第2話 決断、そして旅立ち (Determination and departure)

 ティムが旅に出る決意を固めたことを伝えにハグルの家に行ったのは、翌朝のことだった。


「うむ。きっとお前は石を受け取ってくれると思っておったぞ。ほっほっほ」


 本当かよこのタヌキじじい、とティムは思ったが、さすがに口には出さなかった。


 ハグルは銀の箱をテーブルの上に置き、イスに腰かけた。ティムも向かいのイスに座る。


 ハグルが蓋を開けると、石の持つ青い輝きがハグルの皺だらけの顔に反射して、ティムの目にも映った。それは昨日よりもどことなく輝きを増しているように見えた。


 ハグルは石をしばらく感慨深げに眺めた後、ティムの方へそっと突き出した。

「さあ、受け取れ」


 ティムはおずおずと手を差し伸べて、石に触れた。ひんやりとした感覚が手に伝わった。

 ゆっくりと掴み上げる。片手に悠々収まるサイズなのに重量感があり、ティムは目を瞬かせた。


「一応念のために言っておくが・・・」

 ハグルは、ティムを厳しい目で見つめた。

「売るでないぞ」


「ハグル!」

 ティムは、やれやれと言わんばかりに首を横に振った。

「そんなに信用されてないなら、俺受け取らないよ」


「落ち着け。ジョークじゃ」


「まったく・・・」

 ティムは憤慨したように腕組みした後、少し考えてから言った。

「ちなみに、売ったらいくらくらいになるの?」


「・・・」

 ハグルの表情が一気に険しくなる。


「ジョ、ジョークジョーク・・・」

 ティムは焦って弁解する。


 ハグルはふんと鼻を鳴らすと、「こんな時に、下らんジョークを言うな!」と吐き捨てた。


 お前もな、と思ったが、その思いは心の中に閉まっておくことにした。


 そんなことより、ティムはハグルに質問をしたかった。聞いておきたいことは山程あるが、とりあえず石について聞くことにした。


「あのさ、これ守護神石っていうんだよね? 守護神って名前がついているくらいだから、何か神様と関係があるの?」


 ハグルは驚いたように目を見開いた。

「関係があるなんてレベルじゃないぞ。これは神そのものじゃ」


「い、石が神様なの?」


 何が何だかわからずにたじろいでいるティムを見て、ハグルは低い声で笑い出した。

「ほっほっほ。そういえば、まだお前にそういう話をしていなかったのお」


「全然してないね」


「では話すとしよう」

 ハグルは咳払いをした。

「まず、守護神石とは何か?という質問なんじゃが、これを説明するには、エルゼリア史を知っておかなければいけない。エルゼリアの歴史について詳しく知っているか?」


「俺たちハビリスとエルフが長い戦争をして、俺たちが勝ったっていうことくらいかな。詳しくは知らない」


「まあ、それくらいは知っているじゃろうな」

 ハグルはうんうんと頷いた。

「それを知っているなら守護神石の説明に入ってもいいが、折角の機会じゃ。もっと詳しい歴史の話をしてやろう。少し長くなるが良いか?」


 ティムが頷くと、ハグルは語り始めた。





「今から時を遡ること約一一〇〇年前、空間のみがただ漠然と広がっていた時代じゃ。十二の神々は、自分たちの力を合わせて世界を創り上げようと考えた。


 まず大地の神であるバルガロスと力の神であるデュラニムが協力して、大陸を築いた。次に水の神であるシルアマーズが海と川を創った。しかし炎の神であるヒースムーアと光の神であるシェネイ・ハウが空に太陽を創り昼が生まれると、闇の神のジス・ラモーンの居場所がなくなってしまった。


 そこで太陽は一日のおよそ半分しか出さないという妥協を神々の間で試みた。これが夜が生まれた理由じゃな。しかしジス・ラモーンが支配する夜は他の神々には何も見えなくなってしまうため、光の神のシェネイ・ハウが、大地の神バルガロスと協力して月を創ったのじゃ。風の神のブッフェローンは空気を創り、水の神シルアマーズと雷の神であるティルクヴォーザの力を借りて天気を創った。


 そして命の神であるウェルモニュークが動植物を創り出したところで、世界は一層生き生きとしてきた。しかしそれだけでは神々は退屈じゃった。そこでウェルモニュークは、勇気の神オリンパスと愛の神セルレニーナ、そして欲望の神ケルベロスと協力して人間を創り出したのじゃ。


 しかし誕生した人間は一つの種類に統一しておらず、四種類に分かれていたのじゃな。そこで神々はその四種をそれぞれハビリス、エルフ、ドワーフ、ホビットと名付けることにしたわけじゃ。お前も知っての通り、わしらはハビリスじゃ。


 こうして十二の神々は世界を創ることに成功し、その世界はエルゼリアと名付けられた。その瞬間からエルゼリアには暦が誕生し、エルゼリア歴はその時から数えられているわけじゃな。そして十二の神々はエルゼリアに宿り、エルゼリアの成長、発展を促しながら、エルゼリアを温かく守り続けた。そんな神々を人々は十二守護神と呼び、丁重に崇め祀ったのじゃ。


 人間は手を込んで創っただけあり、エルゼリアの生物の中でも格段に賢く、すぐに頭角を現した。エルフとドワーフは森を、ハビリスとホビットは平地を住処として、最初の五百年間、つまりエルゼリア歴五○○年頃まで、神々の力を借りながら、それぞれの種族の文化を平等に確立、成長させていったのじゃ。


 しかしエルゼリア歴六○○年を超えた辺りから、エルフとドワーフの力が少しずつ抜きん出始め、七○○年頃には強力な力を持ち始めたのじゃ。しかし力がついた分、種族の人口も増えてしまい、エルフとドワーフが森で共存するのは困難を極めつつあった。


 そしてエルゼリア歴七五○年頃、エルフとドワーフは種族の住処を勝ち取るために戦争を始めたのじゃ。これにはエルゼリアの十二の神々も慌てふためき打開策を練ったが、結局二種族の勢いを止め、かつ皆を平等にできるような策は思いつかなかった。


 百年にも及ぶ長い戦いの末、エルフがドワーフに打ち勝った。エルフは自分たちの住処を勝ち取ると同時に、ドワーフを森から追い出した。それからというもの、ドワーフは地底に籠ってひっそりと生きるようになり、争いごとに関心を持たなくなった。戦争の後エルフは更なる繁栄を向かえ、他種族を圧倒する強大な力を手に入れエルゼリアに君臨し始めた。


 しかしエルゼリア歴一○○○年を過ぎると、ハビリスが目覚ましい勢いで力をつけ始めた。そしてエルゼリア歴一○○七年、元来欲の深いハビリスはエルゼリアの権力を求め、エルフに宣戦布告したのじゃ。

 これにも神々はどうすることもできず、ただ戦争が熾烈にならないようにと祈るしかなかった。剣と魔法が牙を向いてぶつかりあったその戦争は、半世紀もの長い間、血と憎しみをまき散らしながら続いた。


 そしてエルゼリア歴一○五四年、その長い戦いは我々ハビリスの勝利で幕を閉じた。それまでエルゼリア中の森を支配していたエルフは、ハビリスによってその支配権を奪われ一部の森に隠れ住むようになった。対照的にハビリスは平地も森も支配し、エルゼリアにはハビリスの黄金時代が到来したかと思われた。


 しかし我々ハビリスの栄光は長くは続かなかったのじゃ。これまで争いが起こるたびにエルゼリアに不純物として蓄積されていた邪悪なエネルギーが、半世紀にも及ぶ血塗られた争いにより許容量を大幅に超えてしまっていた。エルゼリアはその膨大なエネルギーに耐え切れず、遂には爆発してしまったのじゃ。


 その恐ろしく禍々しい衝撃はエルゼリア中を駆け巡った。この衝撃により、何と十二の守護神は揃って石と化しエルゼリア中にばらばらに散らばってしまった。そしてそれまでエルゼリアの成長を促してきた神々が無力化してしまったことで、エリゼリアの成長、発展はぴったりと止まった。これはエルフとハビリスの戦争が終わってから、たった二年後・・・一○五六年のことじゃった。


 更にその禍々しい衝撃は、エルゼリアに邪悪で強大な力を持つ魔王セノスを生み出してしまったのじゃ。セノスはエルゼリアの最北端にそびえるハビリスの城であったブラックバーン城を究極の魔の力でもって制圧した挙句、ブラックバーンに住む人々を殲滅してしまった。居城を確保したセノスは、自分の家来を次から次へと創り出した。・・・こうして魔族という邪悪な種族がエルゼリアに蔓延るようになったのじゃ。


 魔族の登場により、エルゼリアは不条理で暮らしにくい世界へと変わっていった。我々ハビリスの世界では、王族や富豪たちがますます私腹を肥やしていく一方で、貧しい民は圧政に苦しみもがいておる。このような権力格差の構図が三○年もの間、続いてしまっているわけなんじゃな」





 一通り話し終わると、ハグルは一息吐いて紅茶をすすった。

「少し駆け足じゃったが、とりあえず話は終わりじゃ。基本的にはエルゼリア史について話したわけじゃが、一応お前の質問に対する回答にもなったかのお」


「うーん、要するに守護神石っていうのは、魔族によって石に変えられちゃった神様・・・ってこと?」


「うむ。その解釈で問題なかろう」


「この石は、確かサファイアっていったっけ。これはどの神様なの?」


「サファイアは風の神ブッフェローンの化身じゃ。他の十一の石についても教えてやろうか?」


「いや、いい。どうせ覚えきれないから。ところで石になっちゃったとはいえ、神様なんだよね? 何か石に特別な力はないの?」


「それなんじゃがな、実はわしもよくわからんのじゃよ。持ち続けていると魔法が使えるようになるだとか不老不死になるだとか言われてはいるが、どれも噂の域を出ん。そもそも滅多にお目にかかれる物ではないからのお。どんな力があるか、知りたいと思っても限界があるわな」


「へえ、ハグルにも知らないことがあるんだね」


「ほっほっほ、知らないことなんぞいくらでもあるぞ」

 ハグルは目を細めて、宙を見つめた。

「まあ、十二守護神が石になってしまった時、わしはもう五十を過ぎておったからのお。もう少し若けりゃ好奇心が漲って、守護神石について研究する旅に出ていたかもしれんな」


「ああ、そうか」

 ティムは手をぽんと叩いた。

「今が一○八六年でハグルは八十一歳だから、ハグルはエルフとハビリスの戦争を最初から最後まで経験しているんだね」


「いかにも。わしが生まれてすぐに戦争が始まったんじゃ」


「じゃあハグルは兵士として戦争に参加した?」


「ああ、もちろんじゃ。青年時代の大部分は軍隊で過ごした」


「やっぱり辛かった?」


「当然辛いことは多かった。エルフの強力な魔法を食らって、全身焼けただれて、生死の狭間を彷徨ったこともある。だが辛いことばかりではない。辛い中でも色んな出会いがあった。広い世界を目にすることで、見識が深まった」


「そうなんだ」


 思えば、ハグルとこんな真面目な話をするのは久しぶりだ。しかもこんなにたくさんハグルの過去に関する話を聞くのは初めてである。


「戦争って五十年近く続いたんだよね。何でそんなに長引いちゃったの?」


「色々な理由があるが、恐らく一番の理由は両者の戦法があまりにも異なっていたからじゃな。エルフはとにかく魔力が高い種族でな。基本的な戦法は、遠くから集団で強力な魔法をブチ込むというものじゃった。一方ハビリスは剣技に非常に長けておった。基本的な戦法は、馬に乗って突っ込み接近戦に持ち込むというもの。この両軍の全く異なる戦法が、逆に均衡状態を生み出し、戦争が泥沼化したんじゃ」


「ふーん。それで、最終的にハビリスが勝った決め手は何だったの?」


「何じゃ、今度はエルフとの戦争の話に興味が湧いたのか?」

 ハグルが呆れたように笑ったが、その後答えた。

「決め手は・・・月並みな表現になってしまうが、やはりハビリスの方に武運があったとしか言いようがない。ただハビリスは戦争の終盤、従来の剣技だけに焦点を置く戦法からエルフのような魔法も積極的に使う戦法に方向転換した。一方のエルフは、最後まで魔法ばかり使っていたがのお。もしかしたらそのあたりが勝敗を分けた要因なのかもしれん。いずれにしても、ハビリスの方に武運があったのは間違いない」


「魔法かあ」

 魔法と言われても、ティムにはピンとこない。魔法なんて見たこともなければ、そもそも魔法が使える人が本当にいるのかどうかも知らなかった。

「ちなみにハグルは魔法を使えるの?」


「使えるのなら、とっくにお前たちに見せておるよ」


「なーんだ、使えないのかあ」

 ティムががっかりした顔をする。


 そんなティムを見てハグルは微笑した。

「実は、若い頃少しではあるが使えたこともある。しかしもう忘れてしまったよ。それにわしは魔法のセンスがなかったみたいでなあ。簡単な魔法を使うのにも、とんでもない体力を消耗した。戦いの最中に使えるレベルではとてもなかったわい」


「へえー、そうなんだ」


「じゃあ、そろそろ話を戻そうか。守護神石にどんな力があるかの話じゃったな」

 ハグルが一つ咳払いを入れた。

「さっきも言った通り、よく分からんことは多い。ただ一つ間違いなく言えることは、これは意思を持っておるということじゃ」


「意思?」

 ティムが首を傾げる。


「ああ、そうじゃ。わしら人間と同じようにな」

 ハグルは紅茶をすすりながら続ける。

「もちろん意思があるとはいえ、これは石じゃ。勝手に動き回ることはない。だがどうやら自身の運命を操る力はあるようでなあ。守護神石がどこに行き誰の手に渡るかというのは、ある程度その守護神石の判断が入っているようじゃ。わしが十五年前にボヘミアンからサファイアを受け取ったこと、そして今それをお前が受け取ろうしているのも、サファイアの意思なのかもしれんな」


 ティムはただ黙ってハグルの話に聞き入った。


 ハグルは続ける。

「これから始まるお前の旅路がどのようなものになるのか、それは誰にも分からん。だが少なくともお前は、この石、サファイアには認められているということじゃ」


 しかし、ティムはどうも合点がいかないように言う。

「そんなこと言われてもねえ。だって親父も同じ立場だったのに、死んじゃったんだろ?」


 ハグルは喉を鳴らして唸ると言った。

「あいつに一体何があったのか。結局それは分からず終いじゃ。だがあいつも、少なくともサファイアには認められていたはずなんじゃ」


「うーん、過酷な旅になりそうだなあ・・・」


「当然じゃ。だからお前はけして一人で戦うんでないぞ。お前の父親は恐らく一人で戦っていた。その結果が死じゃ。お前はけして親父の二の舞を踏むな。旅先で同じ志を持つ仲間を探すのじゃ。そうすればあらゆる障害も乗り越えていけるだろう」


「分かったよ」


「おっと、そうじゃ。すっかり忘れておった」

 ハグルが、紅茶を飲もうとしていた手を止める。

「実は、お前の旅の仲間を一人見つけておいた」


「本当に?」

 突然の吉報にティムは驚いた。


「誰?」


「ライアンじゃ」

 そう言ってハグルはにっこりと微笑んだ。



 ライアンとは、隣村のカーネギーに住むティムの幼馴染の青年である。

 お互い自分の村に同年代の友達がいなかった二人は、物心ついた時からよく一緒に遊ぶ親友同士だった。ライアンは幼い頃から正義感が異常に強かったから、ライアンが魔王退治の旅に出るというのは特に驚く話でもなかった。


「良かった! ライアンが来てくれるなら、これ以上のことはないよ」

 ティムの声が弾む。正直なところ、一人で旅をするのは心細かったからなおさらだ。


「だが、ずっと一緒に旅をすることはできないようなんじゃ」

 ハグルは先程飲みかけていた紅茶をすすった。

「あいつの目的は、お前のように魔王を倒すことではない。あいつの目的は、ヘーゼルガルドの兵士になることじゃ。だからお前と一緒にいることができるのも、ヘーゼルガルドまでということになる」


「何だ、そうなのか」


 ヘーゼルガルドとは、この近辺の地域一帯を統治しているエルゼリアの王家の一つである。父親がヘーゼルガルドの兵士長であるためか、ライアンは幼い頃から兵士になることを夢見ていた。


 ティムはライアンから父親の話やヘーゼルガルドの話をいつも聞かされていたから、そのことはよく知っていた。なのにそれを忘れて共に最後まで旅ができると思っていたティムは、少しがっかりした気持ちになった。


「ヘーゼルガルドは立派な王国じゃ。守護神石の一つや二つあっても全くおかしくはない。お前にとっても行く価値のある所というわけじゃ」


「なるほどねえ」

 まるで他人事のようにティムが相槌を打つ。


 ハグルはテーブルに身を乗り出した。

「途中までしか同行できないとはいえ、慣れない旅の序盤に仲間がいるのは心強いことじゃ。まずは一緒にヘーゼルガルドを目指してみたらどうかな?」


 すぐにティムが頷く。

「もちろん。大歓迎さ」


「決まりじゃな」

 ハグルも満足げに頷いた。

「他に聞きたいことがなければ、今日はこのへんでお開きにしようか。ライアンとは明日の朝カーネギーで落ち合え。ライアンにもそう伝えてある」


「ちょっと待って」

 席を離れようとするハグルをティムが制止する。

「守護神石を十二個全部揃えたらどうすればいいの?」


「おおっと、まだそれは説明していなかったのお」

 ハグルは、苦笑いを浮かべながら座り直した。

「全部揃えたら、その時は十二守護神殿に行け。そして守護神石を祭壇に置くのじゃ。そうすれば神々は力を取り戻す」


「なるほどね」

 ティムは更に続けた。

「あの、もう一ついい? これは質問じゃなくて、お願いになるんだけど」


「何じゃ?」


「山羊の世話を誰かに頼んでほしいんだ」


「ああ、それは抜かりないぞ。鍛冶屋のアーニーが引き取ってくれるそうじゃ。息子を山羊飼いにさせたいようでなあ。喜んで面倒を見させてもらうとのことじゃ」


「そうなんだ、それなら良かったよ」

 そう微笑むと、ティムは立ち上がった。

「じゃあ仕事もあるし、そろそろ行くよ。明日の朝には村を発つ」


 するとハグルは一瞬寂しげな表情をしたが、すぐに元の表情に戻った。

「わかった。準備を怠るでないぞ。分からないことがあったら、また聞きに来るが良い」


「うん、ありがとう。じゃあまた明日」

 そう言い残すと、ティムはハグルの家を後にした。


 正直なところ、分からないことばかりだ。守護神石を探すためには何をすればいいのか? ヘーゼルガルドのような王国はどんな場所なのか? エルフやドワーフ、ホビットはどんな種族なのか? 上位の魔族とはどんなものか? 守護神殿はどこか?


 しかしティムはそこで質問をやめた。ティムは知っていたからだ。旅を続けていればそれらは自ずと明らかになっていくことを。今ハグルに質問をするより、ティムは自分の力ですべてを知るべきだと思ったのだ。





 こんがりと焼きあがったパンが、軽やかな包丁さばきにより切り分けられていく。その香ばしい匂いはお昼時の村の人々の食欲を刺激する。そろそろ皆、昼食を求めてここに集まるだろう。


 人の気配に気づきグラハムが顔を上げると、そこにはティムが立っていた。全てふっ切れたような、さっぱりとした表情だった。


 グラハムはふっと笑って、パンを切り分ける作業に戻る。

「よお、ぐうたら坊主。昼飯のパンなら有料だぞ」


「俺、やっぱり行くことにした」

 間髪を入れずにティムが言う。


 グラハムは手を止めずに、ちらりとティムの表情を伺った。しかしすぐに手元に目を落とす。

「ほら、聞いたか?」 


「え?」


 すると店の奥からベネッサが姿を現した。いつになく張り詰めた表情で。





 その日は、降るような満天の星空だった。耳を澄ますと、タロ川の水のせせらぎが遠くから微かに聞こえる。それ以外の音は何も聞こえない。静かな、静かな夜だった。


 丘の上で仰向けに寝転がりながら、ティムはパイプを吸う。吐いた煙は見事な輪を描いて、夜空に吸い込まれていった。

「いつから知ってたの?」


 隣りで一緒に夜空を眺めていたベネッサは、上半身を起こした。

「物心ついた時から、ずっと」


「何で教えてくれなかったんだよ?」


「何で? 理由はもう聞いてるんでしょ?」


 ティムは黙った。


「私たち、皆、口止めされてたんだよ。ハグルさんに」


「ああ、そう」

 ティムは白けた顔で言った。

「口止め、口止め、って。そんな大層なもんかよ」


「さあ、私には分かんない」

 ベネッサは、自分の座っている芝生に目を落とした。

「でもハグルさんの言うことだから、それでもいいと思ったの」


「皆が良くても俺は良くないね。おったまげたよ」


 口を尖らせるティムを横目に、ベネッサは笑った。



 ここで一分程の間、二人の間に静寂が訪れる。



「でも、ティムが決心してくれて良かった」


 ティムはベネッサの顔をちらりと見ると、また夜空に視線を戻した。

「てっきりベネッサは、俺のことが心配でしょうがないのかと思ってたけどね」


 ベネッサはティムの方を向いた。

「うん、心配でしょうがないわよ」


「ま、別に心配する必要ないけどね」


「はあー? あるに決まってるでしょ! だって朝もろくに起きられないし、剣の練習も全然しないし、山羊の世話はさぼるし、パンは盗み食いするし、いくじなしだし・・・」


 堪らずティムは話を割る。「分かった、分かった。確かに俺は心配されるべき存在だよ」


「本当にね。大丈夫なわけないわ」


「でも、行ってほしいんだろ?」

 ティムはパイプを吸い、煙を夜空に向けてふうーと吐き出した。


「うん・・・。やっぱりそれがティムの運命だから」


「運命ぃ?」

 ティムが素っ頓狂な声を上げる。


「そう、運命。運命には従わないといけないんだよ」


 ティムは白けた表情でパイプを吸うと言った。

「何でそれが運命だって分かるんだよ?」


 ベネッサはティムの目を見た。

「ただ、分かるの」


 ティムが何か言おうとする前に、ベネッサは続けた。

「私、ちっちゃい頃から知ってたんだ。いつかティムは私たちを置いて、長い旅に出るんだって」


 ティムは煙を吐きながら、失笑した。

「それは、ベネッサがすべて知っていたからだろ?」


「うん、そう。そうかもしれないね。でもティムのお父さんが残した言葉、あの綺麗な石にはそれだけ重大な意味が込められているんだよ。そしてそれはティム、あんたに向けられてる・・・」


 ティムは黙った。無意識にサファイアの入った革の袋に手が行く。サファイアの感触から身震いする程の重圧を感じて、ティムは歯を噛み締めた。


 ベネッサは夜空を見上げた。

「だからね。私はティムがいなくなる心の準備はできてるよ。きっと他の皆も」


 ティムも夜空を見上げた。そしてその瞬間、ティムは思った。この夜空とこのベネッサの横顔は、この先絶対に忘れることはないだろう、と。


「ティム、覚えてる?」

 ベネッサが言う。

「昔村の皆がティムはばかり可愛がるから、私やきもち焼いてティムをこの丘から突き落としたよね」


「ああ、そりゃあ覚えてるさ」

 ティムは笑った。

「俺、丘から転げ落ちて、泥だらけになったんだよな。あの時は、何でこんな目に合わなきゃいけないんだろう、って思ったよ。懐かしいなあ」


「あら、やっぱり覚えてた?」

 ベネッサも笑った。

「じゃあその日の夜、鍋の蓋やオタマで武装して、私の寝込みを狙ったことも覚えてる?」


「ええっ。そんなことあったっけ?」

 ティムが顔をしかめる。


「あったよ。でもあんた、頭に被ってた鍋の蓋落っことして。その音で私起きてさ。あの時は普通にむかついたけど、今思うと笑っちゃうな」


「我ながら情けない話だな、それは」

 ティムも納得して、苦笑いする。


「ティム」


 ベネッサが名前を呼び、ティムはベネッサの方を向いた。


 ベネッサは潤んだ瞳でティムを見つめると、唇を震わせながら言った。

「また、ここに帰ってきてね。約束だよ・・・」


 その時大きな流れ星が、東の空へと流れ落ちていった。





 そして、夜が明けた。


 村中の人々が集まる中、ティムは村の入り口の前に立っていた。


 身に着けている旅人用の丈夫な皮の服とマントは、仕立て屋のレイチェルにこしらえてもらった。背のうには、グラハムの作ったパンの堅焼きや肉屋のタイラーの干し肉などの保存の利く食料、塩などの調味料をたっぷり詰め込んだ。腰に括り付けた皮袋には、サファイアを入れた。


「いよいよこの時が来たのお」

 人だかりの中の先頭に立っていたハグルは、樫の杖で体を支えながらそう微笑んだ。


「いよいよ、ねえ」

 ティムが呟く。

「俺にとっては、突然過ぎて、そういう雰囲気じゃないな」


「安心せい。ゴブリンにでも襲われれば、すぐに実感が湧くじゃろう」


「ちょっ・・・、始まる前から物騒なことを言うのはやめてくれよ」


「かっかっか」

 ハグルはさも可笑しそうに喉を鳴らして笑った。


 次にハグルの横に立っていたグラハムが口を開く。いつも穏やかな笑みを湛えているグラハムが、いつになく真剣な顔つきだった。

「ティム。これから大変になるだろう。だがこの決断はお前の人生に報いる決断だと、お前は最後に確信する。そう信じながら、俺はお前の帰りを待っているからな」


「ああ。俺、頑張るよ、おじさん」


 その時、人々の群れの中からベネッサが飛び出してきた。

「ティム!」


「ベネッサ!」


 ベネッサは、しばらくティムを怒ったような表情で見つめた後言った。

「昨日の約束、忘れちゃダメだからね!」


「わかってるよ。忘れない」


 するとベネッサはふっと表情を緩ませ、ティムを優しく抱きしめた。


「ティム、頑張れよ!」

「ボヘミアンさんの夢を、俺たちの夢を叶えてくれ!」

「ティム、魔王なんてお前だったらやつけれられる!」

「ティム、俺たちはお前さんを信じているぞ!」

「ティム、辛い時はいつでも帰ってきていいのよ!」


 ティム! ティム! ティム!

 村人たちの声は、村中に響き渡った。


「じゃあ、そろそろ行くよ」


 ティムがそう告げると、ハグルはぐっと下唇を噛みしめた。しわくちゃの眼尻に涙が溜まったかと思うと栓が抜けたかのように溢れ始め、ハグルはティムをきつく抱き締めた。


「な、何だよハグル。暑苦しいなあ」


 しかし自分の目からも涙がこぼれていることに気づき、ティムは驚いた。思えばハグルを始め村の皆は、自分を十八年間温かく見守ってくれた。村にいると当然だった皆の存在の大きさを、村を離れる時になってようやく実感した。この村に強い愛着のある自分に気付かされたのだ。


「ちょっと、二人とも泣かないでよ」

 しかしそう言うベネッサは、既に顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。


 ハグルはティムを抱きしめながら、「立派になった、立派になった」とただ呻くだけだった。

 グラハムはそれを見ながら、静かに目を潤ませていた。


 やがてハグルはティムを抱き寄せていた腕を伸ばし、涙の残った目でティムを名残惜しそうに見つめると、短く「行け」と言った。


 ティムはくるりと踵を返し、村の外へと一歩一歩歩き出す。背後からは人々の大歓声が、旅立つティムを見送っていた。


 歩きながらティムは腕で涙を拭い、腹の底から沸き起こってくる妙な高揚感を抑えると、表情をぐっと引き締めた。


 なぜならティムの物語は、たった今始まっただけに過ぎないのだから。

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