第二章20話『自慢の兄』

 


 ツルギは絶句した。言葉も声も息すら喉を通ることをせずに、その光景を眼球に焼き付ける。


 紫苑髪の少女と青年が二人、仲睦まじくしている。少女は青年を愛し青年はその愛を拒むことも受け入れることもせずに眠りに付いている。

 少女の二つに分けた髪の束は力なく床にその身を預け、髪先が床に滴る水分で湿っている。少しばかり白い粒が無数に付着していて、その白い粒は青年の服や微笑む顔に少なからず見受けられる。それらはまるで塩分の粉の様に思える。

 瞳に光景を焼き付けてしまっていれば、青年の頬に雫が一滴二滴と滴る。青年はそれに対して何一つ反応を見せることなく微笑み続け、少女は口角を緩く曲げて語りかける。


「……兄さん。今日は何を致しましょう。裏庭の農園のトマトが熟してきましたわ。お久しぶりに新しいお料理でもいかがでしょうか。……うふふ、兄さんったら。そうですわね、兄さんはトマトが大好物ですもの。そんなに焦らなくても誰もお食べになりませんわ。兄さんの分にわたくしの分。あ、でも足りませんでしたらわたくしの分もお食べになって下さい。わたくしは兄さんの愛で満足ですわ。ですから兄さん、どうぞお食べになって下さい。……うふふ、兄さんったら可愛らしいですわ。愛しています兄さん」


 紫苑髪の少女は幻想を語り続け乾いた瞳が膝元で微笑み眠る青年に向けられる。瞳から頬を伝い顎にかかるまで白い粉が吹いている。先刻一筋の跡だけが濡れて、横顔にかかる髪は乱れ狂い張り付いている。


「グレーテル……」


 ぽつりと喉から零れた言葉に少女は肩を跳ね上げて震える眼球だけを立ち尽くしている黒髪の少年、ツルギへ向かう。

 瞼を大きく開かせて瞳孔を開く。


「――にんげん」


 何を話せばいいのか分からない。この現状はどういった経緯でなったものなのか想像することも無意識に拒む。儚い希望が脳から腕を動かして口を開かせる。


「……ヘンゼルは――」


 双方に分けた髪型の少女、グレーテルが膝元の青年、ヘンゼルを抱き寄せて強く強く抱き締める。逃がさないように、渡さないように、離れないように、自身の元から放さまいと必死に抱き締める。


「――ッ! 人間、またですの!? また兄さんとわたくしを裂こうとするのですの!? あれほどに兄さんは人間を信じましたわ! なのにまたしても人間は兄さんを裏切ると言うのですの!? わたくしたちが何を致しましたか!? ただただわたくしたちは愛し合った。あなたたち人間に何をしましたか? なんでなんでなんで兄さんを連れて行くのですか。兄さんを、わたくしを、裏切る人間? ……そうですわ」


 怒涛の怒声の疑問はツルギに思考させる時間さえ与えずに少女は一人、結論に辿り着く。


「――――人間が、全ての人間が、憎いですわ。兄さんとわたくしを引き裂く人間のアナタタチガァァッ!!」


 灰色の双眸が一変して赤色に侵蝕していく。それは嘗ての狂犬の瞳と同様。

 叫びと共に魔力体の衝撃波がツルギに真向から激突して、家の戸とその周りの壁を吹き飛ばす。息が止まる。死の恐怖が骨の髄まで震える気がする。だが、ただの人間のツルギはそこに立ったままだ。


「グレーテル。俺はお前たち兄妹の味方だ。ちょっと話をしに来たんだ。何もしねぇからちょっと話そう」


「そう言っテ、あなたタち人間ハ」


「裏切るかよ。裏切るわけねぇだろ。グレーテル、お前とは対した関わりなかったな確かに。だけどな、だけど、俺はお前の兄さん、ヘンゼルの友達だ。折角出来た友達を裏切るなんてこと昔の俺が許しても今の俺はぜってぇに許さねぇ」


「……ともだち」


「そうだ。友達に」


「そんなのものはまやかしですわ。――――ァァッ!!」


 鋭利な衝撃波が右頬を掠める。衝撃波と略すには語弊があるのかもしれない。それは魔力体の風の方が分かりやすい。現に掠めた頬は二筋の傷が浅くも長く出来上がっている。

 抵抗する業は腰に携えた刀がある。だが、それを抜くことはせず一歩を踏み出す。

 そして放たれる魔力の風。一歩を踏み出し続ける。踏み出せば近付くことを恐れるように拒絶の風を放ち続ける。


「――――ァァッ!」


 魔力の風は先の一撃、ツルギの頬を掠めたものを除いて一閃も掠めもせずただただ拒絶させるように脅す行為をするのみ。

 グレーテルは双眸の赤く淀みかけている瞳を震え泳がす。


 分からないのだろう。ただの人間が魔力を放ち続ける禁忌の少女から仰け反らず歩みを寄せることが。


 怖いのだろう。禁忌の兄妹と蔑んだ種族のただの人間のことが。


 信じたいのだろう。兄が信じた、クサナギ・ツルギと言う人間の少年のことを。


 故に、少女の拒絶する風はツルギに一つも触れることはなく、ツルギを兄妹の手前まで近付けたのだ。


 ツルギは一歩距離を保ちながらその場に屈み込む。目線は恐れる少女と同じ高さ。黒色の瞳は一心に揺らぐことなく、赤く染まりかかる灰色の双眸を見つめて、頬を柔らかく砕いて口角を上げる。


「…………どうして、どうしてですの。何にも力をお持ちにならない人間が、どうして」


「言ったろ。俺はヘンゼルの友達で、グレーテルのその妹だ。なんも怖がることねぇだろ?」


「――――ッ!!」


 息を喉で潰したような声を口の中で叫んで少女は抱き寄せていた片方の手を少年の顔に向けて振り上げ切る。震える瞳を細めて何かに怯えながらその軌道を見続ける。


「……どうして、どうしてですの……。どうして逃げませんの。どうして反撃しませんの」


 グレーテルは目の当たりにしてしまった。逃げることも防ぐことも反撃することもしない少年の瞳を。瞬くことすらせずに一心に見つめてくるその瞳を、目の当たりにしてしまった。傷の奥に痒みが襲う。こんな時まで勤勉な反応を無視して。


「ヘンゼルはそんなこと望んじゃいねぇ。グレーテルが誰かをそうやって傷付けることを望んでねぇ。だからお前が俺を傷付けることはない絶対な」


 時間差で左頬に付いた三本の傷跡から赤い血が滴り始める。赤い血は床に零れ落ち白い粉を赤く染める。



 † † † † † † † † † † † †



 少女もかつては信じた人間がいた。『禁忌の兄妹』と名が広がるよりも少しばかり前のことだ。


 父は母はあの村でおしどり夫婦と呼ばれその両親の娘として、両親の仲の良さは自分でも誇りであり毎日自慢しても尽きなかった。父は働き者で家へ帰るのは毎日月と星が視感しやすい夜だった。母は主婦として子供の二人の世話と家事に勤しむ。隣人からはいつも大らかで優しい母と良く呼ばれていた記憶がある。そして父が帰れば父へ尽くして尽くして尽くし尽くした。


 それを作り続けた結果だろう。


 母は家事や隣人、旦那に対して抱いた鬱憤を独り抱え続け、そして誰もそのことに気付きはしなかった。

 温厚な母が壊れたのは何がきっかけとかではない。全てがきっかけで全てが原因だったのだ。


 母は壊れた。初めは周囲にばれることを恐れて、当時から大人しい性格だったわたくし、グレーテルが鬱憤を晴らす道具として利用された。

 わたくしは母親似なのだろう。周囲の眼を気にして暴力を振るわれたことを一切誰にも伝えることなく耐え続けた。なぜならそれは、自慢の母の風評が悪くなる。自慢出来る唯一の存在がなくなってしまうことを恐れたからだ。


 だが、母の暴挙は兄、ヘンゼルによって白紙になる。傷跡は残りさえしたが時も経てばそんなものは大したことなかった。


「グレーテル。痛かっただろう。……母さん、どうしてグレーテルにこんなことをしたんだ」


 母はそれに対して口を噤んだまま、その口を歪に曲げているだけだ。


「母さんは優しくてこんな非道をするなんて……」


 歪に歪んだ口元がゆっくりと開かれた。


「非道なんて酷いですわヘンゼル。これは躾。そう、躾ですわ。大人になると言うのは痛く辛く世の中の闇を見なければなりませんわ」


 そう言い放って母はグレーテルの頬に拳を投げつけるように殴る。幼いグレーテルは羽毛の様に軽くその軽い身を棚へ衝突させられる。棚の上に置かれた花瓶が、父を除いた家族に割れた音を届けた。


「――母さん! それ以上はぼくがさせない! グレーテルを傷付けるというのならぼくを殴ればいい!」


 グレーテルを庇うように母との間にその小さな体を飛び出して、何度か母の勢いが止まらぬ拳が雨のように少年の顔や腹部に届く。

 少年は抗うことはせずに、ただ妹を見つめて見つめ続けて、妹の盾になり続けた。


 その時の一件はそんなに時間が経たずに終焉を迎える。戸が三度叩かれた。母はその訪問がきっかけで拳の雨を止ませて、戸を開けるといつもの温厚な母として訪問者と他愛ない話を始めた。血塗られた手を見えないように背に回して。そして醜悪な表情を兄妹にだけ向けた。


「ほらヘンゼル、グレーテル。仲良く遊ぶのはいいことですわ。ですが自分たちでした不始末の処理は自分でなさらないとなりませんわ。先にあなたたちが割ってしまった花瓶、片付けて置きなさい。いいわね?」


 外から見られることと、聞かれていたであろう打音を全て兄妹喧嘩に仕立て上げ自身の評価すら向上させた母。

 外で立ち話をする相手の低い声、男だ。


「その若さで家事も世話もしっかりよくなさる。教育方針もきっと間違いないのでしょう」


「あらあら、いやですわ。褒めても何もお出し出来ませんわよ?」


 潤んだ瞳と少し赤く火照らせた頬、昂揚感を露わにするかのように赤い舌が薄い上唇を舐めて湿らせる母の横顔を見て幼いグレーテルは確信を得た。


 握られる手を通じて兄の存在へ対して明確な感情が幼いグレーテルの脳から骨、肌、体液にまで達したその情は母へ対する情の裏返し。


 ――その時、グレーテルは、兄に対して愛を抱き。母に対して無関心が芽生えた。


 兄の背中は当時のグレーテルよりも少しばかり大きかったが、グレーテルが目の当たりにした背中の大きさは大好きな父とも比にならないほどに大きかった。


 母は母である前に女であり何かに媚びなければ生きれない。他人に依存していなければ生きれないのだ。

 そんな小さな人間、どうでもいい。兄さえいればどうでもいい。


 その一件含め、兄の存在、兄への愛はグレーテルにとって自慢の対象だった。隣家の子供たちに自慢しては自慢尽くした。

 幼い少女の儚い希望は母によって悉く潰される。


 いつも通り自慢し疲れたグレーテルは兄の待つ家へ帰って悲劇が幕を上げる。



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