シンノスケ、立ち尽くすの巻

 女生徒の悲鳴やシンノスケらの丁々発止が聞こえなくなり、どこからともなく人が集まりだす。遠くから近づくそれを背中に受けて、シンノスケは男の前に立っていた。膝から倒れ込んだ男は、廊下の壁に背中でもたれた形のまま、目の前でぴくりとも動かない。オールを固く握りしめながら、シンノスケは肩で息をしていた。

 薄氷の勝利であった。相手の腕前を考えれば、シンノスケがこうして五体無事に立っているのは僥倖としか言いようのない結果である。それだけ男の剣は不可解な程の力を有していた。

 しかしそれを打ち破り、最後に残ったのはシンノスケである。

 彼は自身の裡に、自分の知りえない何かが棲んでいることに気付いた。それは炎の様であり、氷の様であり、稲妻の様であった。失った己の記憶の一部であることには違いないと気付いていたが、それ以上のことは掴めそうにない。霧の中でもがいている気がして、シンノスケは小さな苛立ちを感じた。

「お、おい、君」

 背後から様子を伺っていたピアソンが、おっかなびっくりシンノスケに声をかけてきた。「もういいのか」

 シンノスケは応えず、黙ったまま立ち尽くしている。飄々としたどこか頼りげのない東洋人の青年、その背中に今は鬼気迫るものが宿っている。知らず生唾を呑み、ピアソンの喉が上下した。

「誰なんだ、一体この男は」

「――ご存知ないのか」

「知らない、知るわけがないだろう」

「左様であるか」

 深々と溜息を吐いたシンノスケは、足元に転がる剣を拾い上げ、鞘に戻した。

「この男、それがしのことを知っていた様であった。正確には、伝え聞いていた、といった風であったが」

 シンノスケはそこでピアソンを見た。ピアソンの目は忙しなく男とシンノスケを行き来している。

「つまり、この男は、公爵を暗殺した一味の一人である。そして、連中は、やはり複数犯らしい」

「複数……」

 そこまで言ったところで、突如男の足が動いた。淀みなくがばと立ち上がるが、眼球はひっくり返ったままだった。口も半開きになっており、意識が不確かなのは傍目からも明らかである。

「何!」

 驚いたシンノスケが柄に手をかける。

 男は立ったまま、コートの内側に両手を入れ、茶色い一組のガラス瓶をそれぞれ抜き出した。ほぼ同時に、プラスチックの蓋が床に落ち、乾いた音を立てて転がる。

 二人は動くことも出来ずただ液体が地面に注がれていくのを眺めていたが、男の意図するところに、十分過ぎるくらいの危険を感じていた。鼻腔を突く、甘い刺激臭がそれに拍車をかける。

「逃げるでござる!」

 言うや否や、シンノスケがピアソンを担ぎ上げるようにして、背後の居室に突き飛ばした。途端、彼は背後で空気が膨れ上がるのを感じた。押し出されるように飛び込むと、破裂音、そして強烈な炎が今しがたまで立っていた廊下を覆い尽くした。中途半端に開いた窓のガラスがビリビリと揺れる。その度に、悲鳴がそこかしこで上がった。

「とんでもないやつでござったな」

 廊下に這い回る炎を見ながら、身体を起こしたシンノスケが呟いた。「いたちの最後っ屁、というやつでござろうか」

「液体爆弾だ」ピアソンは痛む身体を庇いつつ、こちらもゆっくりと身体を起こした。「ああやって混合するだけで爆発する、と言うのはあまり聞かないが」

 そこまで言うと、ピアソンはシンノスケの目をじっと見た。

「君は、確か、し、シ――」

「シンノスケでござる」

「シンノスケ。そう、シンノスケ。

君は、デイヴ――サー・デイビッド・フィッツロイの仇討ちをすると、そう言っていたな」

 無言で頷くシンノスケに、ピアソンは口を開いた。

「私に心当たりがある。証拠は無いが、私とデイヴを襲う者など一人しか考えられない。あの男は――」

 そこまで話したところで、廊下の方でごうと炎が鳴った。顔を上げたシンノスケの眼に飛び込んできたのもまた炎であった。ただしただの炎ではない。人の形をした橙の炎が、のたうちながら部屋に入るや否や、ピアソンの背中を手に持った剣で貫いた。切っ先がするりと腹から突き出る。

 眼前の光景に、シンノスケは青ざめた。先程打ち倒し、自爆を選んだ筈の男は、まだ息があったのだ。

 一瞬ピアソンが呼吸につまり、う、と呻いた。背後でそれを聞いた炎人の口が、三日月状に開く。

「おのれ!」

 シンノスケは絶叫すると腰からサーベルを抜いた。電光石火の早業、いつものシンノスケでは決して出来ない芸当であるが、怒りに支配された頭では自身の異常に気づくことなく、彼は一撃で男の首を刎ねた。火に包まれた鞠のようなそれが、壁に当たって床に転がる。一方残された胴体、その首元から噴き出した血の勢いは弱々しく、数滴だけピアソンの身体にかかった。ほぼ同時に、胴体が廊下に向けて倒れ込む。肉が焼かれる匂いが、あたりに立ち込めた。

「ピアソン殿! しっかり!」

 腹を抑えながら荒く呼吸をするピアソンの身体を、シンノスケが支える。一瞬刺さった剣を抜こうとしたが、失血を嫌って、それを止めた。が、それ以上の手立てがあるわけでもなく、シンノスケは悔恨に表情を歪めた。

 ピアソンはそんなシンノスケを弱々しくも掌で制すると、震える唇を開いた。

「――――」

 ピアソンの口から発せられたのは人の名であった。しかも、聞き覚えのある。

 シンノスケの目が驚きに見開かれた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 ロンドン証券取引所に併設されたホールは決して規模が大きいものではない。だから人気のある会議カンファレンスなどが開かれると、すぐに人でいっぱいになってしまう。そして、それは今日も例外ではなかった。

 この日に開催された『ヘルスケア事業に関心のある投資家へのフォーラム』は規模こそさほどでないにしろ、国内外の大手製薬会社や医療機器メーカーはもとより、投資銀行、果ては携帯電話で有名な電気機器メーカーまで、多数の企業が協賛に名を連ねている。彼らは一様に『Sponsor』と印刷された紙が入ったストラップを首からかけており、数はざっと見るだけで参加者の半分を占めている。もう半分が『Investor』、つまり投資家であり、残りが『Staff』、或いはステラ達『Guest』といった具合であった。通常講演者のような招待客のみに『Guest』が発行されるが、貴族であれば例え飛び入り参加であっても最恵待遇扱いとなるのだ。

「――ダメ。繋がらない」

 壁にもたれかかりながら、ステラは今日何度目かの溜息を吐いた。右手には電池の残量が半分を切ったスマートフォンが握られている。まだ昼前だというのにこれほど消耗しているのは、彼女が何度もシンノスケへの通話を試みているからであった。だがその一切が通じることはなかった。それも当然で、シンノスケのスマートフォンはとっくに電池切れとなっていたからであった。

 既に彼女の顔面は蒼白に近い。従僕の安否が気がかりならずで、ロンドンに着いてからこの方ずっとこの調子であった。

「どうしよう、私」

「落ち着いて」ロイドがステラの肩にそっと手を回した。「そう・・と決まったわけじゃない」

 顔を覆うステラとそれを慰めるロイド。二人を眺めながら、しかしティアはシンノスケの身に何かあったのだろうと想像していた。

(やはりサウザンプトンは危険でしたか)

 あのままあそこに居続けたら――そう考えてティアはぞっとしたが、同時にシンノスケのことを気の毒にも思った。結果的に、彼は主人や自分達の身代わりとして、トカゲの尻尾になってしまったのだ。しかし誰かが彼にそう命じたわけではなく、何よりサウザンプトンに残る選択をしたのはシンノスケ自身である。

(シンノスケ――貴方は奇妙だったけれど立派な執事でしたよ)

 心中で同情の念を寄せるティア。一方で彼女の主人であるガブリエラもステラを励まそうと、彼女の手を取った。

「とにかく、連絡が取れないなら向こうから来るのを待ちましょう。どうせ今連絡が取れないのも、終わってみれば大した理由じゃなかったりするものよ」

 そう言いながら、しかし彼女自身もまた、内心は不安でいっぱいであった。ステラがパニックになりかけている分、ガブリエラは平静を保てているのである。ここにいる誰もが、シンノスケの安否について、確たる証拠がなくとも何かあったに違いないと感じていた。

「ほら、ケータイの電池切れとか、彼って不器用そうだしそもそも使い方を知らなかったりとか」

「……わかったわ。そうね、今は、あまり考え過ぎても、どうしようもないわ」

 ステラは納得したようなことを言っているが、その表情は相変わらず浮かない。やむを得ないことだが、今は先に進まなければ、とロイドが口調を変えた。

「さて、目当てはブラックモア氏だ。どこへ行ったのやら」

 彼らがロンドンまで車を飛ばしてやって来たのはこのフォーラムに出席するためでもあるが、それもこれもフィッツロイ公爵の知人であるというフランシス・ブラックモアに会うためである。彼らはブラックモアが講演する姿を見ていたから顔をこそ知っているが、その後の行方を見失ってしまっていたのだ。

 ブラックモアの講演はフォーラムの主旨に沿ったもので、如何にこの先ヘルスケア事業が投資先として魅力的であるか、といった内容であった。ステラ達はその内容に興味を一切抱いていなかったが、小さいながらホールがいっぱいになっているのを見て、そこそこに名が売れていることを何となく知った。さもありなん、いち投資家であるブラックモア――それもまだ若い――がこういった場で壇上に登って話をする、というのは異例のことである。フォーラムの看板を任されていると言っても過言ではない。金融大国である英国においても、それだけブラックモアが投資家として気鋭の存在であるということであった。

 そこまでの男なら、すぐに見つかるだろう――と高をくくっていたロイドであったが、人も多く、そう簡単には見つからない。いつもなら執事に全てを任せたいところであったが、シンノスケとの連絡が途絶えたと分かってから、ジャイルズとティアは傍を離れず一層気を張り続けており、三人から片刻も離れられずにいる。

「こうして時間を潰しているのは非効率的だ。スタッフを捕まえて、居場所を聞こう――ジャイルズ」

 ロイドの執事、ジャイルズが小さく頷くと、周囲に目を配りながら静かに歩き出した。後をロイド、ステラ、ガブリエラ、ティアが続く。ロイド以降の女性陣は若くきらびやかで容姿淡麗ときており、やや堅い場において非常に目立つ存在で、列をなしていると自然視線を集める。今しがたまでジャイルズ達はそれを嫌って人目を避けるように行動していたが、それも限界であった。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 会場の受付を訪れるものは少なかったが、手狭なホールから溢れかえった人がちらほらおり、そこかしこで話し込んでいる。ジャイルズ達はその合間を縫いながら目標のデスクまでやっとこさ辿り着くと、受付の若い女性を前に、まず己が強引なタイプの人間であることを表現しようとした。彼は「おい、そこの君」とぶっきらぼうに女性へ声をかけると、

「今日講演したブラックモア氏にお会いしたい。彼は今どちらに?」

 やや凄みを利かせて問いかけた。応対する女性は突然のことに当惑しながらも、

「申し訳ありません、個人的な件に関してのご対応は……」

 効果は今ひとつであった。目論見が外れ少しばかり意気消沈し、視線を外すジャイルズ。後ろから見ていたステラはそれに気付いて、あのダンディな中年の男は意外と女性の扱いに慣れていないのでは、と疑念を抱いた。

 しかしジャイルズはめげず、顔を上げると、

「ではまず主催者の方にご連絡頂きたい。こちらはロイド・テルフォード、テルフォード公爵のご嫡男にあたるお方だ」

「はあ……」

「はあではない」

 ジャイルズは指先で机をとんとんと叩いた。

「のみならず、こちらにはボールドウィン家のご息女、モーズリー家のご息女までいらっしゃる。我ら、急ぎ、ブラックモア氏に確認しなければならないことがある。直接会うのが問題なら、主催者を通して話をしたい。

あまりこちらの方々をお待たせしないことだ。失礼になるのでな」

「そう言われましても」

 受付嬢の困り顔を見たロイドが割って入ろうとしたその時、彼らの背中越しに声をかける者がいた。

「俺をお探し?」

 全員が一斉にそちらを向く。果たしてそこには、先程壇上で見た男――整髪料でがっちりとサイドパートの髪型を撫で付けたフランシス・ブラックモアが、気障な笑みを浮かべて立っていた。

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