第二章22話『優しい嘘』

 狂っただけの犬と思っていた。思いたかった。

 信じてる。信じる。偽善の塊の言葉は吐いた本人は信念を貫いて懇願していた。偽善、綺麗事を並べて、某小説の主人公らしく振る舞えば異世界なんて都合良く回る。与えられた一度の奇跡である現世に戻されることが巡って来たとしても再び異世界へ旅立とうとする者に神は味方するものだと思っていた。輝かしい運命は信念の先の未来だと信じたかった。

 だが、現実問題はそうはいかない。


 信念を貫き懇願しても届かないことがある。前回、ヘンゼルと言う青年が果たしてくれた希望は文字通り一輪の希望なだけだった。


 未知の力が覚醒し異世界の救世主になる。それこそ主人公最強のチート能力とか。そして周囲に自身の魅力を披露しハーレムを築く。


 そんなものは本当に作り話。事実、前回の召喚の際は『使い魔契約』を果たせば事態は変わった可能性もある。だが、異世界召喚されたのは凡人であり、異能力者でもない。故にチート能力は授からずか細い少女にすら手も足も及ばない。


 そして、他でもないハーレムは幻想のまた夢。

 異世界召喚されればモテモテ。の法則を仕上げた奴は夢を見続ける妄想人だ。と今では否定的ではあるが期待していたことも信実としてある。それ故に信じたのだから。


 だが、事象として笑えない状況下になってしまったのだろう。

 なぜなら、



「――兄さん」


 赤く狂った双眸の狂犬だったグレーテルはその瞳を元の灰色に落ち着かせて力なく『ツルギ』に向かって呟いた。


「何を言って――」


「兄さんですのよね? お約束守って下さったのですわ。兄さんはやっぱり兄さんですわ」


 灰色の双眸に光を宿した犬はゆったりと四肢をツルギに向けて進ませる。

 ツルギの経験則ではあるがほとんど確信に至っている事実であるヘンゼルとグレーテルの狂犬としての見極めは『赤い瞳』である。故に眼前の一頭の瞳の色からして狂っている状況ではなく至って通常な状態である。


「兄さん。お帰りになられたのですね」


 呆気に捉われていれば離れていた距離が縮まり迫る。

 脳細胞を働かせても働かせてもグレーテルの発言の起源には辿り着かない。


「そんな所にいらしてないでお家に入りましょう。裏庭の農園のトマトが熟して食べ頃になってますわ。お久しぶりに新しいお料理でもいかがでしょうか。……?」


 口を噤んだまま立ち尽くすツルギ。頬に付いた傷から鮮血が汗の様に顎まで伝って溢れ落ちる。その滴り続ける鮮血には目もくれずグレーテルは瞳を丸くして四肢を止める。


「あ、わたくしとしたことが……。兄さんはわたくしのこの姿お嫌いですもの。わたくし早く兄さんに抱き締めてほしいからと焦ってしまいましたわ。……ん」


 灰色の真ん丸の双眸を閉じるとその身に光が宿り、犬の形は『ヒト』の形へと変形して、宙を舞うリボンの様に頭部から双方に纏まって流れる。光を吸い込むように溶かすように減光してやがてその身が一人の少女の身へと一変する。


「兄さん何も仰らないのですもの。仰っていただければ直ぐにでも元の姿へ戻りましたわ。兄さん、あぁ……兄さん。愛していますわ」


 その双眸に映るのはツルギであって、瞳に映るのは『ツルギ』ではない。

 何がきっかけでグレーテルは『兄』をツルギに投影しているのか。


「おれは……ヘンゼルじゃ――」


「兄さんは兄さんですわ」


 否定を挿そうとすれば先を越されて彼女の幻想が挿し込まれる。

 真ん丸の双眸を細くして首を軽く傾げながら足をツルギに向かわせ始める。


「兄さんは言いましたわ」


 両手をそっと胸元へ置いて瞳を閉じて歩みを進める。

 その姿はきっと視感する現実を脳の幻想で書き換えようとしているのだ。


 世界で唯一の存在。唯一の味方であり、支えであり、運命共同体であったはずのヘンゼル。

 彼に愛を捧げ全てを捧げて、捧げられて。一人を選んで、他の全てには目もくれずに。彼は彼女にとっての生の全てであり、かけがえのない『兄』なのである。


「あの時に言いましたわ。「生まれ変わってでも」そう仰いましたわ。あのお言葉は本当だったのですわ」


 開かれる瞳は澄んだ灰色であって、狂った赤色ではない。彼女は正気で正常なのだ。

 唯一の存在であった『兄』を失い、それでも忘れることも出来るはずのない存在は、『生まれ変わり』で再会の時を待ち焦がしていたのだ。


 グレーテルが置き去りにした『兄』と願った再会を果たした『兄』は同一人物ではない。だが、少女の胸を焦がす想いは同一なのだ。


「兄さん。お話ししたかったですわ。……にいさん?」


 歩みを進めたグレーテルはツルギのすぐ正面に対峙する立ち位置になった。透き通る灰色の真ん丸の瞳が少しの身長差のせいで顎を少しばかり上げて見つめる。


「……俺は、ヘンゼルじゃな――」


 完全的な否定が口から零れる手前の寸前。ふっと記憶が甦る。

 グレーテルの兄であるヘンゼルが決死の想いを伝えていた最期の瞬間の記憶だ。



 朧に霞んだ視界から薄らと見ていた風景。少女が膝を床に立ててその正面に横たわる青年は今にも瞑りそうになる瞳を必死に開け続けた。死へ抗い続け手を伸ばし指先が少女の頬に触れる。青年が掠れ声を発していた。朧気な状態であったことも極まり記憶は曖昧でもある。


『……ぼくが生まれ変わってでも君に逢いに行く。だから信じていて、世界に一人は何かあってもグレーテルの味方はいるんだ。と……』


 頬に触れていた指先がそれを区切りに離れ重力に逆らわずゆったりと落ちていく。

 少女がその冷えた手を握り胸を近付けて願うように祈りを捧げるように青年の胸元に額を置いて、


『兄さん兄さん、兄さん。わたくし、生きますわ。兄さんに再び会うまで必ず――』


『……あいしている、よ……』


 ヘンゼルは安らかに微笑みを浮かべながら満足そうに眠りについたように瞳を閉じて、


 グレーテルは胸元に顔を埋めたまま最後の悲壮の叫びを上げた。


『兄さん、いやぁぁぁアアァアァあぁあぁアッ――』



 霞む意識の中で耳に張り付くその悲壮はこの先何があっても拭えない記憶だろう。

 それはツルギの弱さが生んでしまったと言っても過言でない事象。あの時の慢心な浮かれた気持ちが生んだ悲劇。悲痛。悲壮。悲鳴。


 少女が世界でたった一人愛し信じ共にいると祈願した人を救えなかった。その罪悪感が心中を掻く。あの叫びに向かい合うために、一人の少女の懇願を割ってしまった罪滅ぼしであっても、ツルギは今の少女には『嘘』を吐こうと決意する。明日か明後日かはたまたもっと先かは、分からない。

 だが、少女の悲壮を拭うきっかけが訪れるまでは『優しい嘘』を吐くと決意する。


「――待たせたっちゃったな。グレーテル。えーっと……ただいま」


 長い睫を震えさせて灰色の双眸から大粒の滴を崩壊したダムのように流す。

 涙を拭うこともせずに頬を伝って地面を濡らす。一度手を伸ばして引っ込める。

 それはきっと現実の『兄』と幻想の『兄』と虚構の『兄』が入り乱れているのだろうか。


 二人の家で安らかに眠りついた『兄』。眠りついてもなお、グレーテルの幻想の幻覚であるいるはずのない『兄』。眼前の見た目も声も匂いも口調もぶっきらぼうな下手くそな笑みを作る偽りの『兄』。


 眠りついた『兄』が現実であっても、幻覚が生んだ幻想の『兄』が妄想であっても。

 眼前の何もかも『兄』に思えない。それでもそうあろうと作る贋者の『兄』がグレーテルの救いになるように、ツルギは引き下がる手を引き戻す。


 力なく抵抗せずに少女は羽毛の如く少年の力に強制されてその身を少年の胸元に密着させられる。

 感じてしまう温もりに終わりの見えない双眸からの決壊した涙は溢れ続ける。


 悲痛でも、悲壮でも、悲鳴でもない泣声は少年の胸の中で溢れ出した。


「にいさん、にいさんっ。……にいさん!」


「ああ。……グレーテル。えっとまあなんつーか」


「……ん。にいさん……。にいさんにいさぁん、……おかえりなさいですわ兄さん」


 どこか吹っ切れた表情で笑みを浮かべた少女は最後に一滴の涙を頬に伝わせて泣くことを止める。その笑顔にほっと安堵したい気持ちはあるのだが、クサナギ・ツルギ特有の体質は空気を読むことは出来ずに全身を駆け巡り臓物までもが疼く。顔、頬、額、手にまでも赤い血の下で血塗られていない肌に赤い斑点が乱雑に浮かび上がり堪えようのない胃から何かが込み上げてくる。


「どう致しました兄さん?」


「ちょったんま……ステイステイ」


「すて……何ですわ? ――って兄さん!?」


 触れることへの恐怖が臓からの訴えで拒絶を全力で本能が物語る。だが、口のダムはリミッターを超えようとしていた。故に瞬時に強引にグレーテルを退けて自身から剥がしてから、二歩下がり回れ右。発射一秒前。


 噴射。


 ツルギの口からは七色の聖水が渇いた大地に潤いを与えました。めでたしめでたし。



 † † † † † † † † † † † †



 七色の聖水噴射後は詳しくは割愛する。傷を負ったツルギに対して自己治癒能力だけと思えたグレーテルが治癒魔法をツルギに施し皮膚の下で少し痛みと疼きと痺れがあるものの至って快調。そして鋭く斬れてしまったジャージは治癒魔法を施されている最中にアリスの従者である『帽子屋・ハッタ』が仕立て上げた。奇人でありながらその腕は確かなもので新品同様の繊細さを行使した。

 ともあれ、現在ツルギは一仕事を終え、掌に付いた砂を叩き落として額に流れた汗を拭いしゃがむ最中である。


「……よし。これでおっけいかな。んじゃまあ、一先ず――」


 両方の掌を軽く優しく合わせて双眸を閉じる。見えるのは暗い瞼の裏側だけだ。だが、その先に見える。ヘンゼルと言う戦友であるグレーテルの兄貴の姿。その彼は今や言葉を交えることも叶わない。触れることさえも出来なくしたツルギ。なぜなら、


「みんなも合掌」


 その掛け声にカガミはすっと真似て瞳を閉じて、グレーテルは横目で見てから見よう見真似で形を作って瞳を閉じて、無関心であると思われたアリスも表情に少し情を交えて掌を合わせて瞳を閉じる。


「常識とかあんま分からねぇし、葬式も行ったことねぇから合ってんのかも分からねぇし、ましてやこっちの葬式の礼法も知らねぇけど、俺なりのやり方でわりぃけど勘弁してくれヘンゼル。安らかにな……」


 その行為もツルギの自己満足であった。

 ヘンゼルを火葬してやれないことは状況的に不可能であるのは事実であり、かつての『モモタ戦』で出来上がっていた抉られた地面。その場に簡易的ではあったが生身を埋め墓石を設けた墓所である。礼法はツルギの知る仏教であり、それさえも少しの誤差に目を瞑ったとしても、合掌が意味するのは故人ではなく、故人をよろしく頼みます。と仏様に対して向けるものである。


 とは言っても当人の妹グレーテルは亡骸の『兄』に対してはそれほど関心がなく、「別に兄さんは兄さんで兄さんですわ?」とツルギに対して『兄』の存在と同調させる節があったのはヘンゼルも報われないと思えた瞬間であった。


 その後にヘンゼルの顔を見やればどこか笑顔が見えた気がしたのも事実である。それは束縛し続けていた『兄』からの解放によっての安堵かこれからの妹への期待か。ともあれ、今はこうして墓所で墓石の下で安らかに永眠を願うだけだ。


 そして、その準備の最中に空色のエプロンドレスの少女が羨ましそうに永眠に向けて眠る青年を見つめていたことは、また別のお話で――。



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