シンノスケ、落ち込むの巻

 シンノスケの怒声は聞いたことが無いくらい大きく、窓ガラスを細かく震わせる程であった。ロイドとガブリエラは身を竦ませ、ジャイルズとティアはそのただならぬ様子に視線をじっと向けた。

「なんですって」

 初めて噛み付いてきたシンノスケ。今の今まで従順そのものであっただけに、彼女は内心大きく動揺していた。が、彼女の表情に現れたのは怯えではなく激昂だった。虚勢の一種であり、ともすれば泣き出しそうになる心を守ってのことだった。

「事態は一刻を争う、いつどこで襲われるか――本来ならこのサウザンプトンから一刻も早く脱出しなければならんところである!」

「だから、一緒に行けばいいじゃない!」

「またいちいちこの街に戻ってくるとでも言うつもりでござるか!」

「じゃあ教授に話を聞いてからロンドンに行けば良いわよ!」

 ステラの顔は紅潮し、興奮してうっすら目に涙も浮かんでいる。シンノスケは表情こそ殺していたが、語気は荒く、彼も情動に突き動かされているのが、ロイド達からも見て取れた。

「――話にならんでござる。最早選択の余地は無い」

「勝手に決めないでって言ってるでしょう! 貴方――執事風情が主に意見するの!」

「ステラ、それ以上は」

 ロイドの制止も虚しく、ステラは自身の従者に向かって放った言葉は、決して口にしてはならない類のものであった。シンノスケの顔色はさっと変わり、眉が釣り上がる。

「――執事風情ときた。ステラ殿、それがしは所詮仮の執事であろう。裏を返せば、それがしが御身の命に背いたところで、一体何の不都合があろうか」

 糸が切れる音がした。ステラとシンノスケの絆が切れた音であった。当然耳に聞こえたものではないが、ぷつりと、何かが千切れた感触が、その場に要るロイド、そしてガブリエラの身体に響いた。

「――そう。それじゃあ、お望み通り執事はお役御免よ!」

「そうさせて頂く。では、それがしはこれで。短い間だが世話になり申した」

 シンノスケはあっさりそう別れを告げると立ち上がり、足早にドアへと向かい、一度も後ろを振り返ることなくそのまま出ていってしまった。

「結構! 貴方みたいな妙な執事がいなくなってせいせいするわ!」

 去り際、ステラが背中に目掛けてそう吐き捨てる。ドアを閉めるタイミングで放たれたそれがシンノスケに届いたかどうかは、彼の表情が見えない以上窺い知れない。

 ただ、ガチャリとドアが閉まった音と共に、ステラは顔を覆ってその場に崩れ落ちてしまった。

「ああ、もう!」

 ガブリエラが頭をかくと、シンノスケを追って出ていった。続いて、ティアも後を追う。

 後にはロイド、ジャイルズ、すすり泣くステラのみが残った。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 ノックもそこそこに部屋に踏み込んだガブリエラが目にしたのは、己の部屋でベッドに腰掛けながらじっと項垂れていたシンノスケであった。

「まったく、そんなに落ち込むならあそこまで言わなければ良いではないですの」

 シンノスケは半分だけ顔を上げた。あからさまに気落ちしている。

「……ガブリエラ殿か」

「ステラじゃなくてお生憎様ね」

 拗ねるように言ってみせるガブリエラに、シンノスケは掌を振った。

「そんなことはござらん。ステラ殿に来られたら困ったところであった」

「そうかしら? 顔には残念って書いてありますわよ」

「いや。実際、それがしが明日、一人で教授にお会いするのは正しい選択と考える。そこを説得に来られては難儀でござる」

「本当に?」

 ガブリエラがシンノスケの目の前で、威圧するように自身の腰へ手を当てた。

「貴方が危険に晒されることに変わりはございませんのよ」

「止むを得んことでござる。どこかで危険を承知しなければならんのは明白」

「……私としては、本当は反対ですのよ」

 シンノスケが目を丸くした。ガブリエラは先程までの勝ち気な様子は鳴りを潜め、表情はどこか憂いを帯びてすらいる。

「なぜでござる」

「なぜって、一人で行動するのは危険じゃない。明日は全員でロンドンに行って、またここに戻ってくれば良いわ」

「ガブリエラ殿。この街はもう危ない」シンノスケが窓の外を見やった。漆黒の中に、ぽつりぽつりと灯りが見える。「あの男がどこで網を張っているか分からない以上、それがしはこの街から一刻も早く脱出するべきと考える」

「そうなの?」

 ガブリエラは振り返り、ティアに問いかけた。

 女執事は目を伏せると、「私はシンノスケ殿に賛成です。彼が一人で立ち回ってくれるのは、正直に申し上げて非常にありがたい」

「結果、彼の命が脅かされても?」

「はい。私は、ガブリエラ様の安全を確保さえ出来れば、それで構いませんので」

 ティアの発言は主人の意向に反したものであり、非情ささえ感じさせた。しかし本来、彼女はこういうことを言う人間ではない。それだけティアに余裕がないということなのだ。ガブリエラの身を守るので精一杯だと、言外にそう言っているのだった。

「――そうね」

 そしてガブリエラはそれを察し、頷いた。己の執事の矜持を受け止めたのだ。

 また、シンノスケも小さく頷いた。執事とはそういうものであると理解していたのであった。彼は暗くなった空気を吹き飛ばそうと、努めて明るい声を出した。

「なに、ご心配召されるな。それがしが襲われる確率は低い。恐らくそれがしへの警戒はそう強くないはずである」

「どういうこと?」

「それがしの剣の腕はステラ殿、ジャイルズ殿、そしてティア殿に比べて落ちる。あの男からすれば大して気を払う必要がござらん。何より今あの男が一番警戒しているのは、それがしら三組がそれぞれバラバラに移動することでござる。一塊になって行動している以上、絶好の機会が来るまではそれがしらを泳がしておくでござろう」

「本当?」

 ガブリエラの問いかけに、シンノスケは改めて頷いた。

「逆に、それがしが一時とは言え皆から離れてしまうことになる。何も出来ない身の上ではあるが、盾にすらもなれぬというのは、こちらの方がそれがしは辛い」

「盾だなんて、止めて頂戴! 私、貴方に感謝しているのよ」

 ガブリエラがシンノスケの顔を覗き込んだ。彼女の大きな灰色の瞳がシンノスケを捉える。唐突に気恥ずかしくなり、シンノスケは視線を反らした。

「別に、それがしは、礼を言われる程のことは何もしておらぬ」

「そんなことはないわ。あの男に向かって啖呵を切ってみせたのは貴方くらいですわ、実に勇敢でしたもの――そうね、貴方、ステラから放逐されたのでしょう? でしたらうちに来なさい。使って差し上げるわ」

「お嬢様」

「いいじゃない、ティア! 別に貴女をクビにするわけではなくてよ!」

 二人のやり取りに、シンノスケは苦笑した。

「今は皆が無事に危機を脱することだけ考えるでござる。返事は、その後に」

「あまり待たせないで頂戴ね。遅いと、私の気だって変わってしまうわ」

「肝に命じておくでござる」

 シンノスケが笑った。その笑顔には屈託のない無邪気さとエキゾチックな神秘性が同居しており、ガブリエラとティアは不思議な魅力に一瞬目を奪われた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 一方ステラはしばらくの間泣きじゃくっていたが、漸く落ち着いたらしく目は赤いものの涙は止まっていた。

「大丈夫かい?」

 ロイドの問いかけに、ステラは頷いた。

「彼を責めないであげて欲しい。ああは言っていたが、危険な役を買って出てくれている」

「分かっているわよ。でも、だからって、主人を見捨てるだなんて」

 再び目を潤ませるステラの肩を、ロイドは優しく抱いた。

「無事を祈ろう。なに、明日だけの辛抱さ」

「だといいけれど」

 ロイドは彼女の前に跪き、正面からステラの目を見た。

「ロンドンまで行けば安心だ。実は今、別の護衛を用意している」

「別の? 私達以外のってこと?」

「ああ、そうだ」

 ステラはロイドの瞳を見返した。

 ロイドは微笑みながら、

「ジャイルズとも話したけれど、打って出るにしろ、今は不利だ。こちらが相手の尻尾を掴むまでは、戦力を固めて籠城に近い状態に持ち込むのが良い。腕利きは今すぐには集まらないけれど、まずは数を揃えるのが良いだろうと思う」

 ロイドはそう言ったが、この考えは彼一人の案に近いものだった。ジャイルズは素性の知れない即席のチームを結成するのは反対していたが、ロイドの意を汲む形で、見張りが出来る程度の傭兵を雇うことを渋々同意した。

「そう上手く行くかしら」

「行くとも。心配は一切しなくていい。後は僕とジャイルズが片付けるさ」

 ステラはついと目を逸らした。彼女の心はこの部屋にはなく、過去、或いは違うところにあった。彼女は勢いでシンノスケに解雇を言い渡したことを悔いていた。しかし、考えれば考える程、シンノスケの失礼な言動を腹立たしくも思うのもまた事実だった。

 あの執事見習いに罰を与えるのは正しい行為に違いなく、シンノスケは神妙に受け取るべきであったのだ。それを生意気にも反発してみせるのが悪い。ただ、解雇は言い過ぎだったから、例えば向こうから謝ってきたら許してやらないこともない。しかし、もし謝罪に現れなかったら?

 ステラの頭の中はこんなことがぐるぐる巡っていた。これからシンノスケとどう向き合えばいいか、疲れ切った頭では皆目見当がつかずにいた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 翌日、未だ朝焼けも遠い中、ホテルの裏口の前に一台のミニバンが停まった。白い車体の側面にはサウザンプトンに根を張る食肉卸業者のロゴ、そして電話番号がプリントされている。

 バンからはそれぞれ作業着に身を包んだ二人の男が降り、バンのバックドアから台車を下ろし、その上にスチロールケースを積んだ。中身がぎっしり詰まっているのであろう、一人が一番上の箱を押さえつけながら、もう一人が台車を後ろから押した。

 裏口からホテルに入った二人は、しばらくの後に出てきた。同じくスチロールケースを台車の上に載せた状態で、彼らはやって来た時と全く逆のこと、つまりそれらをバンに積んでみせた。恐らく、中身だけをホテルのスタッフに渡したのだった。

 そうして彼らは合計三つのケースをバンの後ろに積むと、ドアを閉め、その場から走り去って行った。

 時間にして、およそ十分。

 シンノスケはステラ達が乗ったであろう・・・・・・・・・・・・バンが視界から消えるまで、部屋の窓からじっと暗い街を見つめていた。

(頼むでござるよ、皆)

 しばらく祈るようにその場で佇んでいたが、ふと意を決したように身を翻し、部屋から出ていった。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 一口にサウザンプトン大学と言ってもキャンパスは市内のあちこちに点在している。が、大部分は中心部より北に3キロ程離れた場所、サウザンプトン・コモンと呼ばれる大きな公園の北西に固まっており、シンノスケはそう労することなく目当てのキャンパス――ハイフィールド・キャンパスに辿りつくことが出来た。キャンパスの中心を貫く通りを北に登り、図書館を越えたところで左手へ。眼前に現れた大きな近代的な建物を見て、シンノスケは確信した。

「生命科学――ここであるか」

 建物の前に据え付けられた金属製の看板を見て、シンノスケが呟く。そここそが、ピアソン教授が在籍するという生命科学科の棟であった。

 シンノスケは正面玄関のガラス扉から、気後れすることなくごく普通に中へ入った。広いロビーでは多くの学生が往来しており、シンノスケ一人が入ったところで目立つものではない。いつもは奇異の視線を向けられる東洋人という見た目も、サウザンプトン大学程の規模の大学であれば珍しいものではなかった。植民地である香港から多くの学生が留学してきていたためである。ただ、どの学生もジーンズにパーカーなどのラフな格好をしており、そういった意味ではスーツに身を固めなおかつ腰に剣を差したシンノスケはやや浮いていた。

 しかし、この時不思議なことに、シンノスケはある種の懐かしさを感じていた。記憶を失ったためその懐かしさがどこから去来したものかは定かでないし、恐らくそれを抜きにしてもサウザンプトンに来たことはないであろう。にも関わらず、彼はその空気を居心地が良いと思っていた。

 それはシンノスケが感じた、恐らく初めて自身の根源に由来する感情であった。彼には根というものが無かった。記憶を失い、モーズリー家に拾わ、自身が何者であるか定かでないまま、ただ怪しい執事のふりを続けていた。それはそれでよかった。ステラに従っている間は表情こそへらへらとしているが、内心は足りない記憶を補おうと気を張り続け、その分何も考えずに済んでいた。しかし今一人になって、彼は自分が何物でも無いということに、改めて恐怖を感じていた。

 それだけに、この突然去来してきた懐かしさが本来の自分への手がかりであるように思えたが、しかしどこか霞がかっており、胸の裡からするりと消えかかっている。幾分苛立ちを覚えたが、とにかく今はピアソン教授だと、壁に掲げられた案内プレートに目をやった。

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