エピローグ
なりふり構わず己が従者の名を呼びながら散々走り回った挙句の果てに、ステラはシンノスケ、そしてカルソラすら見つけることができなかった。その前に突入してきた警官隊に保護されたのである。渋りながらも連れられて博物館の外に出た彼女は、そこで衝撃的な光景を目の当たりにした。入り口の前の小さな階段、その端にシンノスケとガブリエラが膝を並べて座っていたのだ。のみならずガブリエラがシンノスケの頬に手をあてながら顔を覗き込んでおり、まるで接吻直前の様相を呈している。
ステラの全身から気が抜け、違うものが満ち始めた。無事なのは良い。シンノスケもガブリエラも、そして自身もこうして生きているというのは望外の結果と言える。
だが、しかし。あれだけ心配してこの結果か。
「……あはは、そう。ああ、そう」
ステラはそう呟いてシンノスケの背後に回った。ポイントは、あははと言いながら、彼女は一つも笑っていないところである。
一方のシンノスケはと言うと、無論そんなロマンチックな状況にあるはずもなく、
「いたた! あ痛! 痛いでござる!!」
ガブリエラが善意で傷口にハンカチを押し付けてくるのだが、それは当然痛みを伴う行為であり、避けるに避けられずただただ小さく悲鳴を上げていた。それだけシンノスケにつけられた傷は見るからに痛々しく、箱入り娘であるガブリエラにとっては直視に耐え難いものであった。
しかしそんなことをステラが知る由もない。彼女はシンノスケとガブリエラの後ろに立つと、「随分仲が良くなったのね」と底冷えのする声をかけた。一瞬びくりと肩を揺らせたシンノスケであったが、振り向いて声の主を確認すると、途端に破顔した。
「おお! ご無事であったか、ステラ殿!」
すっかり冷たい目をしたステラであったが、シンノスケの顔を見るや否やぎょっとした。
「貴方、その、傷……」
シンノスケははは、とはにかみながら、頭をかいた。
「見苦しいところをお見せする。あ奴は実に手ごわかった。だが運が良かった。得られた結果を考えれば、これくらいの代償は安い買い物でござる」
「運が良かった……って、」
ステラはシンノスケの意味するところに気付いた。
「勝ったの!? まさか」
「それがしはこんな有様であるが、勝ちは勝ち。と言っても、足がもつれて派手にこけた結果、偶然の一撃がずんばらりんと奴の胴に刺さったという――まああまり自慢出来るものではないのでござるが」
ははは、と快活に笑うシンノスケに、毒気の抜けたステラは思わず両肩を落とした。
(……そうね。そういうやつでした、こいつは)
心中でそう思いつつも、ステラの口元は綻んでいた。
彼女は顔を上げ、シンノスケの目を正面から見た。西洋人のそれとは異なる鳶色の眼差しは澄んでおり、長い睫毛が影を落としている。悪くないな、とステラは率直に思った。乾いた血に汚れたその相貌からは、以前抱いていたものとは程遠い印象を受けた。
「――ありがとう、シンノスケ。貴方のお陰で助かったわ」
素直に感謝を述べることに幾分気恥ずかしさを感じながらも、ステラはシンノスケの目を見て言った。一方のシンノスケは首を振ると、
「それがしはステラ殿の執事でござる。これくらいぱぱっとやってのけなければ」
強がり以外の何物でもなかったが、シンノスケはそう軽口を叩いた。
しばらく互いに見つめ合ったまま、沈黙が漂う。ステラの心臓が妙な鼓動を打ち始めた。まずい、と彼女は思った。命の危険に晒されたことによる緊張と甘酸っぱそうなときめきがごっちゃになっている、と自覚していたが、頭とは裏腹に胸の中にはじんわりと温かい感情が広がっていた。
(あ、やばい、これ)
なんかもう、勢いで手を握ったり抱きついたり、そのままキスまでやっちゃっても許されちゃうんじゃなかろうか、これ。シンノスケにはこれまでろくに褒美らしい褒美をやっていないんだから、それくらいは許されるだろう。何せ命の恩人であり、己が唯一無二の執事なのだから――
耳元でそうして囁く悪魔の自分を追い払うため、ステラは違うことを考えようと努めた。するとふと唐突に、頭に浮かんでくるものがあった。
「あっ――そうよ、ロイドは」
聞いたガブリエラががばと立ち上がる。今しがたまで頭の片隅に追いやっていた己の従者のことを思い出したのだ。
「そうよ、ティア――ティアよ! ねえ、どうしましょう、私、ティアを置いてきた!」
「落ち着いて、ガブリエラ!」
狼狽え始めたガブリエラの肩を、ステラがぎゅっと抱きしめる。彼女は自分を恥じた。浮かれた挙句己とシンノスケのことばかり考えて、先程執事を失ったであろうガブリエラの気持ちをちっとも斟酌しなかったのだ。
「大丈夫、まだ分からない。望みを捨てないで」
そんな二人を他所に、シンノスケは遠くを見つめながらゆっくり立ち上がると、誰に聞かせるともなく呟いた。
「そう言えば、さっきから何となーく気になっているのでござるが、あそこにそのティア殿っぽい女性がいるのでござるが」
「だから、ティアを早く探しに行かないと!」シンノスケの緩んだ声に怒りをぶつけるガブリエラであったが、
「ガブリエラ殿。どーもそのティア殿が、門の外の、あのカフェの横辺りに、ほら」
「――へ?」
らしからぬ間抜けな声を上げて、ガブリエラが視線を向ける。外は野次馬を警察が辛うじて押しとどめているといった状態で混沌としていたが、
「お嬢様!」
気付いたティアが、警官を振り切り、博物館の敷地の中へと入る。同時にガブリエラが勢いそのままに胸元へと飛び込んできたので、ティアは驚きとともにそれを受け止めた。歳も近く仲の良い彼女たちであったが、ここまでガブリエラが感情を露わにしたことはなかった。特にガブリエラは意地っ張りなものだから、涙なんて決して見せて来なかった――今の今までは。
「お嬢様、ご無事で」
ガブリエラは泣いていた。時折しゃくりあげながら、彼女は謝罪の言葉を口にしていた。
「ごめんなさい、ティア――私、貴女の主人なのに、貴女を見捨てて逃げ出した」
ティアはガブリエラの頭を掻き抱きながら、首を振った。
「逃げろと言ったのは私ですよ、ガブリエラ様。それに、どうせガブリエラ様が残ったところで二人共殺されるのがオチです」
「人が心配して言っているのに!」
責めるような口調だったが、ガブリエラは顔をクシャクシャにして笑っていた。ティアも憎まれ口を叩きながら、しかし喜びの涙をほろりと流している。その光景を見て、ステラもつられて涙腺が緩んだ。
「良かった、本当に……」
言葉が詰まり、目元を拭う。奇跡的な結果だとステラは改めて自身らの幸運を噛み締めた。ここにいる全員が命を落としても何らおかしくない状況にあったのだ。
「まさか全員が生き残るとはな」
遅れて歩み寄ってきたジャイルズも同じ思いで、シンノスケに声をかけた。
「あれからどうなった。あの髑髏の男は」
「うむ。それがしが仕留めてござる」
「なに」
胸を張るシンノスケに、ジャイルズが目を剥いて驚いた。
「どんな手品を遣った」
「タネも仕掛けもなく、ただただ幸運だったのでござる。疲れが足まで来ていたせいか、もつれさせて、そのままばったり倒れ込んだ先がかの髑髏の男でござった。その時それがしの右手に握られたサーベルが、あ奴の胴にさっくりと」
聞いたジャイルズはしばらく黙りこくったままであったが、突然相好を崩し、笑い声を上げ始めた。
「そいつは痛快だ! 今まで死ぬ思いをしてきたかいがあった!」
今の今まで眉間に深い皺を刻んでばかり――ロイドと行動を共にしていた間も含めて――だったから、ステラ達にとっても彼のこの表情は新鮮であった。
「なら、ヤツの死に場所は大英博物館か。羨ましい限りだ」
余程愉快だったのだろう。ジャイルズは冗談まで言ってみせた。
シンノスケは「まったくでござる」と同調し、改めてその博物館を振り返った。相変わらず、大勢の警官が忙しなく出入りしている。それを見て、漸く全てが終わったのだと実感し、ステラは安堵の涙を流した。彼女の心は、あの惨劇の夜から非日常に囚われたままであったのだ。緊張の糸が切れ、強張った身体と心が一気に弛緩する。
「ねえ、そう言えばロイドは? 貴方達、一体どうやって無事に切り抜けて来ましたの?」
ガブリエラがティアとジャイルズに黒幕の行方について尋ねると、ステラははっとして二人を交互に見遣った。
「私達も危なかったけれど、正直貴方達の方が不安でしたわ。あの男がすぐに路地から出てきた時は、もう二人共命を落としていたのではないかと」
「――あの仮面の男は、俺達よりもあんた方を追って行った。ロイドがそう指示した」
「なるほど、それで」ステラが頷いた。「一対二になったから、ロイド達は逃げ出した?」
それを聞いたジャイルズとティアは黙ったまま僅かの間互いに目を配せ合っていたが、やがてジャイルズの方から口を開いた。
「ロイドは殺された。コルテス――ロイドが雇った暗黒執事が、ヤツを裏切った」
「え――」
あまりの出来事に、ステラとガブリエラは言葉を失った。
「どういうことでござる」代わりに口を開いたシンノスケに、ジャイルズは首を振って言った。
「コルテスが突然、ロイドに斬りかかったのだ。ロイドは為す術もなく殺された。驚いた顔をしていたよ。己が殺したブラックモアの断末魔の表情とそっくりだった。哀れなことだ」
「どうして、そんな――」
辛うじて言葉を絞り出したステラ。応えるように、ジャイルズは独りごちた。
「ブラックモア、そしてロイドが立て続けに殺された。どちらも黒幕だった男達――の筈だった」
彼はそこまで言うと、門の外側に目を向けた。相変わらず大勢の野次馬が、規制線を挟んで蠢いている。
「この事件、我々が思うより、もっと深い所で動いているのかもしれん」
喧騒がどこか遠く聞こえる。ステラは自分の腕を思わず掴んだ。冷たい指に、彼女は知らず身震いした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「さて、これからどうする」
遠巻きにステラ達を見つめる警官を横目で見返しながら、ジャイルズが言った。
「どうって?」
「そろそろ
「私達は当然スコットランドに帰りますわよ」ガブリエラが言った。「ステラ、貴女は?」
「私もサセックスに帰るわよ。パパに顛末を話さないと」
「そう言えば、貴女のお父様はこの事件に関わりがありそうね」ガブリエラはカルソラが言っていたことを思い出していた。「公爵もお話があると言っていたし」
「お嬢さん、君は君の父上の仕事を知らないのか?」
「仕事?」突然ジャイルズに問い質され、ステラは首を傾げた。「父は男爵よ」
「そうか。聞かされていないのだな」
「どういう意味?」
「俺の口から言うことは憚られる。直接本人から聞くべきだ。ただ言えるのは、君の父上はそこそこの有名人で、」そこまで言うとジャイルズは一度口を閉じて、「偉大な男だ」と続けた。それは全く思いがけない話で、ステラは面食らった。
「ジャイルズ殿、貴方はどうするお積りでござるか」
「そうだな」シンノスケの問いかけにジャイルズは顔を顰めると、「俺はここで消えさせてもらう」
「警察に同行しない気ですか?」ティアの質問に、主を失った執事は頷いた。
「職も無くした。良い機会だ。一度闇に身を隠す」
「闇?」
「俺はあの男達と同業だった、かつてな」
「なんと」シンノスケは驚いた。「まことか、それは」
「その連中が、こうしてきな臭い動きを起こしている。恐らくこれだけでは終わらない、次は何かもっと大きなことが起こりかねん。その時のために、鈍った身体を鍛え直しておく。
――きっとまた会うことになるだろう。その時、全員が無事だと良いな」
ジャイルズはそう言って、門の外へ歩き始めた。規制線をくぐり、あっという間に群衆に紛れ、姿は見えなくなった。
「行ってしまいましたわ。あんなにあっさりと」
背中を見送るガブリエラが、呆れたような声を上げた。それを合図に、トレンチコートを着た刑事が彼女に歩み寄り、話しかける。
「失礼。もう宜しいでしょうか。こんなことがあった直後ですが、捜査にご協力頂きたい」
「ええ、もちろん。――エスコートをお願いしても?」
刑事はちっとも笑うことなく「ではこちらへ」とだけ言って、先頭に立って歩き出した。
ガブリエラ、ティア、ステラが後ろに続く。シンノスケもその後ろについていったが、ふと途中で歩みを止め、先程死闘を繰り広げた場所、大英博物館を振り返った。彼の腰にはウィルフレドから貰ったサーベルがある。日本刀は倉庫に戻してあった。持っていくべきかどうか悩んだ末、
(何より、今しばらくは水戸の次期藩主ではなく、ステラ殿の執事でありたい)
心中でそう呟くと、彼は今度こそ再び歩き出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
遠巻きに、彼等を見つめる双眸があった。場を離れたジャイルズのものである。
彼は群衆の中に身を潜め、じっとシンノスケの後ろ姿を見つめていた。その視線は疑念を纏っていた。
(幸運だった? 下手な嘘だ。あの男がそんな間抜けに殺されるものか)
ジャイルズはカルソラがどれだけ恐ろしい存在か理解していた。躓いての不意打ちでは決して斃すことの出来ない相手であり、シンノスケが嘘をついていると内心断じていたのだ。
現に再び出会った時、ジャイルズは血みどろの東洋人がシンノスケであることにしばらく気付けなかった。西洋人の彼にとっては見慣れない風貌だからということもあるが、漂う雰囲気がまるで異なるのである。
「何者なのだ、お前は」
暗黒執事、伝説のスパイ男爵、秘密結社に謎の東洋人の登場――
脳を駆け巡る複数の単語。苦々しげに顔を顰めたジャイルズは、その場を後にした。
そしてシンノスケを見つめる視線は、もう一つ。
(あれは、一体何でしたの……?)
まさに刀を携えたシンノスケがカルソラと撃ち合わんとするその時、ガブリエラは壁一枚向こうで戦いの一部始終を見ていたのだ。どうするべきかも分からずただただ黙って震えていた彼女であったが、別人の様にすっかり口調が変わったシンノスケを目の当たりにして、思考は完全に停止した。彼がカルソラを返り討ちにしたのはその直後である。今まで恐れ逃げ回っていた相手を電光石火の早業で斬り捨てた――ガブリエラには銀の光が閃いただけにしか見えなかったが――のを目の当たりにして、混乱は極まった。カルソラの上半身が下半身と分かれたのを理解した彼女は全てが恐ろしくなり、息を潜めてその場を後にして、中庭に先回りした。このまま彼に話しかけると何かが壊れてしまうと予感したためである。
事実、シンノスケは嘘をつき、口調も怪しいものに戻ってしまっている。まるでそんなことは知らないと言わんばかりに。
彼は確かに自分達を守ってくれた。しかし、あまりに謎が多すぎる。
(シンノスケ、貴方本当に記憶が無いの?
そして、貴方は一体何者なのかしら?)
シンノスケに惹かれる自分と、慄れを抱く自分。
二つの意識が、彼女の心中でないまぜになり、彼女はまた泣き出したい気持ちになった。
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