第二章21話『未来は笑って』
雨の降る日だった。家へ帰ったグレーテルを待っていたのは正面の机に身を預け椅子に座る少年。片目が腫れ上がっていて、可愛らしく落ち着く瞳を見ることすら出来ない。鼻からは黒めの血が流れ出てこの間生え変わった歯が数本折れている。残る瞳も瞼が腫れていて薄らとしか見ることは出来ないがその灰色の瞳が訴えかけてきた気がする。
――逃げろ。と。
幼い少女は咄嗟の出来事に反応出来るほどに思考は回らずゆっくりとその小さな身を近付けて、背中にある戸から漏れる雷の光が家の中を瞬間的に視感出来るように放たれた。
「お兄ちゃん。……どうして」
驚きの驚愕はあるものの、光景はそこまで悲惨ではないと感じた。兄の今の姿は傷付き血塗られている。だがそれも時間が経過すれば癒えて表面上はなかったことになる。グレーテルがそうであったように。だから兄の健在のこの状況は悲惨ではなかった。
ただ一つの害意の存在がなければ。
その害意は兄の手を後ろから無理矢理掴むと悲痛を堪える兄の眼前にもう片方の手に持つ料理包丁をちらつかせる。
「あらあらグレーテル。どうしてってことはないでしょう? これはあなたが撒いた悲劇ですわ。あなたの軽率な行いがヘンゼルを苦しめているのですわ。あなたが村の子にわたくしのことを言わなければこのようなことは起きませんでしたのに。あなたのその行いの罪滅ぼしですわ」
一歩、一歩、一歩、力なく兄へ近付くその足取りの先を見せつけるように雷の光が照らす。
血に濡れた顔に服を気にも止めずに母は叫び笑う。今までの鬱憤を晴らすように、豪雨と共に叫びは消える。
「あぁぁ……。あなたの悲痛な顔、ようやく見れましたわ。…………ぁ」
小さく漏れた声は声と例えるには小さく儚かった。そう、例えるのなら命の切れる音、なのだろう。
少女は女性の持つ料理包丁を瞬間的に奪いその軌道のまま首を通り過ぎさせたのだ。女性が言った悲痛な顔なんてしてはいない。……はずだ。
そんなないはずの感情を考えないようにして。
首から上がその笑う表情のままその場に転がり落ちる。その落ちた顔を睨むわけでも見つめるわけでもなく、グレーテルは転がった石に向ける何も感情を抱かない視線を落として、笑顔で兄を抱き締める。力の入らなくなった女の肉体から引き剥がすのは難儀に思えたがそんなことはなかった。
「兄さん。愛していますわ」
「ぼくもだよ、グレーテル。明日は、未来は笑って迎えよう。……愛しているよ」
この一件からグレーテルはヘンゼルを「兄さん」と呼び始めかつての自慢の母親の口癖や口調を使い始めた。それはきっと床に転がる顔と立ち尽くしたままの首なしの身体が兄妹の母親ではないと信じたかったからなのだろう。
「兄さん、お腹。空きませんか? ちょうど新鮮なお肉がありますわ。今日はわたくしが手料理を振るって見せますわ。明日からは笑顔で過ごせるためにも」
その夜までに兄妹は食事を済ませて、父親は血の匂いが沁みついた家で一晩を超えた。
それから事が進むまでは早かった。それもそのはず、いつものように隣人に媚びる女性が唐突にいなくなってしまった。消息不明の中、父にすら噤む口を割った相手は子供ではない。
子供は口が軽い。それが善か悪が分かり得ないからだ。故に相談出来る相手は大人に限られた。彼は優しい口調で尋ねてきた。誰にも公言しないと約束もした。幼き兄妹は何かに脆い身体を預けなければ壊れてしまう寸前まで逝っていた。故に頼ってしまったのだろう。その彼に。
全てを泣くことなく淡々と話した。
それこそが異常だと悟られたのだろう。村の医師の所へグレーテルとヘンゼルとその彼で訪れたその夜のことだ。女性を喰らってから二日後の出来事だ。
ヘンゼルとグレーテルが、『禁忌の兄妹』として名が広がった。
一家は逃げた。父は二人の味方になってくれた。寧ろ自身の情けなさを嘆き責めた。
信じた人間は他言して蔑んだ。信じていた母の愛は薄っぺらで自己愛の果ての姿だった。
友人も、親切な大人も、表で愛嬌を振り撒く母も、何一つ、兄と父以外を信じることをそれ以降一切出来ない少女はそのまま数十年の時を隔てて、兄の交渉の末に平穏な兄とだけの世界に逃れることが出来た。
兄以外いない世界で、兄だけを信じればいいだけの世界で、兄を失った少女は、結局何も信じることは出来ない。
† † † † † † † † † † † †
脳に流れた刹那の光景。それは目の前の少女の過去であり現在である。
信じる存在がいなくなってしまった世界で少女は一人になってしまった。
その光景を誰がなんのために見せたのかは分からない。だけど少女を救わなければならない。それは少女の兄であるヘンゼルの祈願でもあると、その光景を見たから分かる。
そこにいる者には聞こえない声がその場に溶ける。
『――グレーテルを救ってほしい。ぼくの唯一の友、ツルギ』
ツルギにもグレーテルにもその声は届かずに現れることもしない。
眼前の少女が睨み付ける双眸を見つめ続けて優しく語りかける。
「グレーテル。もう一度だけ信じてくれねぇか、人間を。もう一人だけ信じてくれねぇか、俺のことを」
睨んだ双眸はがくっと力なく俯いて見えなくなる。
「……忘れていましたわ。そうでしたわ。そうでしたわ」
「ああ、絶対裏切るかよ。俺はそのためにここに来たんだ。信じてくれグレーテル」
思いを綴る。ツルギ自身が異世界に再び訪れた理由。一つは守りたい存在が、人生を掛けたいと思える存在のため。そして、異世界のことを真っ先に思い出すことになったヘンゼルのこと。彼のことがなければこの異世界へ再来することはなかっただろう。現世で友人の一人もいなかったツルギの初めてと思える友。命を懸けたからこそ思えた。命を懸けられてしまったからある後悔。そして、信念。
「周りの人たちが、世間がお前たち兄妹を否定して、狂ってるだあ禁忌だあなんだって言っても、俺はヘンゼルとグレーテルは間違っちゃいねぇって、お前たち兄妹を肯定するよ。俺はお前たち兄妹がそこまで狂ってないって信じる。……周りの奴らが何と言っても俺はヘンゼルとグレーテルの愛は本物で偽ることない信実の愛だって言い張ってやる」
すっと掌を差し出して笑みを作って、あの時と同じ言葉を口にした。
「……一緒に行こうグレーテル」
ぽつりと呟かれるグレーテルの言葉は一つ。俯いたままツルギの差し出した掌に自身の手を乗せる寸前に呟いた。
「――――忘れていましたわ」
† † † † † † † † † † † †
虚勢を張れば全てうまくいく。そんな軽い感覚でいたのかもしれない。
だってそうだろ。ゲームでもアニメでもラノベでも、主人公が格好の良い上っ面の発言をすれば全てうまくいく。そうゆうものだろ、物語って言うのは。ハッピーエンドになるように作られてる。異世界召喚物は大抵主人公ぶれば難なく山を越えられる。そう思っていた。
「――フィクションみたくうまくいけよっ」
グレーテルの手が乗る刹那、辺りの空気が歪みを見せた。反射的にツルギは『死』を見た。故に体は生を繋ぐために回避行動を取ったのだ。グレーテルは振り払う仕草をすると手から振り払われた方向にかけて魔力の風が横断し隠れ家の壁を半壊させた。
異世界に召喚されたからって主人公だとか、預言を授かったからって主人公だとか、自惚れていたのは事実で否定は出来ない。だが、ヘンゼルを口説いたセリフと信念は違いにはない。誰がどう言ったとしても『禁忌の兄妹』であってもそんなことはツルギには関係のないことだ。その意志に崩れるところは一切ない。
「ほら、信じろと押し付けだけして、わたくしのことは信じない。それが人間ですわ。忘れていましたわ」
「信じてたら俺ミンチになってるだろ!」
「兄さんはこんな人間を信じて……。その末にお命を――ッ」
下唇を噛むと血が一筋伝う。真っ赤な血と同色の瞳が爛々とツルギを視界に捉える。
「あぁ……。兄さん、兄さんは生まれ変わる。そしてわたくしの元へ。いつになるのでしょう。ですがわたくしは待ち続けますわ。兄さん再会を心待ちにしておりますわ」
どこでもない斜め上を眺めて虚ろな双眸は下に向かって再びツルギを捉えた。
「兄さんとわたくしの世界に人間は不要ですわ。居ても居なくても変わりませんわ。でしたら、居ない方がいいに決まっていますわ」
そっと抱き寄せていたヘンゼルの頭を床に寝かせてから立ち上がる。服は液でべたついている。
「兄さん。少々お待ちくださいですわ。今すぐ二人だけの世界に致しますわ。――ァッ!」
その一撃は先刻とは格段に変化している。狂いのない真っ赤な双眸。視感出来る風は数枚の鎌鼬。軌道はツルギの腰から上。屈むことで全てを文字通り間一髪に回避する。数本の髪が重力に呼ばれ落ちるその停止している錯覚にさえ苛まれる時間の中、グレーテルは姿を狂犬に化けさせ、ツルギの指も動かすこともままならない瞬間に刹那の突進を真っ向から仕掛けた。
地面が遠ざかりその身は宙に浮いて飛んでいく。脳が震える。視界がぼやける。聴覚が空気の音以外拾えない。瞼を上げて下げてピントを無理矢理調整すると見えるものがある。
狂犬グレーテルがその身の周囲に視感出来る風を何枚も漂わせている。そして、吠えると共にその鎌鼬は宙で回避行動が一切出来なくなったツルギに押し寄せる。
「やべ、にげれ――ッ」
鎌鼬が過ぎ去るとそれ以上の飛距離はなくなり、衝突した点で降下する。
三メートルほどの高さからの降下だろうか。地面は土煙は吐き出す。その身を土で強打してしまった。膝で受け身を取ったことによって膝が割れた音が聞こえた。
強打した膝が痛い。魔力の風の鎌鼬で出来た斬り傷が痛い。頭突きをもらった額が痛い。そして、何より――、
「…………胸がいてぇなぁおい」
身体の痛みを堪えるために力一杯に歯を食い縛る。足が折れ曲がるのを阻止するように傷だらけの腕で押し上げる。砕けたであろう膝が嘆いて折れるのを防ぐために大股を開き立ち上がる。
正面から歩み寄る狂犬に向かって優しく微笑みを浮かべて血の付く顔を拭う。
「グレーテル。お前は、大好きな兄貴との未来のために、人間を殺そうと、そうするんだよな」
その言葉に返されるものは何もない。狂犬は歩みを止めることなく進む。
「だったらよ……」
土煙が落ち着きその場から狂犬がしっかりと見える。
「どうして、どうしてなんだよ……グレーテル……どうして」
赤みの絶えない双眸で少年を睨み付けて、
「――――泣いてんだ。……未来は笑って迎えないといけねぇ」
『暴食の犬』は、立ち止まる。
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