない瞳で突き進もうとする、そんなひとだと思っていた。僕がいくら彼女の役に立ちたいと祈っても、彼女のそばにありたいと願っても、彼女は脇目も振らずにどんどん突き進んで行ってしまうんだ……そう思っていた。
けれどちがった。彼女はそんな自分勝手や自己満足で行動するようなひとじゃなかった。めちゃくちゃはあくまで目的達成のための手段であり、目的そのものではなかったんだ。「夏日の気持ち」をただひとり知っていて、苦しむ彼女のために吹奏楽部に単身殴り込んで暴れまわって、その罪をすべて背負いながら「夏日はなにも考えなくていい、苦しまなくていい」って声をかけて、それはまるでヒーローで……。
あれ。
僕はいったいなにをしているんだ?
夏日の事件のときだって。
僕が生徒会に入ったときだって。
阿久乃会長はいつのときも、だれかの道を照らす極光であり続けていたのに。
その光のおかげで、僕はここまで歩いて来られたのに。
その光から目をそらして、見ないようにして、気づかないふりして……僕はいったいなにをしているんだ?
「レン」
長く守っていた沈黙を、阿久乃会長が破った。
その声が、その言葉が、僕の心臓を容赦なくえぐりとる。
「おまえはよくやってくれたよ、もう生徒会奴隷なんかじゃない」
ほんとうになにやってんだ、と僕は思う。
阿久乃会長もはづきさんも、そして僕自身も……こんなところでなにやってんだ?
「……僕はあの日、阿久乃会長の言葉に救われたんです」
「……」
会長は無言で僕を見据えた。はづきさんも黙って僕の言葉を待っている。
「会長、憶えてますか? 僕が生徒会への入会を断ったとき、『あたしがおまえを必要としている、それだけじゃだめ?』って、阿久乃会長は僕にそう言ってくれたんです。人の役になんて立てないと思っていた僕が、会長のその言葉に救われたんです。僕はその言葉で、自分がここにいていいんだって思えたんです。それは会長のおかげなんですよ。会長、憶えてますか?」
会長は無言だ。
「夏日のときだってそうです。彼女も会長の言葉に救われました。『夏日はなにも考えなくていいんだ、苦しまなくていいんだ』って、会長はそう言ったんですよ。夏日言ってたじゃないですか、まるでヒーローみたいだったって。彼女にとって会長は、ピンチから救ってくれたヒーローだったんです。会長、憶えてますよね?」
僕は思わず、コウちゃんを握りしめる手に力をこめる。この言葉は、会長に届いているだろうか。気持ちがずっとすれちがい続けてきた、いまやものを言わない阿久乃会長に、僕のこの言葉は届いているだろうか。
「めちゃくちゃだなこのひと、って正直思ってました。奴隷なんていうとんでもない役職押し付けるし、言いたいことばっか言ってひとの話まったく聞いてくれないし、こんなひとがこの学園の生徒会長なんてやっていいんだろうか、ってずっと思ってました。だってそうですよね? ダンスを盗み見た僕のことを捜すために学生課に乱入したり、拾ったさつき会長の校章で人質だとか脅迫だとか言ったり、吹奏楽部のミーティングをとつぜん襲撃したり……『悪の生徒会』って呼び名はぴったりだと思ってました。こんなんで選挙に勝てるわけない、って……でも、僕は決めたんです。たとえ柊政権が今回の選挙に勝てなくても、学園の生徒全員が阿久乃会長を認めてくれなくても、僕はあなたのそばにいる」
会長の肩がぴくりと動いた気がした。
「そうです、めちゃくちゃは生徒会の特権なんですよね? 今日は選挙当日なんです、なのにどうしてこんなところにいるんですか。この学園の生徒会長なのになんではづきさんの言いなりになってんすか。僕や夏日のときみたいに、まためちゃくちゃに引っ掻き回して、僕たちの心を掻っ攫っていってくださいよ。それは会長にしかできないんです。なのに、なのに——、」
僕は握りしめていたコウちゃんを思い切り投げつけた。
「柊阿久乃っ、こんなところでなにやってんだ! それでも僕らの会長かっ!」
ばふん、とコウちゃんは阿久乃会長の顔にぶつかった。ずるずるとずり落ちていく……そしてそれを、阿久乃会長の腕が掴む。
「……おい、レン」
会長が言った。「言いたいことはそれだけか」
僕は渇いたつばを飲み込む。暮れなずむ太陽の光のなかに、阿久乃会長の輪郭が浮き上がる。
「おまえ、
「……会長」
そのとき、僕はたしかに見たんだ。
僕の未来を照らす極光のような光が、阿久乃会長の瞳に煌めいているのを。
「もういちど訊こう……言いたいことはそれだけ?」
「……はい」
僕はしずかにうなずくと、会長は「わかった」と言った。そして僕の投げつけたコウちゃんを抱きしめてゆっくりと立ち上がる。彼女の一挙手一投足を見守っているはづきさんのまえで、会長は僕を真正面から指差してこう言った。
「レン」
「はい」
「この学園の——柊政権の生徒会長としておまえに命ずる。我が生徒会奴隷・未草蓮、おまえの力が必要だ。この世界のてっぺんを取る、このあたしについて来い!」
「……はいっ!」
そのとき、僕には光が見えた。
僕の行く先を鮮やかに照らし出す、極光のような光。夜の闇に沈み始めた世界のなかに煌めく、一番星みたいな光。そのあまりのまぶしさに僕が目を閉じて顔をそらし、ふたたび見開くと、そこには少女の姿があった。小学校高学年くらいの背丈の大きなリボンを頭につけた少女。僕はこの光の名前を知っている。ずっと望んでいた光だ。よかった、この光はまだ消えてなどいない。僕はそのとなりに立っていられる。
こうなった阿久乃会長はもう止められないだろう。これ以上僕がなにか言ったところで、もう彼女の耳には入らない。めちゃくちゃに引っ掻き回して僕たちを振り回すつもりだ。いや、彼女にそのつもりがなくとも、結果的にそうなってしまうんだ。
でも、それでいい。それがこの、柊阿久乃という少女。
「はづき」
振り返った会長がはづきさんに言い放つ。「ごめん。でもあたしは、さつきと勝負をしてるんだよ。あいつがなんのために永世名誉会長を目指してんのかは知らないけど、あたしはあいつと真剣勝負をしてるんだ。その理由がなんであろうと、正々堂々せいいっぱいの誠意をもって、全力で叩き潰す」
「……そうだね」
はづきさんは観念したようにため息をついた。僕は彼女の表情を盗み見る。彼女はどこか、なにかから解き放たれたかのように空を仰ぎ見ている。
「またきみにやられたね、未草くん」
「え、あ、いや」
僕がうまく返事をできずにいると、会長が僕のおしりを思い切り蹴飛ばした。
「痛ッ! ちょ、会長」
「はやく行くぞ、レンっ!」
そう言ってペンギンをぶんぶん振り回しながら階段を降りていこうとする。ひりひり痛むおしりをさすりながら、僕は会長のあとについていこうとする。
「あっちゃん」
その会長の背中に、はづきさんが語りかける。
「がんばってね。わたしの妹は、そう簡単には負けないよ」
「わかってる」
会長は答えた。「それでこそ善桜寺さつき、あたしのライバルだ」
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