第12話 王国への忠誠心 (Loyalty to the Kingdom)
フレデリックに連れられて、ライアンはヘーゼルガルド城内を見て回った。王の間から石の階段を上るとそこは大広間となっていて、何十人という兵士たちが時間を過ごしていた。木刀を握り仲間と剣の稽古をしている兵士もいれば、テーブルを囲んで談笑している兵士もいる。中には暇を持て余してチェスを楽しんでいる兵士もいた。各々が自由な時間を過ごしているようだった。
「ここにいる兵士たちは、今日は非番なんだ。普段は、近隣の村々の警備や、徴税、庶民の争いごとの調停などの仕事を行っている」
歩きながら、フレデリックは広間の奥に向かっていった。ライアンは辺りを見回しながら、フレデリックに黙って付いていく。
扉を押し開けるとそこは吹き抜けになっていて、外の景色が目に飛び込んできた。そこからはヘーゼルガルドの町を見下ろすことができ、美しい高原や地平線も拝むことができた。
フレデリックはちらりとライアンの様子を窺った。ライアンは乾いた風に長髪をなびかせながら、静かに景色を眺めている。その目は虚ろで表情には色がなかった。つい先程の出来事からのショックは、隠せないようだ。
「ライアン、何と言ったらいいか・・・」
フレデリックは、下唇を噛み締めて、表情を歪ませた。
「本当に、すまなかった。やはりカルディーマで君たちに会った時に、ヘーゼルガルドの現状を、少しでも伝えておくべきだったのかもしれない。そうしておけば、こんなことには・・・」
「謝らないでください、フレデリック上官。上官は、上官としての職務をまっとうしました。余計な行動や言動を慎むのは致し方ないことです」
「ありがとう。たとえそれが本心じゃないとしても、少し気が楽になったよ」
「いえ、本気でそう思っています。だからこそ、さっき自分は、仲間を助けようとしませんでした。本当に大切な仲間です。でも、助けませんでした」
自分の行動を肯定するような言葉とは裏腹に、語気には力がなかった。どうしたらいいのか分からない、どうすればいいんだ、という心の叫びが、露骨に語気に表れている。
フレデリックは、哀れむような面持ちで言った。
「ライアン、本当にそれでいいのかね? まだ叙任式を終えていない今なら遅くはない。故郷の村に帰るということもできるんだ」
ライアンは眉間に皺を寄せてしばらく黙りこくっていたが、不意に大きく息を吐いた。
「そうですね。もう少し落ち着いて、今後のことを考えてみたいと思います」
フレデリックはゆっくりと頷き、視線を風景に戻した。すると、遠くから、馬に乗った兵士たちが、こちらに向かって駆けてくるのが、目に入った。
ヘーゼルガルドの兵士は、帰郷できる程の休暇は滅多にもらえない。ライアンと、その父親であるジョナスは、実に五年振りの再会だった。
城の入り口まで出迎えに来たライアンを見ると、ジョナスの顔に笑みが広がった。そして、ライアンの前まで来ると、ジョナスはライアンを力いっぱい抱き締めた。
「よく来たなあ、ライアン!」
ライアンも、ジョナスをきつく抱き締め返す。
「ああ、父さん。元気そうで良かった」
五年振りに会う父親は金色の髭を蓄えていた。元々体格のいい巨漢であるが、昔より少し痩せたように見えた。ライアンと同じような長い金髪は昔と何も変わっていない。
ライアンから体を離すと、ジョナスは嬉しそうにライアンの肩や腕を両手で叩いた。
「いやあ、随分と大きくなったなあ。この五年間で、よく成長したもんだ」
ジョナスはライアンの成長した顔立ちを確認する為、ライアンの顔を真っ直ぐ見つめる。そして、そこでジョナスもライアンの異変を察したようだった。
眉をひそめて訊く。
「顔色が悪いな。どうかしたのか?」
ライアンは、ジョナスに打ち明けることを躊躇った。そこにはヘーゼルガルドの兵士になる自分の立場への考慮や、ヘーゼルガルドの兵士長であるジョナスの立場への配慮があった。
しかし、それ以上にライアンは混乱していた。自分の人生の信念同然だった物の思いもよらない本当の顔。それでも今まで信じてきたものに背を向けることができず、咄嗟の判断で親友であるティムたちを裏切ってしまった。明日には、ティムたちは処刑されてしまう。ティムたちは、エルゼリアの為に、正しいことをしようとしているはずなのに。
一体何がどうなっているのか。ライアンは誰かにこの混乱を解いてほしかった。そしてそれができるのはジョナスしかいないと思った。
「実は・・・」
話を聞くと、ジョナスは表情を一気に曇らせた。先程の笑みは遠くに消え失せてしまっている。肩の力を抜き、ぼんやりと視線を地面に落とした。
「父さん。俺はこれからどうしたらいいんだろう」
ライアンは声を震わせた。
ジョナスは眉間に皺を寄せて、絞り出すように言った。
「こんなことにお前を巻き込んでしまって、すまなかった」
「そんな。父さんは何も・・・」
「いや、私さえいなければ、お前も兵士になろうとは、思わなかっただろう。私がお前をここまで連れてきてしまったのだ。それなのに、私には何もできない。お前の親友を救うことができない」
「父さん・・・」
「本当にすまない」
もう一度詫びた後、ジョナスは不意に両手でライアンの肩を掴んだ。
「こうなった以上、ヘーゼルガルドに仕えるのは辛いだろう。今からでも村に帰るんだ」
「と、父さんは・・・父さんは、このままヘーゼルガルドに?」
「分かってくれ、ライアン。私はヘーゼルガルドにもう三十年以上仕えているのだ。ヘーゼルガルドに対する忠誠心を断ち切ることはできない」
「で、でも!」
「お前の言いたいことは分かる。ああ、そうとも。私も同じ気持ちだ。今の国の方針を良くは思っていない。だが、昔は違ったのだ。昔のエドマンド王は、あのような方ではなかった。民を大事にされる、心優しい君主だった。だが、ミリア様、皇后陛下が若くして病で命を落とされると、王は変わってしまわれた。王室にこもられ、あまり姿をお見せにならなくなったのだ。しかし、ヘーゼルガルドに魔法の石が現れると、王は我々の前にも以前のように姿をお見せになるようになった。かつての英気を取り戻したかのように思えたのだ。だが、実際はそうではなかった。それ以来王は、民から心が離れ、富や権力を欲するようになられたのだ。魔法の石の持つ強大な力に心を蝕まれてしまったのだ」
ジョナスはもう一度、ライアンの肩を、より力を込めて掴んだ。
「分かるか、ライアン。王は、石のあまりに強大な力に毒されて、苦しんでおられる。そんな王を放っておくことは、私にはできん。王を助けねばならないのだ」
ジョナスは気迫のこもった目でライアンを見据えた。しかし、徐々に手の力が抜けていき、肩から手が離れる。
「だが、お前はもう村に帰った方がいい。無理はするな」
「俺は帰らない」
ライアンは小さな声で、しかしはっきりと言った。
「何だと?」
ジョナスは耳を疑った。驚きを隠せない。
「何故だ? お前の親友を殺す張本人に、どう仕えようと思えるんだ?」
ライアンは少し黙り込んだ後、決心したように口を開いた。
「ヘーゼルガルドが病んでいるのなら、俺も放ってはおけない。父さんと共に、ヘーゼルガルドを支える道を選ぶよ」
ジョナスは唖然とした。
「本気か?」
ライアンは引き締まった表情で頷いた。
「父さんも知ってるだろう。俺は小さい頃からヘーゼルガルドに憧れ、父さんに憧れていた。ヘーゼルガルドに仕えることは、俺の夢だったんだ。そのヘーゼルガルドに対する忠誠心は、これしきのことで無くなりはしないよ」
「そうか。分かった」
ジョナスは、頷いた。
「まさか、ヘーゼルガルドの存在が、お前の中でそこまで大きくなっていたとはな・・・」
屈強な兵士たちに半ば抱え上げられるようにして、ティムたちは薄暗い地下牢に連れて来られた。
牢屋の入り口が開くと、一行は兵士たちに突き飛ばされるようにして、牢屋の中に入れられた。すぐに、ずっしりと大きい南京錠がかけられる。
兵士の中の一人が言う。
「下らん真似をしないようもう一度言っておくが、この牢屋はマルコム殿下の魔法で堅く封鎖されている。精々大人しく死を待つんだな」
三人とも暴れ疲れたせいか、意気消沈しているせいか、何も言葉を発しなかった。去っていく兵士たちの靴音だけが冷たく響き渡る。
靴音が完全に聞こえなくなると、アナベルが能天気な声で沈黙を破った。
「本当に抜け出せないのかなあ?」
ソニアは、ティムを心配そうに見やった。ティムは身動き一つせずに、床に座り込んでいる。
「ティム」
ソニアは膝立ちの状態でティムに駆け寄った。顔を覗き込むが、ティムの表情にいつもの輝きはなかった。目の前に立ちはだかる死に、そして信頼していた親友の裏切りに、強いショックを受けているに違いなかった。
ソニアが穏やかな口調で話しかける。
「大丈夫、きっと何か打開する方法があるはずよ」
ティムからの返事は無い。ソニアは小さく溜息を吐き、ティムの背中を優しく撫でた。
「ソニアの言う通りだよ、ティム。絶対に抜け出せない牢獄なんて、ある訳ないもん」
そう言ってアナベルは立ち上がると、手を壁にかざした。
「ア、アナベル、何を・・・?」
そのソニアの声を、アナベルの声が遮る。
「大地よ、唸れー!」
途端に地面が唸るような音を出しながら揺れ動き始めた。そして次の瞬間、鼓膜を破れる程の大きな音が鳴り響いた。壁が爆発したのだ。
ソニアは思わず耳を塞いだ。大量の粉塵が舞う中、ソニアは目を凝らして状況を確認する。しかし、そこには相変わらず分厚い壁が一行を阻んでいた。
アナベルは壁に近づき、何か変化があるか確認していたが、首を振った。
「うーん、ダメだったみたい」
「アナベル、そういうことをするなら、何か一言言ってからにしなさい。びっくりしちゃったでしょう」
「ごめんごめん」
アナベルはぺろりと舌を出した。
「でも、いけると思ったのになあ。残念」
「確かに、凄い一撃だった」
ソニアは人差し指を下唇に当てた。
「それなのにびくともしないなんて。さすが、脱獄不可能を自負するだけあるわ」
「ソニア」
アナベルが声をかける。
「何?」
「魔法使える?石がなくても」
「え、ええ。使えるけど」
すると、アナベルは目を輝かせた。
「じゃあ、今度は二人で一緒にやってみようよ。それならきっと、この壁も壊せるよ」
「で、でも、あまり暴れ過ぎると、明日まで待たずに、すぐに処刑されちゃうんじゃ・・・」
「でもここを出ないと、どっちにしろ私たち死んじゃうんだよ。脱出する為にできることは何でもしないとダメだよ」
ソニアは少し躊躇っていたが、すぐに頷いた。
「分かったわ、やりましょう」
ソニアは立ち上がり、壁に手をかざした。アナベルも同じようにする。
「いい? 一、二の三で行くわよ」
「がってんしょーち!」
二人は、並んで一緒に数え始めた。
「一・・・二の・・・三! 大地よ、唸れ!」
するとまた地面が揺れ始めた。先程よりも強大な力が三人の全身に伝わってくる。そして空間を引き裂くような大爆発。その爆音は先程よりも大きく、ソニアは一瞬聴覚を失った。粉塵は再度視界を覆い、ソニアは目つぶった。
数秒経って粉塵も落ち着いてきたところで、ソニアは目を開けた。まだ微かに舞っている粉塵の向こうには、分厚い壁が何事もなかったかのように佇んでいた。
手を壁に向けて突き出したまま、アナベルは小鳥のように首を傾げた。
「何だこりゃ?」
ヘーゼルガルド王であるエドマンドとその息子マルコムは、燭台の灯りに照らされた大理石のテーブルで晩餐を取っていた。
「今日は良い日でしたか? 父上」
マルコムが薄ら笑いで、銀のプレートに置かれた羊の肉をナイフとフォークで切る。
「ふふふ、当然じゃ」
エドマンドは、口の中の食物を咀嚼しながら鼻で笑う。
「明日の朝が楽しみだ。ここのところ、下らん小物の処刑ばかりだったからな」
「ええ。明日は、民もさぞ陶酔することでしょう」
「民には、しっかり公表をしたか?」
「ええ。処刑する日時、場所、彼らの名前、またティム・アンギルモアに関しては父親のエピソードまで公開しました。三人の内の一人がエルフということも、無論伝わっています」
「素晴らしい」
エドマンドは満足げに頷くと、グラスワインに口を付けた。
「早く明日にならんもんか」
その時、床の下から何かが壊れるような大きな音が鳴り響いた。
エドマンドは食事をする手を止めて、眉をひそめる。
「な、何だ、今の音は」
「彼らの仕業でしょう」
マルコムは、肉を切りながらさらっと答える。
「きっと魔法でも使ったんでしょう」
「魔法? 脱獄する為にか?」
「ええ。エルフは魔力に長ける種族ですから」
「なるほど。あれ程脱獄は不可能だと念を押したというのに」
エドマンドは、喉を鳴らして笑った。
「我が息子、マルコムは、エルゼリア一の魔術師であるぞ。その魔法で封鎖された牢獄を破壊できる訳がない」
「全くその通りです、父上」
そう、マルコムが言った瞬間に、二度目の爆発音が聞こえてきた。同じ方向から、今度は一度目の倍程の大きさで。
またエドマンドの手が止まる。少し不安げな表情になった。
「今度はかなり大きかったぞ。大丈夫か?」
「ええ、全く問題ありません」
マルコムは一回目と同じように、顔色一つ変えず食事を続けている。
「確かか? 確認の為に、誰かを送った方がいいんじゃないのか?」
「父上」
マルコムは食事する手を止めた。冷めた目線をエドマンドに向ける。
「父上は、私の実力を過小評価するおつもりですか?」
「いや・・・」
突然のマルコムの挑戦的な口ぶりに、エドマンドは少し怯んだ。
「けして、そういう訳ではないんだが」
「でしたら、どうかご安心ください」
「あ、ああ。分かった」
マルコムはナイフとフォークを置くと、着ているローブの懐から何かを取り出した。そしてゆっくりと手の平を開く。そこには赤黒い輝きを放つ石があった。
くくく・・・。欲望の神の司る守護神石、アレキサンドライト。私の天性の魔法の才能とお前の力がある限り、私に敵うものなどいない・・・。
「アレキサンドライト、か」
エドマンドも、マルコムの持つ守護神石に見入った。
「見えますか? 父上。このアレキサンドライトが放つ、獰猛で血生臭い輝きを」
マルコムはアレキサンドライトを顔の高さまで持ってくると、狂気に満ちた目で見つめた。
「荒々しく強大な力を誇るこの石。その圧倒的な力は、所持者自身を破滅させてしまう程です。だが私は高い魔力によって、それを抑制しています。そして、代わりに莫大な力を得ました」
マルコムはエドマンドに目線を動かした。
「あの牢獄からは、ネズミ一匹抜け出せません」
エドマンドは、少しの間、口を開けたまま硬直していた。だが不意に口元を震わせたかと思うと、高らかに笑い出した。
ヘーゼルガルドは安泰だ。マルコムと、守護神石がある限り。
その時、部屋の扉が開いた。扉の向こうには、エドマンドの娘シルビアがいた。革のベストに白いシャツ。まるで男のように股引を履いているが、顔は女性的な美しさを湛えている。そこにはどこかまだあどけなさも残っていた。
シルビアに気付くと、エドマンドは咎めるような口調で言った。
「シルビアじゃないか。一体どこをほっつき歩いておったんだ。食事の時間には遅れるなと、何度言ったら分かるんだ」
シルビアは、ふんと鼻を鳴らした。
「別にメシくらいアタシの好きな時に食べるって、何度言ったら分かるんだよ、このクソ親父!」
「何だ、父親に対してその態度は!」
エドマンドを無視して、シルビアは食卓に着いた。
そのまま無言で食事を始める。
一方、反省のかけらも無いシルビアに、エドマンドは苛立ちを隠さずに更にこう続けた。。
「まったく。どうしてお前は、兄のようになれんのだ。マルコムは朝から晩まで、国事に奔走しているというのに、お前はどうだ。何の仕事もせずに、剣の練習ばかりしおって。女のお前が、剣の練習をしたところで、ヘーゼルガルドの為にならないことに、早く気付け」
するとシルビアは突然立ち上がった。椅子が後ろに音を立てて倒れる。
シルビアは、エドマンドの顔を見据えると苦々しげに言い放った。
「もうその話は聞き飽きた」
そのままシルビアは、食事も途中のまま部屋を後にした。乱暴に閉められた部屋の扉が大きな音を立てて、部屋に響き渡る。
まだ少し興奮気味に顔を赤くしながら、エドマンドは鳩肉のスープに口を付けた。
「まったく、とんでもないドラ娘だ!」
マルコムはそのやり取りに微塵の興味も示さずに、黙って食事を続けている。
エドマンドは呟いた。
「ヘーゼルガルドの最初の二つの守護神石の片方を、あいつに渡したのは宝の持ち腐れなのかのお」
その古びた教会は、ヘーゼルガルドの町外れにひっそりと佇んでいた。夜闇の中、その教会から漏れる暖色の灯りが、周囲を照らしている。
ノックをすると、すぐに中から黒いローブを全身に纏った神父が出てきた。来訪者の顔を見ると、神父は笑顔を湛えた。
「待っていましたよ。どうぞお入りなさい」
ジョナスは教会の中に足を踏み入れると、後ろを振り返りライアンを見た。そしてライアンもジョナスに続いて、教会の中へと入っていく。
教会は広くはなかったが、天井が高いせいか窮屈感は感じられない。木造の長椅子が並んでいて、その真ん中にある通路を、靴音を響かせながら歩いていく。そしてその先の教会の奥には、白い大理石でできた祭壇があり、そこにはヘーゼルガルドの紋章が飾られていた。
「ご子息様のご叙任おめでとうございます、ジョナス殿」
祭壇の前まで来ると、神父は軽く会釈してみせた。
「ライアン殿はきっと、素晴らしい騎士になるでしょう」
「ああ、勿論そうなりますとも、神父さん」
ジョナスは笑顔を作ってみせた。
「じゃあ、後は任せます」
「ええ、分かりました。また明日の朝お会いしましょう」
神父の言葉に小さく頷くと、ジョナスは踵を返した。そしてライアンの肩にぽんと手を置くと、小さな声で囁いた。
「自分のやろうとしていることを分かっているんだろうな、息子よ」
ライアンは、少し間を置いてから無言で頷いた。
それを見たジョナスは手を離し、元来た道を引き返していった。
ジョナスが教会から去った後、神父はライアンににっこりと微笑みかけた。
「まずは、その汚れた衣服を脱ぎましょうか」
言われるがまま、ライアンは着ていた革の鎧と、その下の布の下着を脱いだ。筋骨逞しい上半身が露になる。
「そこの部屋は浴室です。祈りを捧げる前に、まずは体を清めなさい」
「分かりました」
ライアンが脱いだ服を長椅子に置こうとすると、神父は両手を差し出した。笑みを湛えながら首を上下に動かしてみせる。
ライアンは神父に服を渡すと、神父が浴室と行っていた所へ向かった。そこは小部屋で、中には木製の大桶があった。中には水がなみなみと入っている。手を入れてみると、その水は丁度体温程度に温まっていた。
ライアンは下半身の衣服も全て脱ぎ捨てると、桶の中に飛び込んだ。途端にライアンの視界は桶の中の水で埋め尽くされた。
ジョナスは夜の暗闇の中、たいまつを手に城へと戻った。
城門に着くと、門番の兵士たちが敬礼をして道を開ける。城の中に入ると、エドマンドがマルコムと大臣のコルニックを連れて、城の階段を上ろうとしているところが見えた。
「陛下」
ジョナスが、エドマンドに声をかける。
エドマンドが足を止め、振り返る。声の主がジョナスと分かると、エドマンドは表情を緩ませた。
「おお、ジョナスか。どうだ、そなたの息子ライアンは。叙任式を前に興奮していたか?」
「ええ、それはもう」
ジョナスは何度も頷いてみせた。
「ヘーゼルガルドの兵士になることは、せがれの夢でございましたので」
「そうか、そうか。それは良かった。わしも明日の朝を楽しみにしているからな」
言いながら、エドマンドはもう一度階段を上り始めた。
「陛下・・・お願いがございます」
エドマンドの背中を見つめながら、ジョナスは絞り出すように言った。
「明日の処刑ですが、考え直して頂くことはできませんでしょうか」
「何?」
エドマンドは再度足を止め、振り返った。厳しいと言うより、むしろ怪訝そうな表情を浮かべている。
「何故考え直さねばならんのだ?」
「彼らは、何の罪も犯しておりません。ヘーゼルガルドに守護神石が渡るのであれば、何も殺すことはないのではないでしょうか」
「何ぬるいことを言っておる」
エドマンドは、鼻で笑った。
「奴らは大事な守護神石を奪われたのだぞ。生かしておいたら、いつか取り返しにくるだろう。それに、ティムとかいう奴は、あのボヘミアンの息子だ。父親の報復の為に、何をしてくるか分からん」
「し、しかし、陛下。それでも無実の人間を処刑していては、平和な世界を築き上げることなどできません! ヘーゼルガルドは、エルゼリアの民に平和な世界を提供する王国なのではないのですか?」
「ジョナスよ」
エドマンドは、鋭い目つきでジョナスを睨めつけた。
「おぬし、いつのまにそんなにでかい口が叩ける程偉くなったのかね?」
エドマンドに凄まれ、ジョナスは眉間に皺を寄せて押し黙った。
しばらくジョナスを睨むと、エドマンドはまた階段を上り出す。
「処刑のことは、もう民にも知らせている。今更中止など、絶対にせんぞ」
エドマンドの後から階段を上っていたマルコムは、ジョナスをちらりと見やると、冷ややかに微笑してみせた。それは息子の親友を殺されたくないというジョナスの心情を嘲っているように映った。
エドマンドたちが階段の奥へ消えると、ジョナスは力なくかぶりを振った。
最初から分かってはいた。それでも何もできない自分への憤りに、ジョナスは拳を握りしめ体を震わせた。
ヘーゼルガルドを想いはるばるやってきた息子が、こんな惨い仕打ちを受けることになるなんて!
「よお、ジョナス」
聞き慣れたガラガラ声が、ジョナスの耳を突いた。振り向くと、そこには図体の大きい屈強な男が立っていた。ぞんざいに伸びた長髪をオールバックにして、後ろで束ねている。
「ガーレン、見ていたのか」
「途中からな」
ガーレンは口の端を歪めて笑みを作った。こぼれた白い歯は、浅黒い肌とのコントラストで余計に白く見える。
「まずは、息子の入隊おめでとう」
「おめでとう、だって? 今見ていたんだろう?」
「ああ、知っている。俺はその場にいたから、一部始終を知っているよ。お前の息子の仲間は、とんだ災難に遭っちまったようだなあ・・・」
「ああ」
ジョナスは俯いた。
「これは全部俺の責任だ。俺があいつをここに連れてきたりしなければ、こんなことにはならなかった」
「ふっ、何を言う。お前の息子、ライアンだっけか。奴はちゃんと自分の意思で仲間たちを取り押さえていたぞ。仲間を裏切ってでもヘーゼルガルドへの忠誠を守りきった。こりゃあ立派なヘーゼルガルド兵士になれそうじゃないか」
「しかし、ライアンの仲間たちには何の罪も無い。なのにライアンは、彼らを見捨てるという選択肢を強いられたんだ。それが良かったのか? 俺は決してそうは思わない」
するとガーレンは、ぎょろりと濁った眼でジョナスを睨みつけた。
「良かった悪かったは、お前が決めることじゃない。エドマンド様がお決めになることだ。そんなこと、これまでヘーゼルガルドに忠誠を誓い続けてきたお前なら分かっているだろうが」
「・・・」
ジョナスは下唇を噛みしめて、押し黙った。
「忠告しておくが」
ガーレンは目を細めると、声のトーンを落として続けた。
「あまり陛下に盾突かんことだな。陛下も薄々気付いておられる。お前の忠誠心が揺らいでいることをな」
「何だと」
ジョナスの表情が一気に険しくなる。
「俺のヘーゼルガルドへの思いは、三十年前からずっと変わっていない。国の平穏を差し置いて、陛下のご機嫌取りに徹しているお前と一緒にするな!」
「何を寝惚けたことを! エドマンド様はヘーゼルガルドの王であらせられるぞ。エドマンド様に忠実に仕えることが、我々兵士の義務ではないか」
「・・・」
ジョナスは黙り込んだ。
ガーレンの言っていることは、多かれ少なかれ正論だった。
「正義漢振るのはお前の勝手だが、くれぐれも身を滅ぼさんよう気を付けるこった」
そう言うと、ガーレンは喉を鳴らして笑いながら、城の奥へと消えて行った。
そして、夜は更けていく。
地下牢に閉じ込められているティムたち三人は、壁にもたれかかりながら、ただ朝が訪れるのを待つことしかできなかった。ソニアとアナベルは脱獄しようと何度も魔法を使用したが、この地下牢に傷一つつけることはできなかった。今は二人とも疲れたのか、口数も少ない。
「うん、何とかなるよ、きっと」
長時間流れ続けていた沈黙は、アナベルの明朗な声によって、破られた。
うつむいて座っていたソニアが顔を上げる。
「え? どういうこと?」
するとアナベルは跳ねるように立ち上がり、拳を握ってみせた。
「大丈夫。何とかなるでしょ。そんな暗い顔してないで、もっと楽しく過ごさないと」
そう言うとアナベルは、鼻歌を歌いながら両腕を上下に動かして踊り始めた。
その様子を、ソニアは口をぽかんと開けて見つめる。
「この状況でそのテンション?」
「あたし、ゲンキ担当だからね」
アナベルは両手を胸の前でくるくる回転させながら、楽しそうに踊っている。
ソニアは、思わずふっと笑った。
「アナベルったらすごいわね。ある意味、才能だわ」
「確かに、諦めるのは早いよ」
投獄されてからずっと口を閉ざしていたティムが、突然口を開いた。
二人が、同時にティムを見る。
ティムは続けた。
「もしかしたら、誰か助けにきてくれるかもしれないだろ」
「誰が?」
ソニアが怪訝そうに眉を潜める。
「あっ、そうか」と、アナベル。
「ライアンのことだよ、きっと」
それにティムは答えない。ただ引き締まった表情で、まっすぐ前を見据えていた。
再度の沈黙の後、ソニアが口を開く。
「希望の芽を摘んでしまうようだけど、ヘーゼルガルドの兵士になるのはライアンの夢だったのよ。わざわざ危険を冒してまで私たちを助けにくるぐらいなら、最初から裏切らなかったはずだわ」
「きっと混乱していたんだよ」
間髪を入れずにティムが言う。
「それに、あいつが俺たちを裏切らずに庇っていたら、俺たち三人だけじゃなくて、あいつも地下牢に閉じ込められていただろう。結局どう頑張っても、あの状況でライアンが俺たちを庇うことはできなかったんだよ」
「確かに、そうだよね」
アナベルがうんうんと頷く。
ソニアは人差し指を顎に当てて思考を巡らせていたが、やがて口を開いた。
「結局のところ、自力で脱出できないのなら、ライアンが助けにきてくれることに賭けるしかないか」
「さあ・・・どうかな」
ティムは、意味深な笑みを浮かべた。
「えっ。どういうこと?」
ソニアは、驚いた表情でティムを見た。
アナベルも、きょとんと首を傾げる。
ティムは腕を組むと、一つ深呼吸した。
「俺は助けに来てくれる人がライアンだなんて、一言も言ってないよ」
ソニアとアナベルは顔を見合わせた。
アナベルが言う。
「そんな人、本当にいるかな?」
「いるさ」
明朗な声色でティムは言った。
「きっとあの人はここに来る。俺たちを助けに来るんだ」
夜闇に包まれた教会を、僅かな松明な光が照らしている。周囲は静寂に支配されており、物音一つ聞こえない。
ライアンは、ヘーゼルガルドのエンジ色の紋章が飾られた祭壇の前で膝まずき、両手を重ねた。
叙任式とは、青年が騎士になる儀式である。儀式の日の前夜には、紋章が教会の祭壇の上に置かれる。叙任式に望む者は、儀式の前夜、夜通し祭壇に祈りを捧げ続けるというのがしきたりなのである。
ライアンは、この日の為にジョナスが用意した純白の絹のシャツに身を包みながら、祭壇に祈りを捧げている。しかしシャツの色とは対照的に、その心の中はまるで澄み切ってはいなかった。
幼い頃からの夢であったヘーゼルガルドの兵士になる夢が、今まさに叶おうとしているのだ。本来ならばヘーゼルガルドへの忠誠心を胸に、祈りを捧げているはずであった。しかし頭の中では余計な雑念が交錯し、ライアンはまるで祈りに集中することができなかった。
ライアンにとってヘーゼルガルドは、物心付いた時から特別な存在だった。それは父親がヘーゼルガルドの兵士だからというだけではない。ヘーゼルガルドはライアンの正義感を形成した存在であり、ライアンにとって正義そのものだったからだ。だからこそ、ライアンは混乱していた。
自分の下した決断は、本当に正しかったのだろうか。そう考え始めると、ますます祈りに集中することができなかった。ライアンにとって、ヘーゼルガルドは絶対的正義で有り続けてきた。しかし仲間を裏切り見殺しにすることが正義であるとは、ライアンにはどうしても思えなかった。
それでもヘーゼルガルドに背を向けたくはない。父親のようにヘーゼルガルドの兵士になって、エルゼリアの為に戦いたい。もしヘーゼルガルドが病んでいるのであれば、自分の力でヘーゼルガルドを助けたいのだ。それが自分の夢であり使命であると、ライアンは思っていた。
ヘーゼルガルドこそ正義であったこれまでの人生を全否定するか、それとも仲間の命を放棄するか。そんなジレンマに苦悩しながらも、ライアンは目を閉じて祈りを捧げ続ける。このまま朝が来ないのが一番いいと思った。
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