4−7

「……そうやったんか」

 桃子さんが表情に影を落とす。

「すまん。ぜんぜん知らんかった。謝って済むようなことやないってわかってるけど……でも、夏日、ほんまにごめん。気づいてやれんかった」

「……」

 桐宮さんは悲痛な表情をそのままにして、自分の足許を見つめている。僕はどうしようもなく不安になった。ほんとうにこれでよかったんだろうか。この事実は言うなれば、彼女たちがこれまでずっとひた隠しにしてきた「傷」だ。それを僕は、このメンバーの前でさらけ出させてしまった。そんなことをしてほんとうによかったんだろうか。

 僕はなんだか、自分が取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、外してはいけない道を踏み外してしまったような気がして、じっと下唇を噛んだ。鈍い痛みが肌の下を走り、その痛みが頭に回って脳をからめ取っていく感覚がした。

「ヒーロー、だったんです」

 桐宮さんがとつぜん口を開いた。

「え?」「ん?」生徒会室に集まった面々が、彼女の言葉に戸惑った反応をする。僕も全神経を澄ませて彼女の言葉の続きを待った。

「芽以とけんかして、ひどい言葉も言っちゃって、仲直りもできなくて、転校しちゃって、きっと芽以は、もうわたしのことなんかきらいになっちゃったんだって、そしたら、さびしくて……それで、わ、わたしがいじめを、受けるようになって。で、でも、だれにも打ち明けられなくて、お兄ちゃんも心配させたくなくて、なにをしていいかわからなくなって、なにを信じていいかわからなくなって、サックスも吹けなくなって……」

 ぽたり、ぽたりと、彼女の口から言葉がこぼれ落ちていく。

「そんなとき、あ、阿久乃会長は、わたしを救ってくれたんです、どうしようもなくなっていたわたしを、引っ張り上げてくれたんです。会長はなんにも悪くないのに、へんな噂も学園にまわっちゃったのに、『夏日はなにも考えなくていいんだ、苦しまなくていいんだ』って言ってくれて……ま、まるで」

 彼女は顔を上げた。その視線の先にいるのは、白銀川学園第二生徒会会長。

 柊阿久乃。

「ヒーロー、だったんです」

 会長は桐宮さんをじっと見つめ返している。彼女の瞳に宿る光は、夕空に閃いた一番星。宵闇に沈もうとしていた桐宮さんの昏い心を照らし出した、まばゆいばかりの星の光。

 僕は天を仰いだ。

 ——おまえらに夏日の気持ちがわかるのか。

 わかっていなかった。こんなにも苦しんでいた桐宮さんの気持ちも、阿久乃会長の襲撃でどれだけ彼女が救われたのかも。僕にはまったくわかっていなかった。

 自分を信じて疑わないその声。遠く未来まで見通す鋭い瞳。そして、オーロラのように煌めくその意志。彼女の——阿久乃会長のおかげで、桐宮さんはここにこうしていられるんだ。

 僕は環先輩に目配せをした。彼女も僕の視線に気づき、小さくうなずき返してくれる。

「……桐宮さん」

「……?」

 僕の呼びかけに、彼女は首をかしげた。歩み出て、ポケットからスマートフォンを取り出す。

 桐宮さんが不思議そうに所作を見つめている前で、僕はスマートフォンを操作し、電話アプリを呼び出した。そしてその画面を桐宮さんの目の前に差し出す。戸惑っていた桐宮さんの表情は、すぐに驚きに変わる。

「……どう、して」

「吹奏楽部のひとたちに訊いたんだ。連絡先交換してるひと、見つけるのたいへんだったよ」

 画面に表示されていたのは、藤堂芽以の名前。

「……芽以」

 その名前を見つめながら、桐宮さんは震える声でつぶやいた。僕はまたスマートフォンを操作して、藤堂さんの電話番号の横にある電話マークをタップし、「通話」を押す。そしてまだ戸惑ったままの桐宮さんに渡す。

「え……あの、未草くん……」

「いいから」

 僕はそう言ってうなずいた。戸惑いながらも、お腹のなかでなにかの覚悟が決まったのか、桐宮さんは僕のスマートフォンをしっかりと握り直した。

「……もしもし?」

 桐宮さんがささやく。しばらくあって、スマートフォンから声が漏れ聞こえてくる。

『……もしもし』

 桐宮さんが息を飲んだ。それは、かつての親友の声。自分の言葉で傷つけて、台無しにして、もう聞くこともできないと思っていた声。

「……芽以?」

『……うん』

「ひ、久しぶり、だね」

『そうだね。元気だった?』

「うん、元気……だったのかな。えっと、よくわかんない」

 電話の向こうで、藤堂さんが笑ったのが聞こえた。

『夏日は相変わらずだね。ほんとうに変わってない』

 その言葉を聞いて、桐宮さんはどこかくすぐったそうにはにかむ。

「……芽以は、どうなの? 元気?」

『うん、元気だよ。ねえ聞いて! この前ね、こっちの学校の吹奏楽部でね、ソロを任されたんだよっ。藤堂さん、来たときよりずっと上手くなったねって!』

 電話口で藤堂さんがはしゃいだ声をあげる。それは、自分のうれしかったこと、楽しかったことを、だいじなひとと共有したいという、純粋な思い。よかった、と僕は思った。まだ壊れてなかったんだ。そうだ、そう簡単には壊れやしないんだ。ただボタンを掛け違えていただけなんだ。それを立ち止まって直す時間もなく、ただ直す方法もわからず、ここまで来てしまっただけなんだ。

「……そう」

 桐宮さんがふと笑みをこぼした。「ねえ、芽以」

『なに?』

「て……転校して、よかったと、思ってる?」

 桐宮さんの問いかけに、藤堂さんはすこしだけ言葉を詰まらせた。さっき桐宮さんは、「きっと芽以は、もうわたしのことなんかきらいになっちゃったんだ」と言った。親友が転校した一〇月からの半年間、彼女の心にはずっとその感情が根ざしていたんだろう。

 僕たちは藤堂さんの返事を待った。長いながい時間がすぎたあと、電話の向こうからささやき声が聞こえた。

『……うん』

 その返事を聞いて、桐宮さんは見るからに肩を落とした。きりっと引き結んだ唇がかすかに震えている。

『思ってるよ、当たり前でしょ。こっちでは物を隠されたりしないし、楽器にいたずらされたりもしないし、毎日楽しくサックスが吹けて、わたしは転校してほんとうによかったと思ってる』

 桐宮さんは息苦しそうに肩を上下させながら、電話の相手の話を聞いている。

『先輩たちはわたしのこと認めてくれるし、上手くなったって褒めてくれるし、わたしもうれしくなっていっぱい練習するし、そしたら藤堂さんがんばってるねって気にかけてくれるし。白銀川だとそんなことなかったから、わたし、転校して本当によかったと思ってるよ』

「芽以……」

 親友を呼ぶ桐宮さんの声が震えていた。彼女はいま、親友に「自分のいない学校に行ってよかった」と言われているんだ。そんな彼女の心中は計り知れない。

 でも、そうじゃないんだ、桐宮さん。みんなただ単に、ボタンを掛け違えていただけなんだ。世界はきみが思ってるほど、きみのことを冷たく放っておいてはくれないんだ。

『でもね、夏日』藤堂さんが彼女の呼びかけに応える。

『いまでもときどき、さびしくなることがあるの』

「……さびしい?」

『うん。こっちの学校の教室でサックスの練習していても、部活の友だちと話をしていても、ふと急に、さびしくなることがあるの』

 生徒会室はしばらく、ひっそりとした静寂に満たされた。まるで深海の底にいるかのような、肌を冷たくなでる静寂。

『あるべきものがあるべき場所にないような、かにかが欠けていてなにかが足りないような、そんな感じがするの。こころのなかにぽっかり空いた穴があって、その穴の存在は感じるんだけど、それを塞ぐ方法が思いつかないような、そんな感覚。白銀川にいたときはそんなことなかったのに、こっちに来てから、ふと急に、そう思うようになったの』

「……」

『わたしのなかにあっただいじなものを、わたしの言葉で傷つけて、置いて来ちゃったの。わたしはそれを、きっといまでも後悔しているんだと思う』

「……芽以」

『ねえ、夏日。わたしがあなたに言ったさいごの言葉、憶えてる? ……「あなたとはちがうんだよ、夏日」って、わたしはそう言ったの。わたし、なんてこと言っちゃったんだろうって、すごく後悔して。あなたの表情、いまでも忘れられない。それを思い出して、なんだかとても……どうしようもなく、さびしくなるの』

 僕は黙ってふたりの会話のゆくえを見守った。生徒会室に集まったメンバーも、じっと桐宮さんを見つめている。冷たい静寂が肺を満たしていく。

「……わたしだって」

 桐宮さんが口を開いた。

「後悔、してるよ……? わたしは、あ、あのとき、芽以に『ばか』って言っちゃった……芽以だって、転校は不安だろうし、けんかなんてしたくなかったはずなのに。わたしだって、ほんとうは、『元気でね、また逢おうね、芽以』って、笑って見送ってあげたかった……! なのに、なのに……っ!」

 桐宮さんの目からひとずじの光が流れた。オレンジ色の陽光を受けて輝くその光は、桐宮さんのどうしようもない後悔と自責の念に縁取られて磨かれて、その鋭利な切っ先が僕の心に突き刺さる。

「な、なにも言えないまま、さよならも言えないままで、芽以は行っちゃった……わたしがどれだけ芽以のこと、だいじに想ってるか伝えられないまま、芽以は転校しちゃって……芽以は、きっとわたしを……きらいになったまま、わたしの声の届かないところで、気持ちの届かないところで、ずっと暮らしていくんだ……そう考えたら、わたし、わたしね——」

『なに言ってるの』

 桐宮さんの感情の奔流を、藤堂さんの言葉がさえぎった。これまでに聞いてきた彼女の言葉のなかで、いちばん強い、鋭い言葉だった。

『わたしが夏日のこときらいになったって、いつ言ったの?』

「……で、でも、芽以は」

『言ったでしょ? わたしだって夏日とおなじだったの。あなたに言ったことをずっと後悔して、自分を責めて、それでもやっぱり取り返しがつかなくて、どうしようもなくさびしかったの』

 遠く離れてしまった親友からの言葉は、だれよりも近い場所で桐宮さんの心を包み込んでくれる。

『あなたをきらいになったことなんて一度もない。白銀川にいたときからも、そしていまでも、夏日はたいせつな友だちだよ』

「——っ!」

『いままでごめんね、夏日』

 桐宮さんの足許に、ひとつぶの光の破片が落ちた。

 彼女が震えた声で言葉を返す。

「わたしもごめんね……芽以」

『ううん、大丈夫だよ』

「ありがと」

『これからも、ずっと、仲良くしようね』

「……うんっ!」

 桐宮さんが満面の笑顔を湛えてうなずいた。よかった、と心の底から思った。半年間のあいだずっとすれ違っていたふたつの心が、いまようやく分かり合えたんだ。

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