5−6

 走った。

 走った。

 学園のお祭り騒ぎはどこか異国の出来事のように、僕の意識のうわベを撫でている。泡沫候補たちがマイクを通して張り上げる演説の声が、水中で聞く初夏の音みたいにぼんやりと頭に染み込んでくる。すべてが遠い過去の話、あるいは未来の話のように、僕はただ前を見つめていま・・を走った。

 学園内にはほとんど生徒の姿は見えなかった。大講堂で行われている最終演説を聞きにいっているんだろう。

 全力で走りながら、僕は手紙の内容を思い返した。

 世界のてっぺん。

 それは、柊阿久乃が目指した場所。小学生みたいなちんちくりんの背丈で、高所恐怖症のくせにせいいっぱい手を伸ばして、星を掴もうとした場所。いまは壊された天球儀の前で、「この学園の生徒会長になる」と誓った、その輝きの向こう側。

 その場所の真下までたどり着き、僕は階段を一気に駆け上がった。いまにも音を立てて崩れ落ちそうな古びた階段を、三段飛ばしで昇る。ぎいぎいといやな音が耳に突き刺さるが、それでも僕は足を止めなかった。

 僕は願ったんだ。

 自分の世界の正しさを信じて疑わない瞳の光が、僕の未来を明るく照らしてくれるオーロラのような彼女の光が、この世界中を照らしてくれるように。

 そのとなりに、僕が立っていられるように。

 僕の歩く道を示してくれるのは、夜空を瞬間駆けるだけの流れ星じゃない。オーロラの輝きを放つ彼女の瞳だ。星もかすむような、奇蹟みたいな僕らの光。

 その光が、いまにも消えようとしている。

 僕はコウちゃんを抱える脇に力を込める。

 これはだれの望んだ結末でもない。善桜寺さつきも、僕たち柊政権の役員たちも、そしてほかでもない柊阿久乃自身だって、こんな結末は望んでいなかった。けれど、きっとこうなるしかなかったんだ。だれもがみな、だれかを傷つけることを恐れて、だれかを哀しませるのが怖くて、この結末を選ぶしかなかった。それがたったひとつ残された道。だれもが最善を選んだ末にたどり着いた、最悪の結末。

 けれど、きっとこうするしかなかったんだ。なぜならこれが、彼女・・の選んだ結末だから。

 彼女にはきっと敵わない。柊阿久乃も、善桜寺さつきだって。

 そうですよね——、

「善桜寺はづきさん」

 時計塔の頂上に立つ彼女は、哀しげな目をして僕を見た。彼女の横には、阿久乃会長がへたり込んで座っている。高所恐怖症だから怖いのか、それともべつの理由があるのか、彼女の瞳からはいつもの光が消えていた。それは言うなれば……なにかをあきらめているように見えた。

 会長の視線が僕を捉える。そしてその小さな口が動いた。

「……なにやってんの、レン」

「こっちの台詞ですよ、会長。どうしてこんなところに」

 僕の言葉が終わるか終わらないかのうちに、はづきさんが口を開いた。

「わたしが呼んだんだよ」

 時計塔に風が吹き抜けた。はづきさんの明るい髪がふわりと踊った。僕ははづきさんを見つめる。彼女も僕を見つめ返す。

「どうしてですか」

「さつきをね、勝たせたかったんだ」

 はづきさんが踊る髪を右手で押さえながら言った。

「今回の選挙でさつきが勝てば、あの子は永世名誉会長になれる。わたしとおなじ、学園で二人目の永世名誉会長に。そうすれば、あの子の劣等感は消える。わたしと対等の立場に立って、『はづきお姉ちゃんの背中を追いかける妹』という呪縛から解放される」

 完璧超人のさつき会長を永世名誉会長へと突き動かす原動力。それは、もっと完璧な姉に対する劣等感だった。はづきさんはそれを「呪縛」と名付けた。善桜寺家の妹として生まれたさつき会長の宿命を、彼女はずっとそばで見てきたのだ。

「見てられなかったんだ、あの子がこれ以上苦しむところを。あの子、見かけによらず危なっかしいんだよねえ。がんばりすぎちゃうっていうか、『完璧であろうとすること以外』を知らないっていうか」

 はづきさんのその言葉に、僕はさつき会長が倒れたときのことを思い出した。保健室へお見舞いに行く道中、ばったり逢ったはづきさんが僕に言った言葉。

 ——あの子、がんばりすぎなんだよね。

 ——なにごとにも一生懸命で、手を抜く、加減するってことを知らない。いつも完璧でいようとする。

「だから、わたしはさつきを勝たせたかった。あっちゃんがだいじにしてる天球儀を壊して、こうしてここまでおびき寄せて、あっちゃんが選挙に立候補しないように、できないようにした。わたしが犯人だってこと、あっちゃんも気づいてたんじゃないかな」

「……そうなんですね、会長」

「……」

 会長は答えなかった。黙って唇を引き結んだまま、虚空を見つめるようにぼうっとしている。

 でも、きっとそうなんだろう。天球儀が破壊されたときから、きっと阿久乃会長は気づいていた。なぜならば、あの天球儀のたいせつさは、僕たち柊政権と、はづきさんしか知らないからだ。それははじめてはづきさんが生徒会室に来たとき、阿久乃会長が言っていた。

 ——この天球儀はあたしたちの原点だ。この天球儀のもとで、あたしはこの学園の生徒会長になると誓った。この天球儀の秘密は、ここにいる初奈、環、夏日と、先代生徒会長のはづきしか知らない。

「でも、こんな真似しなくても、正々堂々勝負すれば、勝てたんじゃないんですか? さつき会長はこれまで四期連続で当選しているんです。阿久乃会長はずっとそれに敵わなかった。今回の選挙だって、いまさらこんな小細工しなくても、真っ正面から得票数で勝負するように準備すれば勝てたんじゃないんですか?」

「それはどうかなあ」

「どうして」

「きみがいたからだよ」

 はづきさんは真正面から僕を見据えた。まるで僕をその場に縫い止めるような鋭い視線を浴びて、僕はまったく動けなくなった。

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