シンノスケ、老執事と再び組んず解れつの巻

 大理石の粉を水に溶かした様な青白い霧に、控えめな橙の光線が射さる。

 小鳥が縄張りを主張し始める頃、ステラの瞼がゆっくりと開いた。眠気を受け止める布団から温もりを引き剥がそうと、彼女はもぞりと動いた。冬の冷たい空気が、全身に回る。

 ステラはこの瞬間が好きだった。昨日と今日、意識と無意識、現実とそれ以外の境界線上を、一切の責任なく漂う瞬間である。貴族という身分をどこか疎ましく思う時もある彼女であるが、煩わしい現世から解き放たれてただの生き物になれる瞬間。それこそが寝起きであると、むにゃむにゃつぶやきながら、しかし再度布団をかぶろうと試みた。

 その時、どんがらがっしゃんすってんころりんと、とんでもなくけたたましい破壊音が、遠くで響いた。

「…………」

 続いてバタバタと廊下を忙しなく走る音。悲鳴に近い怒声。そんな中、はっはっはといかにも根拠のなさそうな快活な笑い声が、はっきりステラの耳に届いた。

(……あれだわ)

 間違いない。自称執事のあの東洋人は、就任二日目にして、早くも大胆に食器をお茶目割りしている。

 そして何より問題は、そのどうしようもない生物は今このモーズリー家に住み着いて、なおかつ己の執事の席に居座ろうとしているのだ。

「ははは」

 うせやろ。

 ステラの視界は絶望に包まれた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 遅れて階下にやって来たステラが目にしたのは、散乱する皿の破片――ではなく、短い時間できっちり片付けられた廊下である。

 鼻白んだ様子で朝食用の食堂に入ったステラは、いつもの席である父の隣に座った。長いブロンドをヘアピンで無造作に留め、部屋着であるやや大きめの灰色のパーカーを着込んだ姿は、いかにも学生のそれである。彼女をちらりと横目で見たリチャードは、老眼鏡を机の上に置き、手元の紅茶を一口啜った。

 ほどなく、朝食が運ばれてきた。手に持つのはウィルフレドと、件の執事もどき、シンノスケである。最早狂気すら感じる笑顔を浮かべながら、彼はふらふらと頼りなげに皿をステラの前に置いた。その給仕っぷりはぎりぎり破綻してないというレベルで、ステラは昔学友とした遊びを思い出した。水を張ったグラスに、こぼれないよう2ペンス硬貨を入れていくというものである。沈むたびに揺れる水面は年頃の女の子達を大いに喜ばせたものだったが、例えばあの水が全部ワインビネガーで、グラスが私の頭の上に置かれていると、今みたいな気分になるのだろうか。心底嫌そうな顔をしながらステラはそう思った。

 ともかくと向き直ったステラの目の前のフル・ブレックファストはいつものと同じ、ウィルフレド謹製のものだった。モーズリー家は決して裕福な貴族ではない。大貴族であれば当然コックが専属でつくものだが、この家のコックはウィルフレド、もしくは近所のパートタイム・ジョブで雇われたおばちゃんである。

 早速プレートの上のポテトケーキを崩しにかかるステラに、リチャードが話しかけた。

「ところでステラ。お前も漸く執事がつくお年頃になったが」

「……言っておくけど。私、あれを執事として認めるくらいなら死んだほうがマシと思っているクチだから」

 話の出鼻を挫かれ、リチャードはふごふごと呻きながらも、

「そろそろ、そろそろパーティーに一人で顔を出しても良いと思うんだ」そう言い切った。

 聞いたステラは一旦フォークを置き、溜息を吐いた。

 リチャードの言うパーティーとは、通常下々の者達が参加するものとは当然異なる。いわゆる社交界のそれであり、上流階級におけるある種の会議に近い。特別な修辞の技術が要求されるこのパーティーを、ステラは好んでいなかった。時間いっぱい作り笑いを始終浮かべ、男と年上の女性に気を使い続けなければならない。中には突然プロポーズまで仕掛けてくる無礼な男もいたくらいで、父に連れられ何度か出向いたが、彼女の中にいい思い出は一つもなかった。

 だが彼女も、今のうちに社交界にデビューしなければ、後々余計に出づらくなるということは理解していた。時期を逃した女性が上手く挽回するのを見たことがない。誰もが腫れ物扱いして、ほとんどはそれきりである。

(パジャマパーティーなら楽しいのだけれど)

 しかしそこで彼女はふとあることに気付いた。

「まさかこいつを連れて行けって言うんじゃないでしょうね、パパ」

 リチャードは笑った。つられて、ステラも笑った。

「そうだ」

「嫌。嫌なものはイヤ!」

「ステラ」ぷいと顔を逸らすステラに、リチャードは少し困った顔で言った。

「今回を逃したら、次はいつになるんだ? 今は大学のクリスマス休暇でこちらに来ているが、次の大きなパーティーが大学の休暇期間と重なってくれるとは限らないんだぞ?」

「別に休み以外の時期でも、パーティーくらい出席できるわ」

「本当に? 誰がお前をエスコートすると言うのだ?」

 リチャードの疑問に、ステラは閉口した。彼女は強がってこそみせるが、一人では到底ドレスを一式用意して、運転手付きのリムジンに乗り付け、エスコート役を連れて立派にカーペットを歩くなんて、到底出来っこないのだと内心では気付いている。

「そこでほら、パパはステラのために執事を用意したんだぞ」

 ステラが三白眼で睨みつけたその先には、にやにやと相変わらず怪しい笑顔を浮かべるシンノスケがいる。手慰みなのか、両手から手品用の造花をぽろぽろと零すように出し続けている。手品はウィルフレドの趣味である。老執事が余計なことを仕込んだに違いなかった。

「この縦縞のハンケチーフでござるが、こうするとほら横縞になるでござるな」

 続けて放たれた古典的なギャグにリチャードはバカ受けしていたが、ステラは冷たい眼差しを向けていた。お前の仕業かとウィルフレドの方を向くも、当の執事は瞼をじっと閉じて知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。

(ここは地獄か)ステラはしばらくの間絶望に打ちひしがれていたが、何やら腹を括ったらしく、唐突についと顔を上げた。

「わかった。そのバカを連れて行ってもいいけど」

「おお! 漸く分かってくれたか!」

 リチャードとシンノスケが歓声を上げ、主従関係にあるまじきハイタッチを決める。はしゃぐ二人を見て、ステラは慌てて声を張り上げた。

「いいけど! 条件があるわ」

「はて、条件とは」

 首を傾げるシンノスケに、ステラは人差し指を突き付けた。

「パーティーの最中、私の許可なしに口を開かないこと。約束を守れるなら、あなたを連れて行ってあげる」

 傲岸な言葉に、リチャードは眉を顰めた。たしなめようとしたが、きょとんとした表情のシンノスケが先に口を開く。

「なんだ、そんなことでござるか」

「――――」

 面食らったのはステラである。彼女としては無理難題を吹っかけることでシンノスケを諦めさせようとしていたのだったが、誤算が二つあった。一つは彼女自身の人の良さで、無理難題と息巻いてもこの程度である。もう一つはシンノスケにあり、

「条件と言うものだから、クツを舐めろとか、裸で犬の真似をしろとか、そういう要求が来るものと思っていたでござる。いやはや、改めて素晴らしいご主人! 清廉潔白でござるなあ!」

「そうだろうそうだろう! ステラはいい子だからなあ!」

「ちょ――ちょっと、いいこと!? あくまで同行は今回限りですから! 次はないものって、分かってるわよね、二人共!」

 うっしゃっしゃと甲高い笑い声を上げる二人に食って掛かるステラを横目で見ながら、

「幾ら今回限りと言っても、なし崩し的に次回以降も続けられるケースが殆どなのですがね」

 ぼそりと、ウィルフレドが呟いた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 時計の針が10時を回ってしばらくすると、シンノスケは己の部屋――元物置――から抜け出した。右手にはランタン、左手にはウィルフレドから借りた剣を提げている。

 彼は静かに屋敷を出た彼の頬を冷たい海風が刺す。冷え切らぬ様にと、小走りで近くの林に入った。英国の木々は十六世紀以降の製鉄産業の発展に伴ってその殆どが伐採されてしまっており、非常に少ない。ヘイスティングスのあるサセックスは特に製鉄で有名であり、かつてはそこかしこに広がっていたナラの森も燃料のために切り出され、今では後に誰かが植えたものだけがまばらに残るのみである。

 シンノスケはしばらく林を進み、少し開けた場所に出るとランタンを枝にかけ、鞘からレイピアを抜き払った。ステラと試合で使用したスポーツフェンシングの剣ではなく、研がれた剣先を持つ本物である。拳を守るためのガードに蔓の様な意匠が施されている程度のシンプルなシルエットをしており、いかにも実用性が感じられる。

「うーん、慣れない」

 ボソリと呟いた言葉は英国のものではなかったが、それを咎める者はこの場にいない。

 シンノスケはか細いランタンの灯りの下、目を細めながらレイピアを矯めつ眇めつする。基本的な部分はウィルフレドから手ほどきを受けていたが、日々の業務をこなしながらの訓練は質・量共に不足しており、シンノスケは今ひとつフェンシングについて納得をしていなかった。補うため、こうして夜な夜な抜け出しては自分なりに模索していたのである。

 兎にも角にも基礎動作だと、彼は腰を落として柄を軽く握り、剣を構える。この構えが曲者だと、彼は再び首を傾いだ。戸惑いながらも、剣を突き立てる真似をする。何度めかの反復を終えて、額の汗を拭った。気づけば口から吐く息が、すっかり白くなっている。

「こんなことでお嬢様をお守りできるのだろうか」

 ぼそりと呟く。その表情は、昼間の快活なものとは程遠い憂いに満ちたものであった。

 その時彼の耳が草を踏みしだく音を捉えた。弾かれる様に顔を上げた彼は、そちらを一瞬振り向く。その場から逃げ出そうと身を屈めていたが、ランタンの灯りが近づいてくるのを見て身体を起こした。

「ウィルフレド殿」

 夜目が利く距離になり漸く闖入者が執事ウィルフレドであることを知ったシンノスケは、ついと笑顔を作った。

 その瞬間である。老執事が手に提げていたランタンが、シンノスケの顔目掛けて飛んできた。慌ててスウェーバックでそれを避けたシンノスケであったが、気が逸れた間にウィルフレドが距離を一気に詰めてきていた。オレンジの灯りを受け、レイピアが一瞬光る。冷たい輝きに、シンノスケの背筋が凍った。

 ウィルフレドの剣先は真っ直ぐシンノスケの胸目掛けて飛来した。それを弾いたシンノスケは、刀身を滑らせ逆に距離を詰め、鍔迫り合いに持ち込もうとする。が、大風に揺れる柳枝の如く、ちょろちょろと撓っては勢いを殺すウィルフレドの剣を捉えられない。気づけば老執事はシンノスケの脇にいる。

 ウィルフレドの左拳がシンノスケの横腹を撃ち抜く。が、シンノスケはすんでで相手の手首を掴んだ。シンノスケの人差し指と親指が不自然に立っており、ウィルフレドが違和感を覚えたその時、彼の腕に激痛が走った。振りほどこうともう片手に掴む剣を振り、シンノスケの剣を絡め取る。

「あっ!」

 シンノスケが迂闊にも自分の剣を弾き落とされたことに気付いた。好機と捉えたウィルフレドが今度こそと剣を突き立てようとするが、距離があまりに近い。シンノスケは負けじと更に一歩詰め、右手でウィルフレドの右手を掴む。腕が交差する形になると、シンノスケはそのまま相手の右側に身体を入れ、足をかけて引き倒した。軽いウィルフレドの身体はそれだけで背中から倒れ込み、投げ飛ばされた衝撃で呻き声を上げる。馬乗りになったシンノスケはウィルフレドの手を捻り上げると、手からレイピアをもぎ取った。

「参った、降参だ」

 息も絶え絶え、ウィルフレドは言った。シンノスケはしばらく油断ならない表情でその顔を見つめていたが、レイピアを手にゆっくり立ち上がった。

「済まなかった。お嬢様のパーティーが近いものだから、お前に執事の役が務まるのかと、心配になったのだ」

「……またそれがしを試したのでござるな?」

「そうだ」

 聞いたシンノスケは、呆れたと言わんばかりに溜息を吐いた。

「ウィルフレド殿は先日もそれがしを試した。一体何度試せば気が済むのか」

「何度でも。私は心配症なのだ。本当はもう少し鍛えてから任せたかった」

 先程の勢いはどこへやら、弱々しく立ち上がったウィルフレドは震える手で全身についた草や泥を払った。

 シンノスケは不満げな顔をしていたが、自身の剣を拾い上げると鞘に仕舞い、手に持っていた方はウィルフレドに渡した。

「で、どうであったか。それがしは」

「ああ」

 ウィルフレドは木に手をつきながら、額の汗を拭った。

「不安だ。この老いぼれに負けるようでは、心配この上ない」

「あいや、待たれい」シンノスケは掌をウィルフレドに向けた。「ウィルフレド殿は先程降参と」

「剣の話だ。お前のそのレスリングは見事だが、貴族相手に使って良いものではない」

 やっぱりそうであるか、と気落ちするシンノスケに背を向けて、ウィルフレドは何やら腰をかがめ、真っ暗な地面を漁り出した。

「……何をしてござるか」

 恐る恐る声をかけると、ウィルフレドが目当ての物を見つけたらしく、一本の剣を拾い上げた。

「私なりに色々と考えてみたが、なかなか良い策は出ないものだ」

 言って、ウィルフレドはそれをシンノスケ目掛けて放り投げた。

「これは」

「私は得意でないから、お前にやろう。そのレイピアと比べてみて、馴染む方を選べ」

「それは結構だが、相変わらずそれがし作法には疎い。ウィルフレド殿はこれの作法を教えてくれないのか?」

「得意でないと言った。この際自分で工夫してみなさい。使えなさそうなら置いていけばいい」

 ウィルフレドは放り投げたランタンを拾うと、頼りなさげな足取りで屋敷へと戻っていった。

 シンノスケは怪訝そうな表情を浮かべながらも、新たな剣を鞘から抜いた。

「……成程」

 何となくだが、確かにこちらの方が馴染むかも知れない。鈍く光る刃を見て、シンノスケは小さく頷いた。

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