シンノスケ、振り回すの巻

 シンノスケを部屋から追い出したピアソンは、うろうろと部屋の中を歩き回りながら視線を虚ろに這わせた。彼の心を占めていたのはフィッツロイが殺害されたということ、そしてその犯人についてである。唐突に知らされたニュースを受け止めきれず、頭は溢れた感情で麻痺していた。哀しみ、恐怖、焦燥がマーブル模様のようになって、彼の心にどっしりと溜まっていた。

「見せしめ、見せしめだと」

 先程現れた執事と名乗る東洋人の言ったことが、ピアソンの脳にこびり付いていた。そしてそのことが、彼に得体の知れぬ寒気を感じさせている。心当たりは無いわけではなかったが、俄には信じがたい。それは人の命を、それも公爵の命を奪う程の重罪に見合うものであろうか?

 ピアソンはついと壁に目をやった。そこには多くの写真が額縁に入れられ、飾られていた。ピアソンの家族、研究室の卒業生らが映っているものが殆どであったが、そこに混じってある古い一枚の写真があった。退色著しいそれには太いボーダー模様のフルボディの水着に身を包んだ数人の青年が、湖畔と思しき水辺で肩を組んで映っている。そのうちの一人は若き日のピアソンであり、隣は若き日のフィッツロイであった。およそ30年も前の光景である。

「デイヴ、本当に、君は――」

 長年の友人が急逝した。その事実を見知らぬ他人、そしてニュースから聞かされ、ピアソンは受け止められずにいた。無理からぬことであった。死という単語とデイビッド・フィッツロイという人物が結び付けられず、彼の意識はふわふわと漂うばかりであった。

 その時ドアが突然ノックされ、ピアソンは足を竦ませ立ち止まった。そちらの方に目をやる。誰かが来たらしいが、今は居留守を使いたい気分だった。彼は黙ってやり過ごそうと、ドア越しにいるであろう誰かをじっと睨みつけた。気配はすぐに消え、息を吐く。だが、ふと虫の知らせの様なものが彼の背中を叩き、再び視線を戻した。変わらず気配はない。ない筈だったが、よくよく見れば丸いドアノブが音も立てずにゆっくりゆっくりと回っている。

 誰かは立ち去っていなかった。そしてこっそり、部屋の中に入ろうとしている。

 それを理解した途端、恐怖が膨れ上がりピアソンの全身を支配した。同時に、彼は自身が「見せしめ」の対象であったのだということにも気付いた。そして、フィッツロイが殺害された理由にも――

(逃げなければ)

 ピアソンは左右に首を巡らせ、出口が一つ――窓にしかないことを改めて知ると、足音を立てずにそこへ近寄り、ゆっくりと開けた。12月の冷たい風が白髪を乱すのも構わず、ピアソンは頭を外へ出した。三階にある研究室からはサウザンプトンの街がよく見える。地面は遠く、恐怖に彼は身を震わせた。ゆっくり窓を閉めると、大きな体を縮めて机の下に潜り込み、何とか隠れることに成功した。

 程なくして、ドアの蝶番が軋む音がする。ピアソンは息を止め、吐き、吸うと、眼球だけ動かして入り口を見た。黒いズボンに黒い靴――どちらも男物だ。先程の東洋人の格好とは異なる。そして、腰には剣を帯びている。顔こそ見えないが、この誰かに出くわしてはならないとピアソンははっきり理解していた。このまま隠れ続けることで何とかやり過ごしたいと、ピアソンは考えていた。

 だがそれは甘い考えであった。男は堂々と部屋の中を徘徊し始めた。ピアソンは気付いていなかったが、その男は部屋に漂っていた匂い――ピアソンのつけていた香水の残り香を嗅ぎ取っており、尋ね人がつい先程までこの部屋にいたと確信していたのであった。ピアソンは当然それを知る由もない。机の下の小さい空間で痛みに耐えながら、彼はじっと息を潜めていた。

 何者かはピアソンが隠れた机の前を過ぎ、窓の傍へと歩みを進めると、窓枠を上に押し上げて開け放った。そして顔をそこから出し、下を覗き込んでいる。先程ピアソンが逃げ出そうとして窓の鍵を外したままにしていたが、その行為が上手く男の混乱を誘ってくれていたのだ。頼むから誤解したままでいてくれと祈るように男の総白髪の後頭部を睨みつけていたが、彼はそこであることに気付いた。男がこのまま振り向けば、視界の中にピアソンが入りかねないということだ。

 心臓が早鐘を打ち出した。何もしなければ見つかってしまうと分かっていたが、手足はろくに動こうとはしない。進むも戻るもできずに、ただ来るであろう運命を待つばかりであった。

 しかしその時、再度ドアがノックされた。鋭く振り向いた男の視界には、運良くピアソンは映らなかったようであった。

「ピアソン殿、入るでござる。先程の話、やはり――」

 ドアを開ける音。

 声は先程訪ねてきた、東洋人の自称執事のものであった。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 一度は諦めたシンノスケは心変わりの後、再度ピアソンの居室を尋ねた。このままおめおめと主のもとに帰れないという執念のためである。ノックもそこそこに、返事を待たず部屋の中に足を踏み入れると、そこには見知らぬ誰かがいた。

「お主」

 それは黒衣――黒いコートに身を纏った中年の男であった。総白髪で無精髭もすっかり白く、顔には深い皺が刻まれているが、目を見るに、五十過ぎといったところだろう。年齢以上に老けて見える容貌であったが、その男が纏う空気にはただならぬものがあった。腰には剣が差してある。柄や鍔は擦り切れており、使い込まれた様子であった。

 隠しきれぬ血の匂い。シンノスケは、直感的に目の前の男が己の敵であると判断した。

「東洋人の執事か。本当にいるとはな」先に声をかけてきたのは男の方であった。「お仲間はどうした」

「何奴!」

 鋭い声にも動じる様子はなく、中年の男は唇をにいと曲げた。

「一人か。一人だな。莫迦ばかなのか勇敢なのか」

 シンノスケは、分の良い筈であった賭けに己が負けたことを悟った。背筋にどっと冷や汗が殺到しているのを感じながら、じっと男の全身を見遣る。

「――お主が公爵に手をかけたのか」口にして、シンノスケは内心どうやら違うらしいと結論づけていた。体格もそうだが、声が違う。あの仮面の男はもっと若かった筈だ。

「それは俺じゃあない」シンノスケの推察を肯定するように言って、笑いながら男は剣を腰から抜き払った。

「俺はここの教授に会いに来たんだ。どこにいるか知っているか?」

 シンノスケは応じると言わんばかりに腰から剣――サーベルを抜き払った。

「知らぬ。知ったとしても言わぬ」シンノスケは言葉に力を入れた。「それに教授は殺させぬ!」

「つれないな」

 男が剣を振りかぶり、斬りかかった。辛うじてサーベルで受けるシンノスケだが、鋭い剣閃を受け止めるのがやっとであった。狭い部屋では逃げる場所も限られている。彼は半開きのドアを勢い良く開け放ち、廊下に見を躍らせると、今しがた開いたドアを蹴りつけた。勢い良く跳ね返るそれが、男の身体にぶち当たる。

「ぬうっ」

 呻いた男は怒りを込めてドア越しに一撃を見舞った。合板とはいえそこそこに分厚いであろうそれが貫かれ、剣先がシンノスケの身体に迫る。後ずさりしてそれを避けたシンノスケだったが、横にスライドした刃がドアをぱっくり切断してみせると、流石の彼も肝を冷やした。

 特別身体が大きいというわけではなかろうに、なんという怪力!

(道理で手が痺れることだ)

 サーベルで受けた手をぶらぶらと二度振って、シンノスケは構内の廊下を駆け出した。その時、階全体に響きかねない大きな音に反応したのか、何事かと一人の女生徒が廊下の向こうから顔を覗かせた。彼女は怪訝な表情をしていたが、シンノスケ、そしてその背の向こうにいる男達が長物を持っているのを見て悲鳴を上げた。

「逃げるでござる!」

 シンノスケが叫ぶのが早いか、女生徒がその場から駆け出そうとする。

「騒いでくれるなよ、全く――なあ」

 直感に導かれ咄嗟に身を捩ったシンノスケの脇腹を掠めて何かが飛んでいった。風圧が身体を撫でる。同時に風切り音が耳に届く。何事かと確認する間もなく、廊下の先で女生徒が倒れ込んだのを見て、

(銃か――いや、)

 彼女の腿からは寸鉄がにょっきりと生えており、根本からは止め処なく赤黒い血が流れていた。投げナイフの類であるが、波打つような特種な形状は暗器の一種だろう。振り返ったシンノスケの形相は怒りに歪んでいた。

「貴様……!」

 シンノスケが吠える。鋭い怒声にも動じることなく、男は笑ってみせた。

「避けずに身体で受け止めろ、小僧」

「――矢ならともかく、的に向かってお祈りをするのか? 余程ダーツが下手と見える」

 シンノスケの挑発に男が乗った。滑らかな動作で腰から更に一本抜くと軽く振りかぶったかと思えば、男が手首を返した時にはもう刃がシンノスケの胴目掛けて滑空していた。だがシンノスケもさるもの、サーベルを閃かせると投げナイフはすくい上げた小魚の様に跳ね、壁に当たって床に落ちた。

「生意気な」

 男は悪態を吐いたが、しかし当のシンノスケがナイフを弾けたのは幸運に依る所が大きかった。今回は上手くいったが次に隙を見せれば再びあの投げナイフが飛んでくる。そして次はそれを躱せない。よしんば上手く躱せたとしても、今度は他の誰かが犠牲になりかねない――表情にはおくびにも出さないものの、シンノスケは内心でそう考えていた。

(正面から打ち破らざるを得ないか)

 だが先程の怪力を見せつけられて、それでも撃ち合いたいとは思わない。

 シンノスケは腰を落として剣を構えると、口を開いた。少しでも時間を稼ぎたいからであった。

「何故教授を襲う」

「それ、聞いてどうするんだ、ええ?」

「公爵を襲ったのもお前の一味だな」

 シンノスケの問いかけに、男は薄く笑った。

「だから、それを聞いて、どうするんだと言ってるんだよ」

 男の余裕が見て取れる。シンノスケは己が不利な立場にあることを悟り、半歩更に間合いを広げた。

(まずい、どうする)

 その時、ピアソンの部屋のドア――半分だけになったもの――が開き、当の教授が顔を出した。外の様子を伺いに来たのである。まさかそこにいるとは思いもしなかったシンノスケと男は一瞬ぎょっとしたような表情をしたが、

「会いたかったぜ、教授」

 男は身体を反転させると、ピアソン向けて飛びかかった。

「待て!」

 シンノスケが声を上げたその時、彼の視界にあったものが突然意味を帯び始めた。

(これは)

 逡巡したが、彼は手元の剣を男目掛けて投げつけた。

「ぬっ」

 ただならぬ気配を感じて振り返った男は、危なげなくそれを撃ち落とす。シンノスケが先程やってのけた芸当より、的が大きい分容易いが、注意を払わねばならない行為であった。そしてそれこそがシンノスケの狙いであった。

 男が飛来した剣に気を取られている隙に、廊下の壁にかかったボートのオール――何故ここに飾られているかはわからないが、とにかく年代物の、ヒマラヤスギで出来た3メートル長の棒――を、シンノスケはさっと掴んだ。

 手に収まったオールは、実にしっくり来た。しっくり、と言うのは、触る前に想像していたオールの重量や手触りといったものが、シンノスケが実際に感じたものと同じであったということだ。彼は両手でそれを持つと、ぶんと振って構えた。3メートルの棒がしなる。迫力は十分だった。

「木槍のつもりか、小賢しい」

 言いながらも、男は妙な寒気を感じていた。だがその理由までには思い当たらない――先程とは、シンノスケの目つきが明らかに異なる、その事実には。

 男は再度ナイフを投げると、一足で相手に迫った。シンノスケは今度は半身でナイフを躱し、間合いに侵入する男に向き直る。

脊髄スパイン!」

 男の剣がぶれた。鞭のように曲がって肩口をかすめると、シンノスケの背後目掛けてぐんと切っ先が伸びる。宣言通り脊髄を食いちぎろうと放たれた一撃だが、シンノスケは器用にオールの手元でそれをいなした。そのまま柄頭――グリップの部分で相手の胸を突いた。

 呻きながら距離を取る男に、シンノスケは横薙ぎにオールを叩きつけた。男は自慢の剣技でオールのブレードを切断し、攻撃は空振りに終わった。しかしシンノスケは手首を返すと、今度は袈裟に叩きつける。早業に避ける間も与えられず、男はもろにそれを受けた。シャフトが男の鎖骨から胸に食い込み、湿った音が木材を伝ってシンノスケの手に伝わる。

 かすれた声を上げながら、暗殺者の男は崩れ落ちた。

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