シンノスケ、移動するの巻

 ブラックモアは自身を訪ねてきた貴族の集団を見ると突如顔色を変え、その場から走り出した。

 あっけにとられたステラ達であったが、いち早く事態に気付いたジャイルズがさっと形相を変えると、ブラックモアの後を追って走り出す。そこで漸く、ステラ達も、何か尋常ならざることが起こっているのだと理解し出した。

「ジャイルズ!」

 自身の執事の背中目掛けて声をかけるが、ちらりとも向く気配もない。慌てて追う三人だが、人混みをかき分けながら進むうちに先行する二人がますます遠ざかっていく。

「待って!」

 ジャイルズはあえてステラ達の声を無視し、逃げるブラックモアを追いかけた。ここにきてこの行動、公爵の死について明らかに何かを知っている――ジャイルズは確信していた。

 ホールから飛び出したジャイルズは、走るブラックモアの背中を追い続け、A40道路に飛び出した。が、敵もさるもの、既にその姿は小さい。あのなり・・――スーツに革靴でよくもまあ器用に走るものだと、ジャイルズは額の汗を拭った。自身も執事としての正装、つまりスーツに革靴を纏っているだけに、ブラックモアの健脚に驚きを隠せない。とは言え弱音が差を縮めてくれるわけではなく、ジャイルズもブラックモアに倣い滑らかな革靴の底で石畳を蹴りつけた。

「うわ、もうあんな所だ」

 漸くホールの出口から顔を出したロイドは、まさに角を曲がり視界から消えようとするジャイルズの背中を見て嘆息した。

「皆、走れるかい?」

「お気になさらず!」ガブリエラが気炎を上げた。「わたくしこう見えて、かけっこは小さい頃から得意でしたのよ!」

「意外ね、私もよ」ステラがガブリエラを見て笑みを浮かべる。ティアは黙ってこそいるが、執事にそれを問うまでもないと判断したロイドは「行くよ!」と号令をかけ、自身も走り出した。

 大の大人がぞろぞろと道路を走るのは実に目立つもので、人通りはさほどではなかったにしろ、彼らは自然衆目を集めた。追う側のロイド達にとって見れば恥ずかしいことではあったが、役には立った。標的のブラックモアの姿はとっくに視界から消えているが、彼が向かった先は周りの人の視線が教えてくれる様なものである。

 彼らが走るA40道路は基本二車線の道路であり、両側は新旧織り交ざった高さ10m程の建物がみっちり詰まっている。さながら渓谷の川底を行く様で、他には切り取られた曇天のみが見えるばかりであった。

 緩やかな坂を登っては下り、ロイドの鈍った身体が音を上げ始めた頃、ジャイルズの姿も見えなくなった。見失ったかと思ったが、通行人の何人かが脇道の方を向いている。

「こちらですか?」

 そのうちの一人に、ティアが問いかけた。突然現れたメイドに驚いた様子のバックパッカーが、慌てて頷く。

「ああ、さっき走ってきた男達だよね!?」

「ええ。情報ありがとうございます」

 礼もそこそこに、ティアとステラが走り出す。ガブリエラも言うだけあってまだ余裕そうな表情を見せており、この場では男のロイドだけが酸欠に顔を歪めていた。

 細い脇道を、縦列を組んで進む。道幅は半分以下になったが両脇の建物の高さは相変わらずで、その分あたりは一気に暗くなる。進んだ先の角を曲がると、果たしてそこにはジャイルズが立っていた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



「ジャイルズ!」

 ロイドが息を切らせながら声をかける。だが呼ばれた当の本人は振り向きもしなかった。

 既にジャイルズは抜剣していた。切っ先をだらりと地面に向けて垂らしてはいたが、その様子に隙はない。額には汗が玉になって浮かび、目は鋭く、ただならぬ気配を放っている。眼前には壁に寄りかかりながら気障な笑みを浮かべているブラックモアがいた。更に二人の間に、もう一人別の男が立っていた。赤銅に焼けた肌に長めの髪を首筋まで垂らした、中年の男だ。特筆すべきは190cmをゆうに超える巨軀。気圧され、一同が無意識に後退る。

 獲物が雁首を揃えたと、男は不気味に微笑んだ。

「久しいな、キャボット」

 自身の名を呼ばれ、ジャイルズは顔を憎々しげに歪めた。

「何故お前がここにいる、コルテス」

「……へえ、知り合いかい?」

 ブラックモアは自身の執事、或いは用心棒であるコルテスへ背中越しに声をかけた。

 呼ばれた男は振り返ることなく、

「そうですなあ。なにせ、狭い業界だもんでね」

「なるほど。それは、知らなくても良い知識が増えたな」

 ブラックモアが嫌味ったらしく笑う。自分の執事が出てきたことで余裕が出てきたらしい。面倒なことになったと、ティアがコルテスの全身に目を配りながら考えた。

 しかし、

「二対一なのに、実に余裕なのですね」

 ティアの言に、ブラックモアは笑みを深めた。

「そう思う? なら、そう思ってくれていて結構」

 のらりくらりとした態度に業を煮やしたステラが、低い声で問いかけた。

「私達を見て、何故逃げたの? 貴方、知っているのね」

「何の話だ、お嬢さん?」

「公爵の事件!」声を荒げたのはガブリエラである。「知らないとは言わせないわ」

 聞いたブラックモアが、片眉を上げてみせた。

「お気の毒なことだった。ただ、翻意したのは向こうの方だぜ。はじめは乗り気だったくせに」

「翻意?」

「俺達はビジネス仲間だったのさ。運命共同体だった。俺、公爵、教授、そして――」

 そこまで言うとふと口を噤み、青年投資家はもたれかかっていたモルタルの壁から身を起こし、再び話し始めた。

「幾つか言いたいことがある、貴族の皆さん。まずひとつは、よくこいつ・・・の攻撃を逃れてここまでやって来た」

 その瞬間、ブラックモアの背後に音もなく何か黒い塊が降り立つのを、全員の目が捉えた。薄暗い路地に浮かぶ骸骨は見間違えようもない、あの仮面――ずっと追ってきた、公爵を殺害した下手人であった。死の淵に立たされていた記憶が蘇り、ステラは恐怖に心臓を掴まれた気分になった。

「まったく驚きだ。こいつは中東で暴れまわっていた頃、一人でアメリカ陸軍の分隊を皆殺しにしたこともあるんだぜ。それだけ信頼していたから、今回みたいな話は、良くないサプライズだった。

――ここまで言っておいて何だが、つまり、もう一つ言いたかったってのは、二対一じゃない。二対二だってことさ」

 そこまで言って、ふとブラックモアが首を傾げた。

「報告ではもう一人いたはずだ。どこに行った、コルテス」

「……さあ。重要ですかね、それは」

 とぼけるコルテスをブラックモアは露骨に嫌悪の表情で睨みつけたが、

「わかった。確かにどうでもいいことだ、それは。

――さて。そろそろ俺はここから離れるから。お前たち、適度に片付けておいてくれよ」

 コルテスが抜剣する。取り出された分厚い剣を見て、ジャイルズが構えた。

「逃げろ。俺が食い止める」

 二人の暗殺者を前に立ちはだかるジャイルズを見て、ブラックモアが声を上げて笑った。

「出来ると思ってるの? 笑っちゃうよな、お前ら」

「何をしている! 構わず行け!」

 ジャイルズの絶叫に弾かれた様に動き出すティア。しかし貴族の子女達――ロイドとガブリエラ、そしてステラの足は固まったままだった。

 仮面の男が、遂に動き出した。

「行け!」

 ジャイルズはそれを止めようとするも、眼前のコルテスが許さない。ブラックモアの執事、その間合いはジャイルズのものより大きく、簡単には打ち込めない。その上、コルテスの背後には仮面の暗殺者が控えている。ジャイルズは頭では二人を食い止めなければと分かってはいたが、拙い行動をとればたちまち殺されてしまうという現実を前にして、本能が次の一手を封じていた。

 仮面の男が剣を抜く。電光石火の動き。声を上げる間もなく、切っ先が胸を貫き、血が溢れた。

「……なん、で」

 口から血を吐き出し、驚きに目を剥いたのは主であったブラックモア。

 事態を飲み込めないといった顔のまま、彼は地面に倒れ込んだ。

 全員の驚きを他所に、ブラックモアの朱黒い血が石畳の溝を伝って広がっていった。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 まずいことになった、とティアが考えた。

(一体、どうなっているの、これは――)

 一度に色々なことが起こりすぎた。ブラックモアが公爵殺しに繋がると確信した直後、下手人が姿を現したと思ったら、その主人と思しきブラックモアをたちまちのうちに刺殺した。まったくもって、予想していた状況とは異なる現実が眼前で展開されている。だがその分油断がならない。結局二人の敵と思しき男達の目的は知れず、舌舐めずりしたまま目の前に立っているのだ。次に一体どんな行動を取ればよいか、混乱した頭では何も思いつきはしなかった。

 それはティアのみならず、ジャイルズ、そしてステラも同じであった。次に起こる事態を恐れ、一歩も踏み出せずただ剣を構えていた。三人と二人が、ほんの3メートル程度の間合いで睨み合っている。ひりつくような緊張の中、一人が不意に歩き出した。

「ロイド様、なりません!」

 己が主人を止めようと絶叫するジャイルズであったが、ロイドはゆっくりと、しかし淀みなく歩き、ジャイルズの脇を抜け、コルテスの横すら抜け、ブラックモアの死体の前で足を止めた。

 全員が息をのんで見守る中、ロイドがブラックモアの頭に足を乗せ、ひねる様にじっくりと踏みつけた。頭蓋骨が軋む音が、か細くではあるがステラの耳に届いた。

「よくもまあ、こいつはここまで手を焼かせてくれたことだね」

 ロイドの声は震えていた。恐怖に、ではない。怒りで震えていた。そして彼の横顔は醜く歪んでいる。

「どいつもこいつも! 何故僕の言うことに従わないんだよ!」

 吐き捨てるように言うと、ロイドは物言わぬブラックモアの頭部を蹴りつけた。首はあらぬ方向に曲がり、そのまま返ってくることはなかった。

「ロイド様、これは、一体――」

 突如豹変したロイドに、ジャイルズは声を上ずらせて問いかける。

 ロイドはそちらに顔を向けてにっこりと微笑みかけると、

「みんな、ご苦労だった。お陰で迅速に始末できたよ」

「始末……?」

 ステラがうなされたように呟いた。「どういうことなの、ロイド? これじゃまるで、まるで、」

「まるで、僕がこいつの暗殺を指示したみたいだって? 酷いなあ、そう思うのかい、ステラは」

「そう見るのが自然ですわ」ガブリエラが眦を釣り上げて言い放った。「そちらの物騒な二人と、お知り合いだったのですね」

「そうとも」

「――聞き捨てならぬお話です」ジャイルズの声はいつもより更に低い。「執事である俺は、何も知りませんでした」

「何でもかんでも知ろうとしてどうするのさ。君には感謝しているよ。よく働いてくれた」

 決別に近い言葉を浴びせられ、ジャイルズは怒りに拳を震わせた。

「一体、なんのためにこんなことをしたの」戸惑いがちにステラが言った。「公爵も、この人も、貴方が命じて殺させたの? 何のため?」

 そこまで言って、彼女ははたと気付いた。

「まさか、サウザンプトンの教授も」

 ガブリエラが目を剥いてステラを振り返り、すぐさま首を戻してロイドを睨みつけた。

 視線を集めたロイドは喉を鳴らして笑った。

「今頃くたばっている頃だろうさ。サウザンプトンにはもう一人、手練れを残してあるんでね」

「――シンノスケ」

 さっと青ざめたステラが、己の従者の名を呼んだ。「シンノスケは、どうなったの?」

「そりゃあ、一緒に始末しただろうさ。あのくらいの男一人、わけもないだろう」

「――うそ」

 全身を絶望が包み、ステラは辛うじて立っていられるだけであった。だがその意識は最早ここにはない。虚ろな表情で、後悔の言葉をただ呟いていた。

「気の毒に。執事と主人は表裏一体、離れては生きていけない存在だ。離れるとこういうことになる」

 得意げな表情を浮かべるロイドに、ガブリエラ達が怒りをむき出しにした。罵りの言葉を投げかけようとしたその時、ロイドの前に立つコルテスが、先に口を挟んだ。

「ところで御曹司。そちらにピサロからの連絡は?」

 ピサロ、とはコルテス達の仲間の一人である。

「ん?」ロイドが首を傾げた。「知らないよ、僕は。そう言えば、もうそろそろ二人を始末出来た頃だろう。まだ連絡が来ないのか」

「なんだって」沈黙を保っていた仮面の男が声を漏らした。「ピサロから連絡がない? この時間になっても?」

 ロイドはコルテスを、コルテスは仮面の男を、仮面の男はロイドを見た。互いに顔を見合わせた後、しばらくの沈黙が場を包む。そして突然、コルテスが笑い始めた。

「何がおかしい」仮面の男が食って掛かるが、コルテスは応えず、笑いながらロイドに向き直った。

「御曹司、ピサロという男は真のプロフェッショナルだ。プロは約束を違えない。特にピサロという男は時間に厳しい。だから、これほど連絡が遅れるというのは、何かあったと考えて然るべしだ」

「……つまり?」

「失敗したんだろう」

「バカな!」仮面の男が声を荒げた。「残ったのはあの中国人チーノだろ、あのへっぴり腰がピサロを倒せる訳がない!」

「御曹司、その中国人チーノからの連絡は?」

「いいや。電話は繋がらなかった」

「辻褄が合う」コルテスは一際高い声で笑った。「ピサロは失敗した。だが刺し違えたのだろう。今頃大学は大騒ぎになっている筈だ」

 ロイドはコルテスの説明に頷いた。「なるほど。死してなお仕事を全うするか。プロの鑑だ」

「俺は納得が行かねえ」仮面の男が一歩前に進んだ。「まだ生きているかもしれない。こいつらを餌にして、おびき寄せる」

「餌?」

「部屋に閉じ込めて、手足を落とす。その写真をばら撒く」仮面の男の声には強い憎しみが篭っていた。「待つのは二、三日だ。その後はこいつらがもたない。それまでに来なければ、もう俺もそれで我慢してやる」

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