シンノスケ、運転するの巻
その日も風が強かった。
海から吹き上がる湿気を含んだ空気が、ステラの頬を撫でて長いブロンドの髪にまとわりつく。鬱陶しげにそれをなでつけて、彼女は後ろ手に玄関の扉を閉めた。
「ステラ」
続いて扉を開けた彼女の父は切なげな顔をした。「お父さん、外までお見送りするって言ったよね」
「いいわよ、別に。サウザンプトンに一泊するだけなんだから」
悲しい顔をするリチャードに「だったら私、行かない方が良い?」と聞くと、途端彼は姿勢を正し、きりりと顔を凛々しく作り上げた。
「お父さんは大丈夫だから、しっかり名前を覚えてもらってきなさい」
瞳は赤く、潤んでいる。たった一日二日の離別がそこまで辛いなら一緒に来ればいいのに、と思わなくもないが、来たら来たで鬱陶しいものである。ステラは沈黙を保った。
「ステラ様。お父上は心配されているのです」
リチャードの背後から、ウィルフレドが助け舟を出した。
「ただでさえ貴族を狙う好事家が多い昨今、それでもお嬢様が独り立ち出来るよう、心を砕いておられるのです。なにせ、」
お嬢様の執事はアレですから、とウィルフレドは道路に視線を向けた。
そこには車が一台停まっていた。MINIのクロスオーバーである。仮にも貴族の娘であるステラに相応しい格の車ではないが、彼女はこの車を気に入っていた。丸みのあるボディのカラーは赤色で、MINI特有の流線型とも相まって何とも女性的であったが、運転席に乗る男の風貌はそれに似つかわしくないものであった。誰が用意したのか、彼はティアドロップ型のサングラスをつけている。にやついた口元からは、信頼性という言葉が空虚なものに過ぎないという現実を、三名のイングランド人に突き付けていた。
「ステラ殿! お待ちしておりました!」
窓を開け、サングラスを勢い良く取りながらシンノスケは叫んだ。
ステラの顔は恐怖に引きつった。思わずリチャードの方を見ると、彼の顔も同じく引きつっていた。
「おやしかし、こうして見るとステラ殿はお父上にそっくりでござるなあ!」
はっはっは、と笑うシンノスケの声が辺りに響く。頼むから余計なことを言ってくれるなと、老人二人は背中に大量の汗をかいていた。
一方のお気楽執事は言うだけ言って運転席から颯爽と降りると、屋敷の前にやってきて「ささ、ステラ殿。お荷物を」とステラの手からトランクをもぎ取ろうとした。
が、
「いい」
「ぬ? いや、しかし」
「自分で持っていくから」
言うと、彼女は軽々1メートルあるトランクを片手で持ち上げた。そのままMINIまでずかずか歩き、バックドアをもう一方の片手で難なく開ける。中へトランクを放り込むと、ドアを勢い良く両手で閉めた。どすん、という音とともに、一トンを超える車体が揺れる。
男性三人が押し黙った。
ステラは意に介する様子もなく、後部座席に乗り込むとドアを閉めた。その勢いも強く、再度車体は揺れ、音に驚いた三人は同時にビクついた。
「……じ、じゃあそれがし、今からお嬢様をサウザンプトンへお送りするでござる! なあに、心配ご無用! それがしここ数日でドラテクの腕を磨きまくったでござるから!」
沈黙に耐えきれなくなったのか、シンノスケはそうまくし立てると、自分が乗ってきた車へ一目散に駆け出した。
エンジンがかかる。特有の重低音を響かせながら、MINIがゆっくりとカーブを曲がっていく。リチャードとウィルフレドが見送る中、車は徐々に彼らの視界から消えていった。かと思いきや、どすん、と音を立てて、急に停車した。エンストである。
「心配だ」
ぼそりと呟いたリチャードを、ウィルフレドが横目で見遣った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
腕を磨いた、と言うのはあながち間違いでもなかった様で、一度のエンストを除けば、道中特段ステラが不安を覚えたことはなかった。それに気付いたのはA27道路に入っておよそ一時間、ちょうど目的地との中間地点であるワージングに差し掛かったあたりである。町の名が書かれた案内標識を見て、ステラは軽い驚きを覚えた。
「ところで。記憶、戻ったの?」
突然話しかけられ、シンノスケは驚いた。バックミラー越しに表情を確認しようとするが、彼女は窓の外の景色を見ているようで、横顔からはその意を読み取るのは難しい。
シンノスケは視線を道の先に戻した。
「全くである。各方には変わらずご面倒をおかけする」
「……そう。まあ、気長にね」
ぶっきらぼうな言い方ではあったが、聞いたシンノスケは笑みを浮かべた。
「ステラ殿はお優しいお方であるな」
「どういう意味?」
「身分の高い方であるのに、そういった尊大さがない」
ステラは前を向いて、溜息を吐いた。
「品がないってことね。はいはい、よく言われますよ」
「あいや、失礼」シンノスケは少し慌てて謝罪した。
「そういうことではござらん。それがしが言うまでもなく、ステラ殿は気高いお方だ」
ステラとしては冗談を言ったつもりである。真に受けたシンノスケの狼狽え様に少し悪い気がして、彼女は相好を崩した。
「わかったわ。こそばゆいからやめてちょうだい」
それきり会話が一旦途切れたが、しばらくしてシンノスケが続きを始めた。
「――貴族かそうでないか。この国の人は実にわかりやすい。見た目に仕草に話し方、少し言葉を交わせばすぐに分かる。当然、お嬢様も民草とは違う空気を纏われている」
「……違う空気?」
「左様。その上親しみやすさがあるというのが、それがしが感心するところでござる」
「親しみ――ねえ」
ステラは曖昧な表情を浮かべた。「よくわからないわ」
「そうであるな、つまり、言い換えれば」シンノスケは緩やかにブレーキを踏み、追い越そうとする車に道を譲る。「あけすけである、ということでござるか」
「わたしが?」
「この国の貴族の方々ときたら、だいたいが本音に毛布二枚を被せた様な言い回しを好まれる」
確かに、とステラは頷いた。
「他方、リチャード殿やステラ殿はそういったところがない」
「遺伝かしら」
よく父親似と言われるステラだが、それを必ずしも好ましくは思っていない。見た目はどうしようもないが、性格まではあのおちゃらけた父に似たくないと考えていた。
「さて。どちらかと言えば、モーズリー家の気風と見た」
「それ、遺伝とどう違うの?」
「ウィルフレド殿も似た空気を纏っておられる。つまり、血の為せるものではござらん」
言われ、ステラはそれもそうだ、と頷いた。
「思えば、あの町にそういうところがあるかもね」
なるほど、とシンノスケが頷き返した。
「それがしが街に出ると色々と声をかけられる。モーズリー家に奉公する執事見習いというだけで、誰も彼も笑顔で話しかけてくれる。リチャード殿が民に愛されているという証左と、毎日深く感じ入る次第」
普段父親の評判をあまり耳にしないステラであるが、シンノスケの話は彼女の胸を僅かに暖めるものであった。微かに微笑むステラを見て、執事見習いももつい頬を緩ませる。
「ところで件のサウザンプトンと言うのは一体どんな町であるか、ステラ殿はご存知であるか」
「サウザンプトン? そうね。殆ど行ったことがないけれど」
しばらく考え込むふりをして、ステラは結局首を振った。
「私が知る限り、ヘイスティグングスよりはずっと都会よ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
サウザンプトンはロンドンから南西におよそ100キロ、ヘイスティングスからすると西に150キロの場所に位置する。タイタニックが出港した港町としても有名であり、近年ではフットボールクラブの躍進も目覚ましく、当然町の規模としてはヘイスティングスよりも遥かに大きい。
M27高速道路を経由して町に入った二人は、まず目当ての店へと向かった。ドレスの仕立てを行うためである。大まかなサイズは事前に伝えており、既に一通りのものは出来ているということだが、ステラの体型に合わせてぴったりの調整を行うためであった。
「そう言えば、今回ドレスは新調されるということだが、もう昔のものは使われないのか?」
「予備のものを持ってきているわよ。でもだいぶ前のものだから、もうサイズが合わないの。一応相談してみるけど、ダメなら仕方ないわね」
道に車を停め、今度はシンノスケのエスコートを受けながら、ステラは肩をすくめた。
「それはこの中に? 道理で大きいトランクだ」
バックドアを開けて取り出した青いトランクを、シンノスケはしげしげと見遣った。
「では参りましょう」
ステラが店に入る。店内はシンプルな作りで、壁は白、棚は黒色で統一されていた。陳列されている品の数は少なく感じられるが、ちらりと見える値札には当たり前の様に三桁の数字が書かれている。ショーケースの中に飾られているものだと四桁のものも珍しくない。
「いらっしゃいませ」
スーツを着た壮年の女性店員がステラに声をかけた。その間、ちらりと後ろに控えるシンノスケに目をやる。
「ドレスを予約していたモーズリーでござるが」
「……お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
シンノスケの発言に戸惑いの表情を隠さない店員。その顔を見て、ステラは「ああ、そうだった。こいつの言葉はちょっとおかしいんだった」ということを改めて思い出した。ここしばらくの間でシンノスケはすっかりヘイスティングスに馴染み溶け込んでしまっていたものだから、ステラの中でシンノスケの異常性に慣れてしまっているところがあった。
「変な言葉遣いをするの。面白いでしょう?」
自分はまともでこの怪しい東洋人とは
「ほ、ホホホ。大変ユニークなんですね」
裏目に出たらしく、彼女はすっかり、変わり者の貴族の娘が変わり者の従者を連れてやって来たのだと勘違いしてしまった。
「…………」
ステラが哀しみに満ちた眼差しをシンノスケに向けたが、彼はニコニコといつもの怪しい笑顔を浮かべるばかりである。客観的に見て誤解もやむを得ないのだと、彼女は内心諦観していた。
かたや生き生きとした執事風の東洋人、かたや死んだ顔の貴族の娘を引き連れて、顔を引き攣らせた店員は二人を店内のある個室に案内した。壁一面が鏡張りになっているそこには、薄い黄緑のドレスがトルソーに着せられ、宙に浮いていた。胸元に誂えられた薔薇の花弁の様な装飾が可憐さと優雅さを同居させており、見た瞬間ステラは感嘆の溜息を吐いた。
「いかがでしょう」
「……素晴らしいお仕事です。私、すっかり気に入りました」
うっとりとした目をドレスに向ける。写真を見ていたので出来栄えは知っていたが、実物はよりエレガントだ。
「早速、着てみても?」
「ええ! ですが、その、」
店員がシンノスケに目を向けると、彼ははっとした表情で、
「失礼。ではそれがしは外で待つことに致そう。
――ええと、お嬢さん。ステラ様のことを宜しくお頼み申すぞ」
言って、個室の外に出た。
ドア越しの黄色い声を耳にしながら、シンノスケは少し疲れたと言わんばかりの表情で首を回し、白い壁にかかった奇抜なデザインの時計を見た。もうすぐ昼の1時だ。手直しにどれくらいかかるか知らないが、そろそろ昼飯時である。胸元のポケットから手帳と地図を取り出すと、彼は互いにそれらを見比べ始めた。あらかじめ調べておいたレストランの位置を確認しているのである。ステラが何を食べたいかに左右されるが、大抵の要求には応えられるリストを彼なりに用意していたのだ。執事の仕事というのは、大抵がこの様な下準備の連続であった。
(ドレスを繕っている間に昼食、その後ドレスを取りに来る。それからホテルに寄ってチェックイン、荷物を置いたらホテルのサロンでお嬢様がメイクアップ。その間に――)
今日これからを埋め尽くす目まぐるしいスケジュールにシンノスケが思わず顔を顰めたその時、店の入り口のドアが開いた。
(ははあ)
目を向けたシンノスケは佇まいを少しだけ正した。
そこには黒く輝く豪奢なコートを着込んだ如何にも貴族の娘といった少女と、シンプルなメイドの格好に身を固めた妙齢の女性が一人。女性は腰に剣を佩いており、
(同業でござるな)
少女の勝ち気な瞳。ひと波乱ありそうだと、シンノスケは予感に目を細めた。
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