エルゼリアの石 - Stones of Ersellia -
水野煌輝
第1章 守護神石の導き(Guidance of the Guardian stones)
第1話 隠されていた真実 (Hidden truth in the village)
暖かな日差しの下、山羊たちはのんびりと生い茂る草を頬張っていた。オオカミなどの天敵の訪れをまるで警戒していない様は、彼らが飼い慣らされていることを示している。
ここはエルゼリアの南東に位置する草原地域である。近隣には澄んだ水が流れることで有名なタロ川、そして五十人あまりの人が住むのどかな集落、グレンアイラ村がある。
そして山羊たちから少し離れた丘の上では、両の手を枕代わりにして静かに寝息を立てている青年がいた。彼の名前は、ティム・アンギルモア。グレンアイラ村の若い山羊飼いだ。
飼っている山羊に餌を与える為に、ティムはしばしばこの辺りの草原に訪れている。村に生えている雑草を食べさせることも多いが、そればかりだと村から草がなくなってしまう。このように草原で山羊を放牧することで、村の草がなくならないようにしているのだ。
今日も朝早くからここに来て、のんびりとした時を過ごしていた。
その時、彼が眠っている丘の上に若い女が一人現れた。彼女は彼の名前を呼ぶが、彼はいっこうに目覚める気配がない。
女は一つ溜息を吐くと、ティムの体を揺すり始めた。
「ティム。ねえ、ティムってば」
すると、ようやくティムは目を覚ました。透き通るような青空をバックに、女の顔が視界に入る。
「村中探してもいないと思ったら、やっぱりここにいたのね」
女は、風になびく栗色の長い髪を耳にかけながら目を細めた。
「何だ、ベネッサか・・・」
ティムは伸びをしながら、大きなあくびをした。
ベネッサは、ティムと同じグレンアイラ村の住人である。二人は幼い頃から仲が良い。ベネッサがティムより二つ年上だったので、まるで姉弟のような関係だ。ベネッサは村人たちから『かなりのべっぴんさん』と評されているが、本当に美人なのかどうかティムにはよく分からない。幼い時から家族同然の付き合いをしていると、相手の容姿に対する感覚が鈍くなるものだ。
「まったく。放牧しながら居眠りだなんて、もし大切な山羊に何かあったらどうするつもりなの?」
ベネッサが、呆れたように言う。
「何か用かい? ベネッサ」
ティムはゆっくりと上体を起こすと、気怠そうに頭を搔きむしった。
「ハグルさんが、ティムのこと呼んでるの。家まで来てくれってさ」
「ハグルが? どうして?」
「さあ? 私はただ、そう伝えるようにハグルさんに頼まれただけだから」
ベネッサは、両手を広げて肩をすくめた。
「ああ、そう」
ティムはもう一回大きなあくびをすると、跳ねるように立ち上がった。
「じゃあ、一緒に村に戻ろうか」
「山羊はもう大丈夫なの?」
「うん。もう十分食べただろ」
ティムは、ピィーと指笛を鳴らした。
山羊たちが音に反応しゆっくりと歩き始めると、二人は村の方角へと歩き始めた。
グレンアイラ村では、藁ぶき、板ぶきの家屋が軒を並べていた。お昼時ということもあり、昼食の食材を買いに行く人々で村は活気づいている。
ベネッサと別れ山羊舎に山羊を戻すと、ティムはハグルの家のある村の外れへと歩き出した。
商店街を歩いていたら、聞き慣れた声に呼び止められた。
「よお、ティム。こんな所で何やってんだ?」
その声はパン屋のグラハムだった。グラハムはティムの父親と昔から仲が良く、ティムの幼い頃からよく遊んでくれた。ちなみにベネッサはこのグラハムのパン屋で働いているのだが、まだ来ていないようだった。
グラハムは、豊かな口髭を蓄えた顔に満面の笑みを浮かべてティムを見ていた。
「おはよう、グラハムおじさん。今日はハグルに呼び出されてるんだ」
「ハグルさんに? 何かあったのか?」
「そんなこと俺が聞きたいさ」
グラハムは眼尻を下げて微笑むと、またパン生地をこね始めた。
「まあ、気を付けて行ってこいよ」
「まったく。面倒臭いなあ。何か用があるなら、向こうから出向くっていうのが筋なんじゃないの。何で仕事の合間を縫って、俺が会いにいかないといけないんだよ」
ティムが文句を垂れると、グラハムは笑った。
「まあ、そう言ってやるな。あのご老体じゃあお前の家に着くまでにぽっくり逝っちまうかもしれないからな」
グラハムの皮肉にティムは笑った。ハグルはかなりの年寄りであるがすこぶる元気で、今でもティムと対等に剣の稽古ができるくらいの力があるからだ。彼に年齢よる衰えは、ほとんど見られないというのが事実だった。
「ところで、お前、朝飯は食べたのか?」
「いや、まだ」
「じゃあ、何かパン持って行けよ。代金は気にしなくていいからな」
ティムは目を輝かせた。
「本当? いつもありがとう、おじさん」
「なあに。今度山羊のミルクを安く売ってくれれば、それでいいさ」
ティムにパンを奢る時、決まってグラハムはこの台詞を言う。しかし実際にティムが安く売ろうとしても、「いいから取っておけ」と言いながら正規の金額を置いていく。グラハムはそんな人だった。
焼き立てのパンをかじると、あまりの美味しさにティムは思わず笑顔になった。
「あー、やっぱり美味しい!」
グラハムは満足げに微笑んだ。
「それじゃあ、また帰りにでも寄ってくれよ」
「うん、おじさん。また後で」
そう言って、ティムはまた歩き出した。
パンを頬張りながら少し歩いたら、ティムはハグルの家のある村の外れに着いた。ハグルの家は他の村人の家よりも一回り小さく、家というよりも小屋という響きの方がしっくりくる。
ドアをノックすると、中からハグルのしゃがれ声が聞こえてきた。
「誰かな」
「ティムだよ」
「入れ」
声に従うままにティムは家の中へ入った。最低限の家具しか無い殺風景な部屋の中に、大きな白髭をたくわえた老人が一人、テーブルに向かって座っていた。ハグルである。
「おはよう、ハグル。今日はわざわざ呼び出したりして一体何の用だよ。急にぎっくり腰にでもなって、腰をさすれとか言うんじゃないだろうね」
ティムは茶目っ気たっぷりにそう言った。
「たわけ。お前にそんな心配をされるには百年早いわい」
「じゃあ、何の用なのさ」
ハグルは眉間に皺を寄せながらティムのことを見据え、少しの間考え込んでいるようだった。しかし不意に息を吐き、「まあ座れ」と言った。
どうやらハグルの用事というのは些細なことではないようだった。ティムは多少の緊張感を覚えながらも、言われるままにイスに腰掛けた。
「どうしたんだよ、一体」
座るやいなや、ティムはもう一度尋ねた。
するとハグルは、大きめのテーブルの上にちょこんと載っているティーカップを口に運び、紅茶を一口飲んだ。客人を呼んどいて自分だけ紅茶を飲むのはとても礼儀正しい行いとは言えないが、この老人が不作法なのは今に始まったことではない。
ティーカップをテーブルに戻すと、ハグルは重々しく口を開いた。
「時の流れというのは速いものじゃな。お前ももう十八だ。まだまだ一人前とは言えないが、立派に成長したな。わしが長い間みっちりと稽古をつけてきただけあり、死んだ父親によく似て剣の腕は素晴らしいものになった。まだ間の抜けた面も多くて心配じゃが、わしはお前の成長振りには感服しておるし、今後に期待もしておる」
藪から棒に何を言い出すのかと不思議に思ったが、どうやら褒められているようなので悪い気はしなかった。
ハグルはちらりとティムの表情を伺うと、更に続けた。
「そこでじゃ。わしもいつお前に打ち明けるべきか、時期を探っておったのじゃが、今がその時期なのかもしれないと近頃悟ったのじゃ。お前も十分成長した。もう真実を受け止めることができるはずじゃ」
真実? 何の話だ?
要点をはぐらかすハグルに妙な動悸を覚えたが、ティムはハグルが次に何か言うのを待った。
白い顎鬚をあさりながら、ハグルは口を開いた。
「お前の父親の死について、だ」
ティムは息を飲んだ。
ティムの父親、ボヘミアン・アンギルモアは、グレンアイラ村の英雄だった。自分の身を顧みず村の人々のためにせっせと働く、まさに好漢の見本のような男だったらしい。その上村の中で圧倒的に剣の腕が立ち、誰と勝負しても負けことがなかった。
そんな彼が村に残した最も誉れ高い功績は、以前に村を襲った巨大トロルをたった一人で退治したことだ。しかしその闘いで深手を負ってしまい、村中の人間に看取られながら息を引き取ったとの話である。ちなみにティムの母親は、夫の死後すぐに、夫を追うように病死してしまったとのことである。
ティムは両親の顔を覚えてはいない。二人が死んだのはティムが赤ん坊の頃だったからだ。幼い頃ティムは、両親についての話を聞かされながら、一体どんな顔だったんだろうと思いを馳せたものだった。
「親父の死の真実ってどういう意味だよ。親父は巨大トロルとの闘いで刺し違えて死んだんじゃ・・・」
するとハグルはふっと自嘲気味に笑うと、「あの男が、そんなことで死ぬものか」と呟くように言った。
「あいつは、巨大トロルなんぞ、かすり傷一つ付けずに倒しおったわ」
ティムは呆然とした。自分は今相当間の抜けた顔をしているだろうな、と思考の隅で思った。
「どういうこと?」
少し声が震えた。それ以外の言葉が出てこなかった。
「まず、真実をお前に話さなかったのは、お前がまだ幼かったからだ。幼い内に真実を教えても本質を見抜けるだけの力があるとは思えなかったし、成長過程では重荷になるだけだ。そういったことを全て考慮した結果、お前には真実を話すことをしなかったのじゃよ」
「だから何だよ? その真実っていうのは?」
「巨大トロルを退治してから数ヵ月後のことじゃった。突然あいつは旅に出ると言い出した。妻であるお前の母親と、まだ赤ん坊だったお前を置いてな」
「旅だって? 一体何のために?」
「我らの世界、エルゼリアに巣食う邪悪な種族、魔族を倒すためじゃ」
突拍子も無い返答にティムは呆気にとられていたが、すぐに聞き返した。
「ま、魔族って、ゴブリンとかトロルのこと?」
「いや、そうではない。無論奴らも魔族なのだが、あのような下等な魔族を倒していてもキリがないんじゃ。あれは毎日大量に生まれてきて、エルゼリア中をうろちょろしておるからな。やるなら魔族全体を一気に消滅させねばならん」
「そんなことできるわけ無いじゃないか」
「普通はな。しかし、それができる方法があるのじゃよ」
「どんな方法?」
「エルゼリア中に散らばっている、守護神石と呼ばれる石をすべて集めることじゃ。そうすれば、魔族は消滅する」
しゅごしんせき?
何だ、それは?
しかしここで深くまで質問をすると、話が前に進まなくなってしまう。そんなことよりも、ティムは早くハグルの話の続きを聞きたかった。
そんなティムの考えを察したように、ハグルは淡々と話を続けた。
「守護神石は全部で十二個。ボヘミアンはその内の一つを持っていたから幸先は良かった。しかもあいつは、この村じゃ名の知れた豪傑じゃ。民衆の期待も大きかった。村人の誰もが、いつかきっと石を全て集め魔王を倒して帰ってくる、と信じて疑わなかったのじゃ。」
ティムは黙ってハグルの話に耳を傾けていた。しかし動揺の余り心臓は大きく波打ち、額にはうっすらと冷や汗が噴き出ていた。
トロルとの闘いで死んでしまったはずの父親が、実は魔族を相手に闘おうとしていたなんて!
ハグルは続ける。
「奴が旅立ってから、一年後くらいだったじゃろうか。あいつは村に帰ってきた。生きているのが不思議なくらいの重傷を負って、な」
「じゃあ親父は・・・」
ハグルは灰色の眉を寄せながら、絞り出すように続けた。
「わしはあいつが村の入口に倒れているのを発見した。既にあいつは虫の息だったが、それでもわしに必死に何かを伝えようとしていた。手に跡が付く程力強く握りしめていた石を突き出すと、あいつははっきりこう言ったのだ。『ティムを頼む』と」
そこでハグルはおもむろに立ち上がると、部屋にある小さなタンスから銀色の箱を取り出した。それをテーブルの上に置くと、蓋を開いてティムに見せた。
箱の中では、丁度手の平に収まるサイズの青い石が美しい輝きを放っていた。
「これはその時お前の父親から預かった石じゃ。守護神石の一つで、サファイアという名前じゃ」
「すごい」
余りの美しさに、思わずティムは声を上げていた。しかしすぐに自分の置かれている状況を思い出す。
「で、今日俺をわざわざ呼んだ理由っていうのは? まさか親父の死に方を教えるためだけに呼んだんじゃないだろうね?」
「おお、どうも前置きが長くなってしまったようじゃな」
ハグルは、きれいに禿げ上がった額を掻きながら言った。
「今日呼んだ理由は、この石を渡すためじゃ。そしてお前にはボヘミアンの遺志を継いで、全ての守護神石を集める旅に出てもらいたい」
「・・・へ?」
ティムの目が点になる。
「もう話した通り、わしは死ぬ寸前のボヘミアンからこの石を受け取ったのじゃ。無念のまま死んでいった奴のことを思うと、息子であるお前にこの石を受け取ってもらい魔王を倒してほしいのじゃよ。わしがお前に厳しい剣の指導をしてきたのも、そう考えていたからなのじゃ」
ティムが表情を引きつらせる。
「マ、マジで言ってる?」
「大マジじゃ」
「・・・曖昧にしたくないから、今はっきり言っておくよ」
ティムは、ハグルの目をしっかりと見据えた。
「俺、絶対行かないよ。石も要らないからね」
「な、何じゃと? 何故じゃ?」
「うーん、面倒臭いから」
「・・・」
二人の間に沈黙が流れる。
やがて、ハグルはもう一度尋ねた。
「め、面倒臭いとは、一体どういう意味じゃ?」
「そのままの意味だよ。何で俺がそんなことしないといけないの? 魔族とか別に興味ないし、そんなの相手に旅に出るのなんて怖いよ。それにエルゼリアって広いんでしょ? 毎日毎日、一日中歩き続けないといけないじゃないか。それに、村の外にはゴブリンがうじゃうじゃいるんだ。おちおち寝ることだってできやしない。そんな生活絶対イヤだね。俺は今まで通り、ここで暮らす!」
まるで小さい子供のように駄々をこねるティムを前に、ハグルは文字通り空いた口が塞がっていなかった。
「お、おぬし・・・」
「大体、そんなに魔王を倒したいんだったら、ハグルが倒しにいけばいいんじゃないの? 大体、剣の腕だって俺と大して変わんないしさあ」
「こ、このたわけがあっ!」
ハグルは絶叫した。
家路につきながら、ティムは死んだ父親のことについて考え耽っていた。
ハグルに伝えた理由は嘘じゃない。旅なんて大変だし、できることならやっぱり行きたくはない。大体魔王相手に自分が何かできるとも思えない。しかしそれ以上にティムは、自分の父親のことを認めることができなかった。村を襲ったトロルと戦って死んだのなら仕方ないと納得ができるが、幼い自分と母親を捨ててまでわざわざ旅に出た結果死ぬなんて、ティムにはどうしても納得ができなかったのだ。
ハグルは、明日また答えを聞くからじっくり考えておけ、と最後に言った。
商店街に着いた。肉屋、雑貨屋、靴屋などが立ち並んでいる中に、グラハムの経営するパン屋もある。
かまどでパンを焼いていたグラハムは、待っていたかのように話しかけてきた。
「おう、坊主。ハグルさんとの話はもう済んだのか」
「うん。まあね」
その時、店の奥からベネッサが現れた。手にはパン生地のついたきねを何本か抱えている。
「あら、ティムじゃない。ハグルさんとの用事は済んだの?」
「うん。仕事はどう? はかどってる?」
「まあまあね。それより用事済んだんならこんな所で油売ってないで、山羊の世話でもしなさいよね」
ぶつくさ言うベネッサを横目で見ると、グラハムはふふっと笑った。
「ベネッサ、さっきの生地、かまどに入れてから随分経つけど、大丈夫なのか?」
一気にベネッサの顔色が変わる。
「いっけなーい! 忘れてた!」
悲鳴のような声を上げると、ベネッサは慌てて店の奥へと戻って行った。
グラハムはティムに向き直った。
「それで、何の話だったんだ?」
「別に。何事かと思ったけど、全然大したことじゃなかったよ」
適当な返事をしてその場を去ろうとしたティムに、グラハムはぼそっと呟いた。
「そうだな。あいつの死に方なんか、お前にしてみたらどうでもいいよな」
ティムは、ぎょっとしてグラハムの方へ向き直った。
「何でそれを?」
「ハグルさんがこの前言っていたんだ。そろそろお前に真実を打ち明けようと思う、とな。それで今日お前が呼び出されたとなれば、後は簡単に想像がつくさ」
店の奥から、ベネッサのあまり上品とはいえない叫び声が聞こえてきた。どうやら少し遅かったらしい。
叫び声を聞いたグラハムはやれやれと苦笑いすると、またティムに向き直った。
「で、どうだったんだ?」
「まあ・・・はっきり言って、『ふざけんな!』って思ったね」
意表を突く返答だったらしく、グラハムはティムの顔を見て目を瞬かせた。
「そりゃ何に対してだ?」
「親父に決まってるだろ」
ティムは目を細めて一つ息を吐くと、カウンターに寄りかかりながら愚痴るように話し始めた。
「トロルから村を救ったり魔王を倒す旅に出るのは大いに結構だけどさ。親父は、俺と母さんを置き去りにしたんだよ。母さんはその後すぐに死んじゃったし、俺は親なしで生きていく羽目になったんだ。勝手に旅に出て勝手に死んだくせに、俺に遺志を引き継がせるなんて、都合が良過ぎると思わない?」
「まあ、細かいことはいいじゃないか。どうせこんな村にずっといたって、面白くないだろう?」
グラハムは、握ったパン生地を木のまな板に小気味よく叩きつける。
「旅はいいぞ。やっぱり若者は旅に出ないとなぁ、旅に!」
「何呆けたこと言ってんだよ」
グラハムの適当な発言にいちゃもんを付けると、ティムは少し声の調子を下げて続けた。
「それに親父は英雄だったのかもしれないけど、俺は違う。英雄なんかじゃない。ただ何も考えず、だらだらと生きているだけの怠け者さ。魔王を倒すなんてこと、俺には・・・」
グラハムはティムを神妙な顔つきで見つめていたが、不意に店の奥にいるベネッサに声をかけた。
「悪いな、ベネッサ。ちょっと空けるぞ。昼までには戻ってくる」
「え、ちょっと! それまで私一人で切り盛りしろっていうの?」
ベネッサの甲高い声が聞こえているのかいないのか、グラハムは早速出かける支度に取り掛かっていた。
「どこ行くの?」
「まあ、ちょっと付き合えよ」
グラハムに連れられ、ティムはタロ川のほとりに来た。
早春の晴れの日に見るタロ川は美しかった。川のせせらぎも耳に心地よい。草むらにはタンポポやスミレの花が五分咲き程にまでなっていて、辺り一面に春の足音が響きわたっていた。
タロ川に向かって座ると、グラハムは目を細めた。
「いやあ、グレンアイラ村にタロ川があって本当に良かったよな。エルゼリアのどこだって、ろくな水なんて飲めやしない。飲み水よりも葡萄酒やビールの方がずっと安く飲める。でもこの村は別だ。このタロ川のうまい水と、グレンアイラの良質な小麦から挽いた小麦粉を練り合わせることで、グラハムパン屋のパンは出来るんだ。これで不味いはずはないってわけだ」
「はいはい」
ティムはぶっきら棒に返事をする。このまま放っておくと店の自慢を延々と聞かされそうだ。
「それで何なの、用件って」
「用件って何のことだ。俺はただ、たまにはお前とちゃんと話をしたいと思っただけだ」
グラハムがすっとぼけてみせる。横顔を見ると、にかにかと笑っていた。
「何だよ、それ」
「ふふふ。そんなに言うなら、この際はっきり聞こうじゃないか。お前、親父のこと嫌いか?」
「嫌いじゃないとは言い難いね」
「はっはっは! 正直な奴だな、お前は!」
グラハムは一通り笑った後、「いやあ、嫌いになっちまったかあ」と、どこか寂しげに言った。
「そりゃそうでしょ。正義だ平和だって言って、家族を放置したまま蒸発して死んだ父親なんか、普通好きになれますか?」
「そりゃあ、ひでえ親父だな!」
グラハムは、さっきよりも豪快に笑うと言った。
「でも真実は、本当にそうかな?」
「どういう意味だよ?」
「あいつはな、常に周囲のために行動する男だったんだ。最初は生まれ育ったこのグレンアイラ村の人々のためだったが、成長するに従い視野も広がっていき、次第にエルゼリア中の人々のことを考え始めるようになった」
「それで、魔王を倒すなんていうアホな旅に出たんだろ?」
「そうだ。だがそれがきっかけじゃない。あいつを魔王を倒すなんていう無謀な旅に駆り立てるものがあった。それはティム、お前だよ」
ティムは反射的にグラハムを見た。
「俺?」
「お前が生まれてからも、周囲を第一に考えるあいつの性格は変わらなかった。だがお前は何よりも誰よりも、あいつにとって大事な存在だったんだ。しかし魔族は、少しずつ確実にエルゼリアを蝕んでいる。このままではこの世に生を受けたばかりのお前の未来が危ない。あいつはそう思った」
ティムはタロ川のゆるやかな水面に視線をやりながら、ぼんやりとグラハムの話に耳を傾けていた。水面では数羽の水鳥が孤を描くようにして泳ぎ戯れていた。
「だが旅を決意した後も、あいつはお前やお前の母親のことが気がかりだった。何しろ無謀な旅だ。いくらあいつとはいえ、死ぬことは十分にあり得る。そしてあいつもそれをよく分かっていた。だからあいつは俺に、『もしものことがあったらティムのことをよろしく』と頼んだんだ。俺だけじゃない。村人全員に頭を下げて頼んで回ったんだ。勿論、皆声を揃えて承諾した。人があいつに何かを頼むことはあっても、あいつが人に何かを頼むことはあれが最初で最後だったな」
ティムは何も言わず、ただ水面を見ていた。そういえば両親がいないのにも拘わらず、ティムは今まで寂しいと思ったことは一度もなかった。村の皆がずっと支え続けてきてくれたのだ。
「結局、あいつは瀕死の重傷でこの村に帰ってきた。だがハグルさんによると、死ぬ間際にあいつは必死にあの青い石をお前に託そうとしていたらしいじゃないか。自分の死を悟ったあいつは、エルゼリアを救うという決意を石と共に、息子であるお前に託そうととっさに考えたのだろう」
グラハムは近くに落ちていた小石を掴むと、川に向かって投げた。小石は水面を三、四回飛び跳ねると、向こう岸に飛び込んだ。
「今のお前に、魔王を倒す旅なんてできる自信がないのは当然だ。そんなことそうそうとできるもんじゃないさ。正直、石をどうしようとお前の勝手だ。そりゃあ受け取らない方が楽さ。だがこれは、お前の人生の転機なのかもしれない。これに乗るか乗らないかで、お前の人生の意味は全く変わってしまうだろう。お前は今、人生最大の岐路に立っているんだ」
「人生最大の岐路ねえ」
ティムは目を細めた。
「ま、ちょっと話が逸れちまったな。まあ要するに俺としては、今回の件について、お前に頑張ってほしいと思ってるわけだよ」
その時、きゅぐるるうと異質な音がその場に響いた。
「あ、ごめん。俺、お腹空いちゃったみたいで」
ティムは照れくさそうに舌を出し笑った。空腹のあまり、腹の音が鳴ってしまったのだ。
「ふふふ。もうすぐお昼時だな。俺は仕事に戻るとするよ」
グラハムは腰を上げた。
「お、ラッキー。ついでに、昼飯食べさせてよ」
「いいぞ。ただ、昼飯までサービスというわけにはいかんな」
「何だよ、それ。グラハムおじさんのケチ」
「バカヤロー。お前みたいなぐうたら坊主に売ってやるだけでもありがたく思えってんだ」
そんな会話を交わしながら、二人は村へ戻って行った。
夕方になると、グラハムは店仕舞いに取り掛かった。
今日も売上は寂しかった。グレンアイラの人々皆がパンを買う時はここを利用するので客はいるのだが、価格はぎりぎりまで下げているので儲けは僅かしかない。
グラハムが道具を洗い終わり店先に戻ってくると、そこにはハグルの姿があった。
「あ、ハグルさん。こんばんは」
「まだ売ってくれるかね?」
「ええ、勿論。どれにしましょう?」
「パンを三斤程頂こうかのう」
グラハムは、パンを紙に包みながら、さりげなく切り出した。
「そういえば、今朝ティムと例の事について、お話をされたんですよね」
するとハグルは顔を露骨にしかめると、待っていましたとばかりに口を開いた。
「ああ。わしが石を見せて渡そうとしたら、あいつめ、面倒臭いといって断りおった」
ハグルはこめかみに立派な青筋まで立てている。かんかんに怒っているようだった。
ティムはグラハムには『面倒臭い』という言葉を使わなかったが、それもティムの本心だろうと思い、グラハムは思わず微笑んだ。
「ははは。面倒臭いだなんて、あいつらしいですね」
「まったくじゃ。あいつはどうもやはり、間の抜けたような誠意の無さを感じるわい。あんなたわけを信じたわしが間違っておったのかのう」
「いやあ、あいつは引き受けますよ」
グラハムの言葉に、ハグルは眉をひそめた。
「どういうことじゃ?」
「結局あいつはボヘミアンの子ってことですよ。お待たせしました」
グラハムが包み終えたパンをハグルに手渡した時、丁度晩課の鐘が鳴り響いた。
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