シンノスケ、思い出すの巻

 エレベーターを降り、曲がりくねった順路を逆走し、そのままの勢いで中庭に入る。ここも走り抜けようとしたガブリエラは、隣を並走していたステラが足を止めたことに気付いた。振り向くと、ステラは両の目からぼろぼろと涙をこぼしている。

「ステラ!」

 ガブリエラの叫びにもステラは応えず、黙ったまま涙を流し続けていた。反して彼女の表情はすっきりとしたものであり、そこに強い決意を湛えていた。

「ステラ!」

 まずい。ガブリエラは直感的にそう思い、彼女の元に駆け寄った。

「足を止めちゃ駄目! 逃げますのよ!」

 だがステラは動かず、代わりに口を開いた。

「――私、残るわ」

「何言ってるの!」ガブリエラは反射的にステラの手を取った。「ティアが、シンノスケが、どんな気持ちで私達を逃したとお思い!?」

「あのね、ガブリエラ」ステラはしゃくりあげながらも、落ち着いた口調で話し始めた。「シンノスケは、本当はまだ私の正式な執事じゃないの。パパがある日突然連れてきて、それからまだ十日くらいしか経っていないのよ」

「それが――」

「ねえ、それなのに、どうして彼が私のために命を投げ出すと思う?」

「どうしてって」ガブリエラが言葉に詰まった。

「記憶が無いんですって、彼。自分が何者か、どこから来たのか全然分からないの」

 ステラが語ってみせた内容は、ガブリエラにとっては初耳で、衝撃的な話であった。ただ、今は非常事態であり、彼女はどこか感覚が麻痺したまま、シンノスケが記憶喪失であるという、その事実だけを受け取った。

「だから変な言葉遣いだし、常識だって怪しいでしょう。身体の大きな子供みたい」

 ステラは目こそ赤らめながらも、そこでふと微笑んでみせた。

「きっと、だから私達に過大な忠誠を捧げてしまっているの。まるで生まれたての雛がおもちゃを親鳥と思い込むみたいに。私は、今、卑怯にもそこにつけこもうとしているのよ」

「止めなさい、ステラ! それ以上はシンノスケへの侮辱よ!」

 ガブリエラの叱咤が中庭に響く。しかし、顔を上げたステラは負けじと声を張り上げた。

「私は、何も差し出していないのよ! 彼に何もしてあげられていない! それなのに――それなのに!」

 そこまで言うと、彼女は踵を返し、今来た道を走り出した。

「ステラ!」

 名を呼ばれたステラは一度だけ立ち止まり、しかしガブリエラの方を振り返ることなく、

「ガブリエラ、これは貴女に関係のないことよ! 貴女は逃げて!」

 それだけ言うと、遂に彼女は中庭から姿を消した。

 ぽつんと、静けさが残されたガブリエラを包む。外では警察が到着し始めたのか、喧騒が少し耳立ってきた。ガブリエラは奥と入り口を二度三度と交互に見ると、

「――ああ、もう! 関係ないなんて、そんなわけないでしょう!」

 捨て鉢に言って、ステラの後を追った。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 一方のシンノスケは、全身を己の血に濡らし、痛みを堪えながらも辛うじて壁伝いに階段を登っていた。腰に提げていたサーベルは、カルソラと立ち会った際に弾かれて、失っている。

(強い――)

 カルソラとは一度剣を交えていたためシンノスケはその腕前を知っていたつもりであったが、それはとんでもない思い違いであった。よくよく考えればあの時は黒幕であるロイドを背にした狂言の真っ只中であり、カルソラが本気を出す道理はないのである。つまりシンノスケが受けたのは遊びの剣で、それはカルソラの真の腕前のごく一端でしかなかったのだ。

 仮面を剥いだ暗殺者の強さは鬼神の如くであった。速度、強さ、しなやかさ、上手さ――どれをとってもシンノスケの想像の上を行くものである。ジャイルズがカルソラを暗黒の戦士と評していたが、然り、殺人を生業とする者の、殺意に満ちた剣であった。全身を斬り刻まれたシンノスケは、勝つことはおろか、こうして逃げ回ることすら許されぬほど消耗しており、それだけシンノスケとカルソラの間には実力差があった。

「死ぬか、ここで」

 やむを得まい、とシンノスケは考えていた。元々逃げる二人を追いかけて大英博物館に飛び込んだ時点で、彼は己の命を失う覚悟を決めていたのだ。幾つか理由はあった。二人を救うのに一人の命を使うのは、理に適っている。何よりその二人は見目麗しい貴族の娘である。どこの馬の骨とも知れぬ自分と比べれば、十分お釣りが来る引き算だ。

 それに、とシンノスケは息をついて思った。自分は元々死んだ身でもある。記憶を失い、浜に打ち上げられていたところをリチャードに拾われ、今ここにいる。モーズリー家への恩義は、死にゆく命への未練を遥かに上回っていた。

 しかし、それ以外のものが確かにあった。己はステラの執事なのだ。例え本人に認められなくても、勢いで執事を辞めると言ってしまっても、そうでなくなった自分が想像できない。ステラへの強い忠義が、今の彼を彼足らしめていた。

 では、その忠義は、一体どこから?

(……好きなんだろうな、多分)

 ほんの一週間と少しであるが、シンノスケはステラに好意を抱いていた。それが恋愛感情かどうかと問われれば、正直区別がつかない。ただ、貴族であるにも関わらず、真っ直ぐで、素直で、驕ったところがなく、思いやりがあって――そういった心の美しい部分が、ステラの所作から溢れてくるのを、傍で見てきたシンノスケは気付いてしまったのだ。

 だから彼女を生かすために自分が死ぬことは、決して悪い選択肢じゃない。願わくば、逃げるために十分な時間が欲しい。肌に張り付いた血液とズボンを剥がすように、シンノスケは前へ、そして上へと足を動かした。アジアの歴史的な展示物が並んでいるエリアを抜けて、シンノスケは大英博物館で最も高い5階に到達しようとしていた。LED照明で明るく照らされたケースが、視界の端に映る。

 そして同時に、彼はあるドアが不自然にぽっかりと開いていることに気付いた。恐らく普段は開くことのないスタッフ用のドアで、職員が避難した際に閉め忘れたのだろう。展示エリアに比べて不釣り合いなほど中は暗く、しかしシンノスケは得体の知れぬ引力、或いは予感に導かれ、ふらふらとそこへ入った。

 部屋の中は案の定薄暗い。だがシンノスケは電灯のスイッチを探すこともなく、奥へと歩みを進めた。近づくにつれ、ぼんやりと見えていた影がはっきりと輪郭を持ち始める。それは刀掛け、そして鞘に納められた一振りの刀であった。熱にうなされたが如く歩み寄ると、その前で彼は地面に膝をついた。震える手で、刀を取り上げる。彼は今から起こることを慄れていたが、しかし身体が止まりはしなかった。

 ゆっくりと鞘から抜き出すと、いよいよ艶のある音と共に刀身が顕になる。磨かれた面越しにシンノスケが自身の顔を見た瞬間、眉間にどんという音が走り、世界が白く塗りつぶされた。稲妻が落ちたのだと彼は思った。無論錯覚であるが、それだけの衝撃が脳を貫いたのだ。そしてありとあらゆる情報が、シンノスケの意識を蹂躙した。

「あ、あ、あああ」

 自身が押し潰されていく恐怖。白痴の如き呻き声が漏れ、そして声なき絶叫が、シンノスケの喉から迸った。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 撃ち合い――と言っても、現実はカルソラによる一方的な蹂躙――の最中に逃げ出したシンノスケの足取りを掴むのは容易い行為だった。カルソラの攻撃に大小様々な傷を全身に負っており、流れた血がそこかしこに点々としているのである。展示物を薙ぎ倒して通路を防がれた時はさしものカルソラも焦ったが、しかしシンノスケの悪あがきもそこまでと言えた。

 血痕を追って、階段を登る。匂いが近い。シンノスケはそう遠くないところにいると、カルソラは確信していた。

「痛いか、中国人チーノ。だがな、まだまだ序の口だ。これからお前には死んだ方がマシだったと、心から思って貰わなくちゃならない。お前の苦痛こそが、ピサロへの手向けになる」

 ピサロはカルソラの師であり、親の代わりであった。メキシコ生まれのカルソラは、麻薬カルテルとメキシコ軍の戦争に巻き込まれたある種の戦災孤児であった。カルテルに引き取られ尖兵として教育されていたが、それをピサロが拾ったのだ。

 スペインに戻ったピサロは子供のカルソラにも容赦なく暗殺術を叩きこんだ。苛烈を極めたが、そこにはピサロなりの愛情がこもっていた。彼はいつしか、カルソラに自身の子を重ねていた。昔にもうけた子であったが、病に倒れて死んだのだ。もう顔も忘れてしまったが、カルソラにはどことなくその子を思い出させる雰囲気があった。

 一方のカルソラもまた、ピサロに父親の面影を重ねていた。カルテルの連中はカルソラを奴隷のように扱ったが、ピサロは料理が下手だとけなしもするし上手く殺しをやってのければ褒めもした。ピサロと共にいることで、カルソラは人間らしさを積み上げていったのだ――例えそれが、屍山血河の上に成り立っているものであったとしても。

 カルソラはピサロに親愛と忠誠を示した。めきめきと剣の腕を上げていき、数年でピサロの弟子の中で一番上手いと評されるようになった。鼻や耳を削ぎ落としたのもこの頃である。変装に加えて顔の形を変えるために、自ら切り取ってみせたのだ。髑髏の仮面は、その顔を覆うのにちょうど良かったのである。それもこれもピサロを喜ばせようとした結果であるのだが、弟子のあまりの変わりように、師は初めて涙を見せた。

 この時、カルソラはピサロのために命を捨てることも厭わないと決めたのであった。

「ピサロはな、偉大な男なんだ――お前みたいな奴に殺されていい男じゃねえんだよ」

 そのピサロを殺されたとあって、カルソラの意識は復讐のみに向けられていた。如何にしてあの東洋人を痛めつけるか、そればかりを考えていたのである。

「ただで死ねると思うな。お前の手足の先から刻み落として、気絶しても叩き起こす。お前は叫びながら許しを請え。俺が許したら、お前を殺してやる。それまでお前は、ただただピサロを殺したことを延々と弁解し続けろ」

 言いながら、血の跡を追って5階に辿り着いた。後から拡張されたこの建物は階こそ高いが中の展示スペースは限られている。壁伝いにアクリルの巨大なケースが嵌め込まれ、中には東洋の美術品らしきものが展示されていた。

 その時、カルソラは奇妙な怖気を覚えた。眼前、部屋の真ん中には同じくケースがあり、中に鎧兜の一式が飾られている。染み付いた古代からの念がそう感じさせたのかと思ったが、すぐに勘違いであったと思い直すことになった。気配はその向こう側にこそあったのである。

 カルソラは剣を抜き、腰を落とした。

「出てこい」そう言うまでもなく、シンノスケが姿を現す。瞬間、カルソラの感じていた違和感は強烈なものとなった。ある種の瘴気を纏っていると錯覚する程の、魔的な雰囲気を、シンノスケが放っていたのである。それまでとは別人の様であった。無論見た目に変わりはない――左手に、鞘に納まった刀を持っていること以外には。

 シンノスケが口を開いた。


「――頭が高い。私を誰だと心得る。いやしくも神君徳川家康公の血を引く水戸藩主が嫡男、松平新之介斉光なりあきぞ」


 それは英語ではない、異国の言葉であった。表情を固めたままのカルソラを見て、シンノスケがふと笑ってみせ、再び英語で独りごちた。

「なんて言っても通じるわけがないか。不便でもあるが、悪くない。何より気楽だ」

「――なんだ、お前」カルソラはやや戸惑っていた。「妙な言葉遣いが治ってるじゃないか。頭でも打ったのか」

「そんなところさ」言い得て妙だと、シンノスケが微笑んだ。「お陰で忘れていたことを色々と思い出した。全く――こんなことがあるなんて、思いも寄らないことだったからね」

 それを見て、カルソラは苛立ちを露わにした。

「随分と余裕じゃないか、ええ、お前。さっきまで殺されそうだったのに、それでどうしようってんだ」

 そこまで言って、カルソラはカランという軽妙な音に気付いた。シンノスケが鞘を床に放った音である。一体いつ刀を抜いたのか、あまりに自然な動作であったため、カルソラは気にも止めなかったのだ。しかしそれが意味することを理解し、カルソラの心臓が早鐘を打ち出した。獲物だった筈の相手は、いつしか得体の知れぬ怪物にすり替わっている。彼は手首を返し、剣の切っ先をシンノスケへと向けた。

「腕が立つ男は好きだ」シンノスケは不敵に笑った。「実際お前の剣は見事なものだ。ありとあらゆるものを斬り伏せ、よくここまで来たものだ。だが」

 そこまで言うと、シンノスケの表情がさっと変わった。氷の様な瞳が、カルソラを射抜く。

「罪のない者を殺し過ぎた。最早お前をこれ以上生かすわけにはいかん」

 カルソラが笑う。しかしそれは余裕や喜びからくるものではなく、怯えを隠すような、引きつったものであった。

「――気が変わった。お前は一撃で殺す」

 応じるシンノスケが身じろぎもせず、腰を落とし、青眼に構える。それまでの落ち着きのない動きが嘘のようで、それもまたカルソラを混乱させた。

 じりじりと両者の間合いが狭まり、互いの剣先が軽く触れた。同時にカルソラがシンノスケの剣を弾く。火花が散り、それを合図にカルソラが一歩間合いを詰める。しかし足元で金属が跳ねる音と共に、剣先が軽くなっていることに、カルソラは気付いた。見れば切っ先が5センチ程無くなっている。弾いたタイミングにシンノスケが合わせて打ち込み、カルソラのレイピア、その先端を切断したのであった。

(馬鹿な!)

 あまりのことに狼狽しながらも、カルソラは刀身をシンノスケへぶつけようと、腕を振るった。しかし今度はその腕の重みが嘘のように消え、同時に痛みと熱がそこに殺到した。下段から跳ね上がったシンノスケの剣が、カルソラの腕を斬り飛ばしたのであった。

「馬鹿な――」

 床に転がる自分の腕を見て呆然とするカルソラ。その胴体が、どんという音と共に打ち抜かれる。

 自身の身体から流れ出る血液が急速に体温を奪っていくのを感じながら、カルソラの意識は闇に閉ざされ、間もなく心臓の鼓動も停止した。

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