シンノスケ、間に合うの巻

 路地を抜けて通りに戻った二人は、迷った挙句左、つまり来た道とは逆の方に走ることにした。

「あてはあるんですの!?」

「ないわよ、そんなの!」ガブリエラの問いかけに、ステラが怒鳴り返した。「とりあえず大きな建物に入って、警察を呼びましょう!」

 言って、ステラはちらりと隣を走るガブリエラを見た。かなり苦しげで、表情からはいつもの高慢さはかなぐり捨てられている。ステラ自身も限界に近く、ローファーが皮膚と擦れ、ストッキングが血で滲み始めたのを見て見ぬふりをしていたところであった。

 後方で悲鳴が上がる。振り向けば、路地から黒いコート、髑髏の仮面――暗殺者カルソラが出てきたところであった。それが意味することを察し、ガブリエラの顔が強張った。

「――ティア」

「考えちゃ駄目!」ステラがガブリエラの手を引いた。「走って!」

 カルソラはしばらく突っ立ったまま通りを眺めた。中心部に近づいてきたせいで人通りはかなり増えており、黒装束に髑髏の仮面という出で立ちは嫌でも人目を引いた。彼は遠巻きに自分を見ていた衆人に近づくと、黙って剣を抜き、そのうちの一人の胸をやすやすと貫いた。突然の出来事に、蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げながら人が逃げていく。自然、カルソラの前には道が出来た。ステラとガブリエラが、遂にその視線の先で露わになる。

「ま、まずいですわ!」叫ぶガブリエラが、ふと思いついた様な表情を見せた。「ああ、あそこ! あそこにしましょう!」

 言って、再び彼女は走り出した。ステラも追う。振り向けばカルソラがものすごい速度でこちらにやって来ており、焦りが足を動かした。

 A40道路から外れて小道を何度か曲がると、ステラもガブリエラの意図が漸く掴めてきた。そう言えば、ここには一度来たことがある。ガブリエラもそうなのだろう。良い案だと、ステラは思った。

 三つめの角を曲がると、黒い鉄柵、そして大きな街路樹が視界に入る。

「一気に走り抜けるわよ!」

 最後の気力を振り絞り、二人は道を駆け、高さが身の丈の倍以上もある門を抜けた。だが建物の入り口はそこから更にある。構わず、石畳の上を走り、階段を上がり、巨大な柱を抜けて小さな入り口にたどり着いた。

 二人が逃げ込んだのは大英博物館であった。

 飛び込んだその先で、彼女たちは息を整えながらも、臍を噛んだ。入り口には数人の警備員がたむろしている――それは良い。問題はセキュリティの厳重さである。入場者の鞄を開けてチェックしており、少しではあるが入場までに時間がかかりそうであった。いつもなら気にならない程度のものだが、今はそれすら致命的になりかねない。

 ステラは近くの黒人の警備員に話しかけた。

「すみません、私達、変な男に追われているの」

「なんですって?」警備員は驚きと疑いを視線に込めて二人を交互に、その後ステラの腰に差された剣を見た。

「外を見て!」

 言われるがまま、大きな体を屈めて、警備員がドアのガラス越しに外を見る。既に門を抜け、カルソラが大英博物館の敷地内へと走り込んでいた。

「何だありゃあ、ハロウィンはとっくに終わったぞ」

「殺人鬼ですの! さっき通りで人を殺してますのよ!」

「そりゃあ大変だ」

 こうは言っているが、彼はステラたちの言い分を完全には信じない。若者の悪ふざけの可能性は十分にあった。何しろここは世界に冠たる大英博物館なのだ。世界中から、月に一度は変人がやってくる。

 警備員は緩慢な動作でドアの外に出ると、入り口に立ちふさがるようにして、警棒をすらりと腰から抜いた。走り来るカルソラに、遠くから声をかける。

「おい、そこのコスプレ野郎! その格好だと館内は立ち入り禁止だぞ!」

 しかしカルソラは立ち止まらず、腰から剣をすらりと抜いた。事ここに至って、警備員も漸く事態の重さに気付き、警棒を構えると同時に無線器のスイッチを入れた。

「こちら正面玄関! 妙な格好の男が剣を抜いて、館内に侵入しようとしている。一発入れて叩きのめすから、運び出すのに人手をよこしてくれ」

 だが警備員がカルソラに一撃を入れることはできなかった。警棒を構えた途端、カルソラの剣が間隙を縫い、紺色の制服を貫いて胸に到達した。背中から突き出た切っ先、その先端から血となにがしかの肉が飛び散り、ドアのガラスに付着した。男はドアのもたれかかりながら、そのままゆっくりと地面に身体を横たえた。

「きゃあああ!!!」

 突然の事態に、玄関ホールが蜂の巣を突いたような騒ぎになる。観光客は逃げ惑い、数人の警備員がそれを手で払いながら入り口に近づいた。

「逃げますわよ!」

 再度、二人が走り出す。真っ直ぐに進むと中庭に到着した。中庭と言っても屋内にあり、その中央にはドームを備えた巨大な塔があり、両側に階段がそれぞれ半周する形で巻きついている。

「あそこに逃げ込む?」

「図書館は止めましょう、奥へ!」

 二人はそう言うと、左手の部屋に飛び込んだ。出迎えるのはロゼッタストーンである。彼女たちが入った古代エジプトの展示エリアには、そこかしこで石像が陳列されている。荘厳な雰囲気に二人ははっと息を呑んだが、後方で続く悲鳴に押され、再び足を動かした。奥まで行き着くと、傍の階段を駆け上がる。三階に到達し、再び進もうとしたが、ガブリエラの足の筋肉が限界を迎えていた。

「待って、ステラ、もう……」

 足を震わせながら壁に寄りかかるガブリエラに、ステラが手を差し伸べた。

「わかったわ、でもここは駄目、すぐに見つかる。隠れましょう」

「どこに?」

 カラカラになったステラの口が動くことはなかった。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 すっかり観光客がいなくなった部屋で、カルソラは仮面越しに息を大きく吸った。

 博物館特有の匂い、自身から漂う死の匂い、それに混じって甘い香りが鼻腔をくすぐる。女たちの匂いである。化粧品や香水、そういったものから発せられる強い香りが、そこかしこで漂っている。姿は見えないが、カルソラがステラとガブリエラを追いかけるのは実に簡単な作業だった。

 階段をゆっくり、音を立てずに登り、三階へ。ここで一旦気配は途切れている。カルソラは目を細めると、二人に向かって話しかけることにした。身じろぎ一つ誘うためである。この静かな状況で、音は重要な情報になるのだ。

「遠路はるばるご苦労だったな、女ども」

 古代の土器が飾られる部屋に、カルソラの声が響いた。

「テルフォードの御曹司にすっかり騙されたことだろう。お前たちはすっかり掌の中で踊らされていたんだ」

 返事はないが、薄笑いを浮かべながらカルソラは続けた。

「公爵が俺に殺されるのは二ヶ月も前に決まっていた。サウザンプトン大の教授もだ。ブラックモアは生かしても良かったが、頭と口が思った以上に軽い。混乱に乗じて、急遽殺すことにした。

これだけ死体を並べるには理由があった。何だと思う、モーズリーの娘?」

 カルソラは近くの土器を無造作に蹴り飛ばした。甲高い音を立てて、破片が散らばる。

「お前の父親に知らしめるためだ。リタイアしたくせに色々と嗅ぎ回りやがって。しかし娘を使いに出したのは悪手だったな。お陰で、一番欲しいコマが手に入る。お前を人質に取れば、お前の父親は簡単に言うことを聞くだろう。

……だがな、俺はそれを使わねえ」

 カルソラは仮面を脱いだ。見るものがいればぎょっとしただろう。彼には眉がなく、唇もなく、鼻も、耳もなかった。骸骨の面に肉と皮をつけただけといった、見慣れぬ容貌をしていたのだ。

「ピサロを殺したお前の執事を俺は許さねえ。生きてようが死んでようが、このままじゃ腹が立って眠れやしねえ。お前を半殺しにして、お前の執事をおびき寄せてやる。お前の手足を切り落として、ここに残しておく。軽くなったお前を運ぶのは簡単だ。俺はお前を連れてロンドンの何処かに隠れる。お前が死ぬまでにお前の執事が隠れ家を突き止めたらそれで良し。お前が死んだらゲームオーバーだ。もっとも、執事がやって来たところで、お前の前で縊り殺してゲームオーバーだけどな。

……聞いてるんだろ、とっとと出てこいよ、お嬢様!」



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 ステラはガブリエラと陳列された像の陰に隠れ、カルソラの独白をじっと聞いていた。

 恐ろしい話だった。特に父親のくだりは、ステラを大いに動揺させた。

(パパが? どうして!?)

 次に何をすべきかも思いつかず、ステラはただただ目の前の嵐が過ぎ去ることだけを考えていた。ガブリエラも同じだった。出ていけばやすやすと殺されかねないのだ。今更ながら気付いたその事実に、ただただ小さく震え怯えていた。目には涙が浮かんでいる。彼女たちの全身は、最早絶望だけが支配していた。

 その時、ステラは一瞬懐かしい匂いをかいだ。それも束の間、口元が突然誰かの掌で覆われる。ガブリエラの口元も、同じく誰か――男の手で覆われていた。突然のことに心臓が飛び上がったが、声を聞いてもう一度飛び上がった。

「声を出さないで、静かに。

――しかし、やはりあやつはとんでもないやつでござったな」

 恐る恐る、振り返る。そこには死んだと思われていた己の執事、その横顔があった。

「シンノスケ!」

 歓喜に頬を緩ませるステラであったが、すぐさま表情が強張った。ガブリエラが首元に飛びつき、頬にキスをしていたのだ。

「助けに来てくれたのね!」

「ちょっと、離れなさいよ、貴女! これはうちの執事よ!」

 ステラは自分の声の大きさにはっとした。ガブリエラが自分の執事に腕を絡ませているのを見て、思いがけない程の怒りが湧き上がってきたのだ。

「ふ、二人とも、静かにするでござる」

 絡みつくガブリエラを引き剥がすと、シンノスケは二人に向き直った。

「遅れて相済まぬ。二人が無事で何よりでござる」

「――本当よ。ばか」

 安堵に、思わずステラが涙する。つられてガブリエラの目も潤み、シンノスケは少し慌てた。

「いずれにせよ、なんとか間に合ったようでござるな。まさかロイド殿が真の犯人とは。全く驚きでござる」

 見て見ぬふりを決めたシンノスケはそう言うと、像の影からちらりと顔を出した。視線の先にはカルソラがいる。

「ええ。私達も驚いたわ」

「他の御人たちは」

 シンノスケがそう問うとガブリエラの顔が曇った。彼はそれで大体のことを理解すると、小さく頷き、

「――戦いは、避けられそうにないでござるな」

 独りごちると、シンノスケは再び二人に向き直った。

「ここから脱出するでござる。息を潜めて、ゆっくり、こちらへ」

 口元に人差し指を当てて、腰を屈め、静かに動き出す。

 彼について行った先には小さいながらエレベーターがあった。既に到着しており、扉が開ききっている。気取られないように、シンノスケが仕込んでいたのであった。そこにステラとガブリエラが身体を入れると、シンノスケが扉の前に立ち、二人の顔を見つめた。

「これからそれがしの言うことを聞いて欲しい。それがしはここであの男を食い止める。その隙に二人は逃げて、警察に保護を求められよ。それからウィルフレド殿に連絡を」

「駄目よ」ステラがシンノスケの腕を掴んだ。その頬は青白い。

「サウザンプトンで貴方と別れて、私は本当に後悔したの。連絡がつかなくて、本当に不安だった。ロイドが貴方は死んだと言って、本当に辛かった。だから、こうして生きて会えたのがとても嬉しい――」

 ステラの口からは、普段彼女が口にしないような言葉が溢れた。それは彼女の素直な、剥き身の感情だった。

「もう失いたくないの。あんな思いは二度と、二度としたくないわ」

「しかし、ここでこうしていては全滅は免れぬ」必死に食い下がるステラに反して、シンノスケの表情は強張ったままであった。彼は「ガブリエラ殿」と首をそちらに向けると、

「ステラ殿をお頼み申す。こうなってはガブリエラ殿だけが頼りだ」

「なに言ってるの、貴方も来るのよ!」

「そうしたいのもやまやまだが、これが一番全員の生存する確率が高いと考える」シンノスケは首を振った。

「もうすぐ警察がここまで来る。それがしはそれまで、何としてでもここで奴を食い止める。そこにステラ殿とガブリエラ殿がいるのは、正直足手まといにござる」

 ガブリエラはじっとシンノスケの目を見た。ふとシンノスケは顔を綻ばせると、

「なに、それがしなら大丈夫。食い止めると言ってもこの広い館内で逃げ回るだけ、鬼ごっこは得意中の得意でござる。だからお二人には、それがしが逃げやすいよう、一刻も早くこの大英博物館から逃げ出して欲しいのでござるよ」

「……分かったわよ」ガブリエラはぐっとステラの手を取った。

「嫌、私は残る!」ステラは首をいやいやと振ったが、シンノスケがぎっと睨みつけた。

「ティア殿はどうなった。彼女は何故ここにおらぬ」

「――――それは」

 それ以上の言葉は、ステラの口からは出なかった。

 シンノスケは肩越しにちらりと後ろを見た。彼は既に、カルソラが近づいてくる気配をひしひしと感じていた。ドアのボタンを押すと、扉が閉まっていく。

 ぱくぱくと、ステラが声にならぬ声で話しかける。見ていられないと、ガブリエラが叫んだ。

「貴方、絶対に生き残りなさい! 私だって、貴方には死んで欲しくないんだから!」

 シンノスケは応えず、黙ったまま二人に背中を向けた。

 いよいよ扉が閉まる。ステラの喉から、遂に言葉が放たれた。

「シンノスケ!」

 一瞬の浮遊感と共に、再び二人が分かたれた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 カルソラがエレベーターの前に到着した時には、既にエレベーターは1階に辿り着いた後であり、その前でシンノスケが抜剣して待ち構えていた。

 獲物を逃したと言うのに、カルソラは鼻のない顔を歪めて喜んだ。

「あの女どもを逃したか」

「…………」

「どちらでもいい。女どもは、いつでも殺せる。俺はお前に会いたかった」

 カルソラは笑顔を顔面に貼り付けたまま、しかし殺気に満ち溢れていた。

「ピサロを殺したのはお前か」

「……ピサロ?」シンノスケは首を捻ったが、「ピアソン教授を殺そうとした男のことか」と言うと、カルソラの笑みは一層深まった。

「そうだ」

「……左様だ。それがしが止めを刺した」

「へえ」

「ついでに言えば、ピアソン教授は一命をとりとめた。つまり、お主らの目論見は直に白日のもとに晒されることになる」

 シンノスケは近づくカルソラに、剣の切っ先を向けた。

「それがしらの勝ちだ。最早これ以上暴れようとも無駄である。なにを企んでいるか知らぬが、残念であったな、髑髏の男よ」

 カルソラは俯き、そして腰をかがめてくつくつと笑った。

「なにがおかしい」

「御曹司の企みなど、俺が知ったことではない。今の俺がしたいのはただ一つだ」

 言うと男は踏み込んだ。振るわれた剣をシンノスケは辛うじて受け止めたが、腕の肉が軽く削がれ、痛みに顔を歪めた。

「お前に地獄を見せる」

 カルソラの両目が、怪しく輝いた。

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