2−6

「それにしても……なつかしい部屋だなあ」

 はづきさんが遠い目をして生徒会室を眺める。

「なつかしい?」

「阿久乃ちゃんが立候補する前までは、はづきさんがこの部屋を使っていたの」

 環先輩のフォローに僕はうなずく。

「そうなんですか」

「うん。あのときとぜんぜんちがうようで、でもまったく変わってない。ふしぎ、もう自分の部屋じゃないのに」

 はづきさんはゆっくりと窓際に歩み寄った。その動きを僕たち役員四人はじっと見つめている。

「これ、まだあったんだ」

 そう言って彼女が指し示したのは、天球儀。

 窓際に座った阿久乃会長が、よくいじくって回していたものだ。「まだ」というはづきさんの言い方からすると彼女の政権の時代からあったものなのだろうか。心なしかはづきさんは、その天球儀をうれしそうに眺めている。窓から差し込む春の陽光に照らされて、彼女のライトブラウンの髪がきらきらと輝いている。

「もちろんだよ」

 会長もうすい胸を張る。その顔はどこか誇らしそうに笑っている。いつも見せるような心の底から湧き出る自信に縁取られた不敵な笑みではなく、たいせつなものを包み込むようなあたたかい微笑み。それを見て僕ははっとした。僕は会長がこんな表情を見せるとは思わなかったのだ。そんなにたいせつなものなんだろうか。

「あ、あれは」

 桐宮さんが口を開く。

「わたしたち生徒会の……阿久乃会長の、原点、です」

「原点?」

「そう」阿久乃会長が言葉をはさむ。「この天球儀はあたしたちの原点だ。この天球儀のもとで、あたしはこの学園の生徒会長になると誓った。この天球儀の秘密は、ここにいる初奈、環、夏日と、先代生徒会長のはづきしか知らない」

「へえ……そうなんですね」

 阿久乃会長の「生徒会長」としての原点。そんなことがこの天球儀に詰まっているとは思わなかった。いつもぐりぐりいじっているだけで、会長のただのおもちゃだと見なしていた。

「はづきは自分の後継生徒会に、あたしを選んでくれた。そしてこの天球儀をあたしにくれた。妹のさつきも生徒会長に立候補したのに。だからあたしはその期待に応えたい。これはこの学園の、ひいてはこの宇宙の頂点を象徴するもの。あたしはかならず執政生徒会長になって、この学園のてっぺんを取る」

 会長は小さい身体と右腕をめいっぱい伸ばし、空中でなにかを掴む動作をした。僕にはそれがまるで、空に輝く一番星を掴み取っているかのように見えた。生徒会室の戸棚の上の荷物も取れないくせに、彼女はみずからの手で星を掴もうとしている。

「だから、さつきには悪いけど、次はあたしがてっぺん取るからね」

 すると、会長のその仕草をじっと見つめていたはづきさんが、ゆっくりと口を開いた。

「さつきの様子を見たい、っていうのもあるんだよね」

「ん?」

「あっちゃんが言ってた、『なにしに来たか』の話」

「ああ」

「あの子、元気でやってんのかな、って」

 はづきさんがふと視線を落とした。妹の心配をするやさしい姉の姿だ。彼女の表情にすこし影が差したような気もするが、やはり遠く海を隔てた地にいると気持ちは何倍にも膨らむんだろう。

「元気なんじゃない? 元気じゃなければあたしが困る、次の選挙でけちょんけちょんにするんだから」

 何気ない会長の言葉。「けちょんけちょんにする」って生徒会選挙でするようなことじゃないだろ、と思ったが、はづきさんの表情を見た僕は会長に突っ込むのをやめる。

「……はづきさん?」

 僕はつぶやいた。しかし僕の呼んだ名前は生徒会室の空気ににじんで消える。その代わりに、生徒会室にはどんよりとした空気が立ちこめたような気がした。少なくとも僕にはそう思えた。生徒会室を一時支配していたはづきさんの感情が、陽から陰へ、明から暗へ、一瞬にして切り替わったように思えたのだ。まるでオセロの石をひっくり返すみたいに。

 どうしたんだ、はづきさん?

 どうしてそんな顔をしている?

「あっちゃん」

「なに?」

「次の選挙、立候補するんだよね?」

「ん? もちろん」

「勝つつもりだよね」

「あたりまえじゃん。その天球儀に誓って、次はぜったい勝つよ。そうだよね、初奈、環、夏日、レン?」

 小さな胸を張る会長に、いつものように役員それぞれが返事とともにうなずく。名前を呼ばれた僕も、ぎこちなく首を縦に振った。

「……そっか」

「どうした、はづき?」

「いや、なんでもない。そんなことより」まるでなにごともなかったかのように、はづきさんの表情は温度を取り戻した。「あっちゃん、学園を案内してよ! 久しぶりに来てテンションあがっちゃった」

「ええー」

「面倒くさがらないの!」

「はづき卒業したばっかじゃん。なんも変わってないよ」

「いいからいいから」

 はしゃぐはづきさんといやがる会長を見ながら、僕は心の中に立ちこめていた暗雲を振り払った。なにかの勘違いだ。最近身の回りにいろんなことが起きすぎて、すこし神経質になっているのかもしれない。いまの彼女の笑顔を見れば、心配事なんてないってことくらいわかる。

 いやいやながらの阿久乃会長を連れて、はづきさんは生徒会室を出て行ってしまった。まるで爆弾低気圧みたいな強い勢力で僕たち役員をかき乱していったはづきさん。彼女がいなくなったいつもの生徒会室は、すっかりしずかになった。

「どう? レンくん」

 いつのまにか僕のとなりにいた環先輩が訊ねてくる。

「どうって?」

「はづきさん、すごい人だったでしょ」

「ええ、まあ」

「さつきもたいへんだな、あんな変人な姉を持って」

 初奈先輩も話に乗ってくる。僕から見ても尋常じゃないようなこのふたりが言うんだ、やはりはづきさんはふつうの人じゃない。そして在学中もふつうの生徒会長ではなかったんだろう。

「どんな生徒会長だったんですか?」

「憶えてるか? 五期連続で当選すると『永世名誉会長』になるって話」

「はい。たしか学園の長い歴史のなかで、任命されたのはひとりしかいないって」

「あの人だよ」

「……まさか」

「ああ」

 初奈先輩が僕をじっと見据える。「そのまさかだ」

 僕は生唾を飲み込んだ。

「善桜寺はづき。執政生徒会長に五期連続で当選して学園創設以来唯一の『永世名誉会長』に任命された人物だ。阿久乃も、そしてきっと善桜寺さつきも、彼女には敵わない」

 学園の歴史のなかで唯一の「永世名誉会長」。五期連続当選。入学して一ヶ月の選挙で上級生を押しのけて当選し、そのまま執政会長の椅子をだれにも譲らなかった。入学してから卒業するまで、彼女が「生徒会長じゃない」時間は最初の一ヶ月間だけだったんだ。尋常じゃない。ありえない。そして僕は、喉まで出かかっていたことをついに口にする。

「……さつき会長も、次の選挙で当選すれば、『永世名誉会長』になれるんですよね」

 さつき会長はいま四期連続で執政会長になっている。次期選挙で勝てば五期連続となり、はづきさんと同じく「永世名誉会長」になれるんじゃないのか。

 しかし初奈先輩はやおら首を振った。

「なに言ってんだ、次期選挙ではわれわれが勝つさ。おまえもこの生徒会役員だろ?」

 そうですねすみません、笑って答えようとしたとき、廊下から「きゃあああっ!」と叫び声が聞こえた。会長とはづきさんの声だ。一瞬顔を見合わせた僕らは、すぐにドアを開けて廊下に出た。声のしたほうに駆け寄っていくと、そこには廊下の床にうずくまるふたりの姿があった。

「会長、はづきさん!」

「どうした、大丈夫か!」

 僕たちが声を掛けると、会長がこちらに顔を向けてうなずいた。僕たちはほっと胸を撫でおろす。よかった、どうやらけがはしていないようだ。会長の横で、はづきさんは荒い息とともに肩を大きく上下させている。

「なにがあった?」

 初奈先輩が訊ねかける。ひょいと立ち上がってスカートのほこりを払いながら、会長がそれに答える。

「襲われた」

「襲われたっ?」

 きなくさいその言葉に、僕は思わず声を上げた。

「うん。だれかに思いっきり押し倒された」

「だれにっ?」

「わかんない」

 会長は目を閉じて首を横に振った。

「顔は見えなかった。黒い三角布を頭にかぶった三人組。後ろから思いっきり突き倒されて、気づいたらもういなかった」

「黒い三角巾……?」

 会長の言葉に、初奈先輩と環先輩の表情がくもる。僕も思わず息を飲んだ。

 真っ昼間の学校の校舎のなかで、しかも僕らの生徒会室の近くで、生徒会長と永世名誉会長が何者かに襲われた。犯人は黒い三角巾をかぶっている。廊下で偶然肩がぶつかった、とかそういう類の平和な話ではない。「人間を傷つける」という確固たる意志をもった、計画性のある行動だ。

 ぞっとした。

 悪意だ。

 これは会長に向けられた悪意だ。首謀者も目的もわからない悪意の銃口が、いま会長に向けられているんだ。後ろから押し倒すなんて、下手したらたいへんなことじゃないか。受け身を取り損ねたら、どこかにけがをしていてもおかしくはない。

 僕は唇を噛み締める。僕という人間がいながら、会長に危害を加えさせてしまった。やっぱり無理だったんだろうか。僕なんかでは会長の役に立たないんだろうか。

 僕の小さな世界のスノードーム。その水の澄み具合を確かめながら、犯人が消えた廊下の静寂をじっとにらみつけることしか、いまの僕にはできなかった。

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