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関東で一、二を争うほどの広大な敷地を持つ、この学園の高等部。生徒数一万人を超える巨大な高校だ。北は鬱蒼とした山々に囲まれ、南には学園の名を冠する白銀川が流れている。守るには易し、攻めるには難し……この天然の要害みたいな地形も、もとはどこかの偉い殿様のお城があったためだという。ただ、この平和な時代に学園を落城させようという特異は人はいないので、難攻不落の天然地形もただ「登校しにくい」という生徒の不満を募らせるばかり。
敷地のまん中には、大きな時計塔がある。毎正時にはがらんがらんと音を立てて時を告げる。建屋じたいはぼろぼろのレンガづくりで、その朽ち果てぶりから「塔齢四千年」とか「リアルジェンガ」とか言われている。
高校二年の新年度からこの学園に転校してきた僕は、時計塔のてっぺんから学校を眺めるのが好きだった。オレンジ色の夕陽が西の空に沈み、しだいに宵闇に塗り潰されていく学校の校舎を、紙パックのコーヒーをすすりながら眺めるのが好きだった。ふだんはやかましい部活のかけ声などの喧噪も、ここから聴けば心地よいBGMになる。ただ、毎正時に鳴る鐘の音は耳をつんざくような大音量だ。僕はいつも、六時の鐘の音が鳴る直前に残りのコーヒーをすすり上げ、帰途に就く準備をする。
その日も僕は六時の数分前になると、ずるずると紙パックをすすって、荷物をまとめて立ち上がった。いまのうちに帰れば、部活動を終えた生徒たちと乗る電車が重なることもない。ゆっくり優雅に帰宅することができるのだ。
地上から時計塔のてっぺんに登るためには、人ひとり分だけが通れるような階段を使う。上りがそうなのだから、下りだっておなじだ。ぎしぎしといやな金属音をたてる古びた階段を、「いま壊れるなよ、いま壊れるなよ」と念じながら、僕は下っていくことになる。
でも、その日はちがった。僕が立ち上がって階段のほうを振り向くと、ふだんはめったに人を見ることがないその時計塔のてっぺんに、ひとりの少女が立っていた。
「あ……」
僕は息を呑んだ。あまりの急な出来事にかける言葉が見つからなかった。そのまま僕は、少女を見つめながら立ち尽くす。真実を見通すような青く澄んだ瞳、艶やかに夕陽を映す黒髪……制服のリボンの色から察するに、どうやら上級生みたいだ。
こんなきれいな人がいるのか、さすがは巨大学園だな……としょうもないことをぼんやり考えていたとき、ちょうど六時を告げる鐘の音が時計塔のてっぺんに響き渡った。ごうん、ごうんと鳴り響く大音量に、僕と彼女はそろって身をすくませる。ばさばさと羽音を立てて、鳥の群れが塔のまわりの木々から飛び立っていた。たくさんの鳥の影と、西の空を鮮やかなオレンジ色に染める夕陽を背にして、彼女はとても——とても輝いて見えた。
気がつくと、あまりの大きな音に驚いて手に力が入り、右手に握った紙パックを思わず握りつぶしてしまっていた。すすり上げきれていなかったコーヒーが、僕の貧弱な握力にもかかわらず勢いよく外へ飛び出している。
「あ、ご、ごめんなさい」
勢いよく飛び出したコーヒーが、あろうことか彼女の制服にかかってしまっていた。僕があわてて差し出したハンカチを受け取ると、彼女はふわりと微笑みながら「ありがとう」と言った。やさしい晩春の風が彼女の長い黒髪を揺らした。
「きみは、二年生? どうしてこんなところにいるのかしら。部活には入ってないの?」
「え、あ……まあ、はい」
「エア・マーハイ部?」
彼女は小首をかしげる。
「はじめて聞く部活ね。エア・マーハイってなにかしら。エア・ギターみたいなもの?」
「え、いや、その」
「エア・マーハイ……麻雀の牌を相手にたたきつけるまねをする部活?」どんな部活だ。
「ちがいます、その」
「ちがうのね。マーハイ……チューハイみたいなものかしら。麻婆豆腐ハイボール?」そんなわけねえだろ。クソ不味そうだしそもそも僕高校生だからね?
そのあとしばらくは僕の制止も聞かず、彼女がエア・マーハイ部の具体的な活動実績や麻婆豆腐とハイボールの絶妙な割合を訊いてくるので、実は帰宅部ですと打ち明けるのにたいそう苦心した。
「帰宅部なのね」彼女はふわりと笑った。
「せ、先輩は……?」
「私? 私も部活には入ってないわ」
「どうしてここに」
僕がそう訊くと、彼女は遠く西の空に目を向けた。
「……なぜかしらね、自分でもわからないわ。ただ、どうしてもここに来たくなったの」
そう言って彼女は、横顔にかかる豊かな黒髪をすくいあげ、耳にかける仕草をした。遠く未来を見通すような深淵の瞳は、オレンジ色の陽光を映して燃えるように輝いている。
「あなたは?」
彼女はその視線を僕に向ける。すべてを見通すその目に捉えられると、彼女の前ではどんな嘘をついても仕方がないような気がした。
「……好きなんです」
「好き?」
「はい。学校を見渡せるこの場所で、夕焼けに沈む世界を眺めるのが、好きなんです」
「高いところが好きなの?」
「まあ、そんなところですかね」
僕のその言葉に、彼女をふと笑みをこぼした。
「そう。私の友人にも、高いところが好きな子がいたわ」
「……そうなんですか」
「ええ」慈しむようなやわらかい微笑み。「その子、高所恐怖症なの」
「どっちなんですか」
僕は思わず吹き出してしまう。変わったひとがいるもんだ。
「あ、もうこんな時間なのね」
彼女は手許の時計を見た。僕もスマートフォンの画面で時刻を確認する。思ったより話し込んでしまったようだ。
「私、このあと用事があるの。ごめんなさい、お話できて楽しかったわ」
そう言って彼女は、せまい階段を降りていこうとする。
「あ、あの」
思わず呼び止めてしまった僕を振り返り、彼女は不思議そうな顔を向ける。
「僕は、
彼女はふわりと笑った。夕陽を映して春風に揺れる黒髪が、僕の意識をとらえて離さない。
「私? 私はさつき。
ばいばい、と手を振って、彼女は階段を下りて去って行ってしまった。
彼女が去っていったその階段を見つめながら、僕はぼうっと立ち尽くした。善桜寺さつき。きれいな人だったな……。「よろしくね」って言ってくれたけれど、この広い学園の中、まためぐり逢うことなんてできるんだろうか。
そこでふと、彼女がさきほどまで立っていた場所の足許に、なにかが光っているのを見つけた。歩み寄ってそれを拾い上げると、どうやらピンバッジかなにかのようだ。
「校章……?」
この学校の校章を模したピンバッジ。でも、こんなもの僕はもらっていないような気がする。この学園の全校生徒ではなく、とくべつなひとがつけるものか、もしくはとくべつなときにつけるものか。
おそらく彼女、善桜寺先輩が落としたものだろう。六時の鐘が鳴ったときとか、ふとしたきっかけで落としたのかもしれない。きっと困っているはずだ。先輩に届けなきゃ。
僕はなんだか、また彼女に逢うことを神さまから赦されたような気がして、その校章を失くさないようにだいじにポケットにしまった。
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