第二章10話『コメオノ』

 夜空は大きな月はその姿が見えず星々が瞬く。街灯はない村は星の輝きが無数に瞳を覆い尽くす。星座には詳しくないが見知った位置の星がいくつか見える気もする。実際オリオン座やはくちょう座程度しか知らないツルギ。細かな星座が分かったとしてもきっと無数に広がる星空はその正確な星座を把握出来ないだろうが。

 その静かな静かな村を星々が照らす中、とぼとぼと歩む影とその影より三歩先にずかずかと歩む影。


「あの星座あっちの世界で見たことある気がしねぇか?」


 ずかずかと歩む影は見向きもせずに真っ直ぐに進路を進める。

 先刻から他愛ない会話を広げるが一向に一方通行。何度かの試みが悉く回避され肩をどっと落とす。部屋から出てからした会話と言えば目的地はどこか聞かれそれに対する受け答え程度。そのせいもあってカガミは間違えることがないのだが。こうなると分かっていたのなら恍けて隣で歩みを進めればと後悔が生まれてしまう。


 いつの間にかカガミは歩むのを止めていた。

 他の建物よりも一段と大きな円柱の三階程度建物、連絡塔の手前、広場。入り口正面のその場所はツルギにとっては非常に思い出深かった。フンシーに水ぶちまけられたり暴風の餌食になったりと感慨深い。とは言っても実際のどれ程の時間が経ったのかは分からないが体感にしてあの日から三日か四日なのだから不思議なものだ。これからはなんでもないようなことが続くことになる。だが今のツルギにとってはそのなんでもない日常こそが未だに非日常である。


 カガミが踵を返してツルギから視線を逸らしながら両手を後ろに構えてもじもじとする。


「……なんてゆーかね。そのー」


 月光も街灯もない村は二人を照らすのは無数の星たち。一つ一つの小さく弱い光は二人を照らすには不十分だ。だが無数な星は集団として互いの顔を、表情を把握させられるだけの輝きを持っていた。

 カガミは少し頬を紅潮させて双眸を細めて続けた。


「ごめんね!」


「おっと急にどした」


「だからそのぉ。痛かったでしょ……ごめんね」


「あー、いいって。俺も軽率だったし……ごめんな」


 二人の四つの瞳が互いの双眸を見つめ合う。するとどちらからでもなくほぼ同時に頬が緩み一笑し合う。綻んだ空気にツルギは安堵して息を吐くとカガミが「そういえばさ」と区切りを付けて一歩二歩と歩み寄る。


「ありがとね、ズボン」


「おう、そんなことなら全然構わねぇよ」


「貸してくれたのもだけどね。何より、ツルギが少しくらい心配してくれたのが嬉しいから……ありがと」


「……お、おう」


 こういう時、策士でもなく対処方法を心得ていないツルギにとって精一杯の反応としては相手からの厚意などに同意や肯定をすることだ。人間関係の構築として、父親とカガミ以外碌に対話も怠ったのだ。経験値が足りずに相手がカガミであっても頬を軽く掻いて照れを誤魔化すように連絡塔へ足を進ませた。


 扉の手前まで進んだ時に背を追うカガミがふっと何かを思い出す。


「あ、そういえば言葉を教えてもらうんだよねー?」


「ん、そうだけど。何か不安だったり?」


 小さな口をへの字に曲げて細めの眉を八の字に悩ませ、疑問符を浮かべる。


「ツルギは分からない言葉なんだよね。でもアリスちゃん? の唸り声的なのもだし、精霊さんが言った言葉は、さ。なんてゆーか、英語みたいだなーって思ったの」


「英語……」


 悩ませていた表情を一遍させ指を一本立ててあちらこちらに振りながら、


「ほら、アリスちゃんが言ってた。フォオォ。に対してツルギはバカって言ったって言ってたでしょ?」


 首を軽く傾けるカガミの問いに頭を上下にして肯定する。


「ちょっと違うんだけど、バカって英語でフール、アルファベットで書くと……」


 瞬時に両膝を立たせて尻を地面に落とすことなく座り込み、地面に何かを書き始める。その無防備な行為はツルギの貸したズボンによって慎ましさを完備させた。


「ほらほら、Fool。そのまま読むとフォオル? あれ、なんか違ったー。なんだっけ?」


「フォオォ、な。改めて言葉にすると唸ってるだけだし一昔前のあの芸人のフォー! を思い出しちまう」


「フォオォ。フォオルじゃなくてフォオォ。フォー!」


 星が瞬く夜空の下で少女は一人すっと立ち上がって両手を星を掴もうとしているかのように思える程伸ばして叫んで地団駄を踏んで自身の書いた文字を消す。


「なんだかもうもう分からないよー!」


「おうおうドゥドゥ。落ち着け落ち着け。……こっちの言葉のこと考えても仕方ねぇしなるようにしてもらおうぜ」


 カガミの思ったことが筋が通っていてもそれを証明する術はきっとないだろう。この世界の言葉を作った人に聞く限り伝承や歴史を調べてもそれが捏造なら元も子もないし、何よりもツルギが元の世界で勉学に勤勉ではなかったことでカガミの推論に対して肯定も否定も出来ないのだ。

 この状況を説明すればきっとアリスは再び異言語で唸っているような言葉を発するだろう。意味は分かっても脳は理解出来ない歯痒さ。それにしっかりとした対話を彼ら、フンシーにアリス、世話になったシンシア。王国までを共に行動するであろうあのマモン。アガレスは時にNPC化することもあって認知症さえ疑問になる。それでも彼の言葉、語り物語を聞くことに損は感じない。

 そして何より、


「……ヘンゼル」


 彼との死闘死線は異世界の理不尽さと不条理さと期待を否めない。そして、彼の勇敢な最期。その名誉ある勇気に優しさに妹への寵愛。彼にかける言葉は彼の知る言葉でなければならない。自己満足であろうとあの死線があったからこそツルギは再びこうして異世界召喚を受けた。

実際問題ヘンゼルが最期を本当に迎えていたのかどうかすらツルギは確認出来ずに元の世界に戻されてしまった。


「何か言ったー?」


「んいや、なんも。行こう、ウァサゴが待ってる」


「うん」


 何か思い耽る少年の気持ちを察してか少女は一歩後ろを歩み寄り、これからの行動への肯定を一度頷きそれ以上を言及しない。

 ツルギが大扉を少し腕を張って押し開ける。



 † † † † † † † † † † † †



 外から入り込む薄らとした外光が何色もの硝子窓から内部に視感出来る程度照らす。一歩を踏み入れると、連絡塔の内部の壁に転々とある蝋燭のような物に朱色の灯りが灯され高い天井の奥が見えないほど暗い。幾つかの明かりが内部の集会の場を明るめ、大きな円の机、他に視感出来るものはないしいない、ウァサゴを呼び出しに行ったと思われたアリスとフンシーもこの場には姿を置いていなかった。


 ツルギが辺りの様子をきょろきょろと窺いながら足音を立てる。その彼の傍らで離れないように小さな足取りのカガミ。離れないようにしながらも触れることはない。伸ばせば届く距離を保ちながら彼女も足音を立てる。

 二人の四つの足音が静まる空気を響かせる。足元から聞こえるはずの足音は天井から、壁からと自身らの存在がどこにあるのか不明確に不規則に響いた。


 丸い大きな机の手前、かつてツルギ自身が腰を下ろした場所だ。思い出すあの日の記憶、勝手に遡られる記憶。「異世界で生きよう」そう決意し、この場所で、この席で王国へ向かう訳を聞いた。王国の非道。ヘンゼルとグレーテル、彼と彼女を思い出すと自身の非力の虚しさが胸を滲ませる。もっと明確な強者の力があれば、と悔いに苛まれる。

 そして、現在のヘンゼルとグレーテルの安否が不明なツルギにとって焦燥感が自身の非力と後悔を上書きして焼き焦がす。

 気が付けば優しく椅子の背もたれに置いていた手は強く握られ拳が出来ていた。


「誰も、いないのかなぁ……」


「……そうだな。フンシーはこっちに来たら一先ずウァサゴの所に行けって言ってたしてっきりここにいるもんだと」


 握り拳を解き腕組みに変える。状況打破が思い付くことはないが、


「次の当てはねぇけどとりあえず不気味だし外出るか」


「そうだね、薄暗くてなんか怖い」


 それだけを置き去りに二人は踵を返して入ってきた扉へ向かう。否、向かおうとした。だが返した足は踏み留まり瞳に映る光景に立ち止まる。


「……誰だ、お前」


 彼らの目の前にいつの間にか現れているシルエット。外光は弱いが内部の蝋燭の灯に比べれば多少強く、入り口に立つ何者かのシルエットだけが浮かび上がる。

 小さな背丈はカガミよりも遥かに小さく腰ほどの小人。大きめの頭に乗るシルクハット型の帽子だろうか。


 歩みを近付けると影だけのシルエットがどういった人物なのか見ることが叶った。

 木の枝の様な細すぎる脚と腕。タキシードのような服装だが小さな身体に合っていないサイズはぴっちりと張り付いている。手元には杖のような棒があり地面に突き立てている。手首に足首も見え、そこから生える首も細いが頭部は異常なほど大きい。いわゆる二頭身というやつだ。顎には雑に生える黒い髭が伸び散らかり肌に張りはなく老人と言っても過言ではない。やつれた顔の双眸は生気が薄く隈が酷く、その間の鼻は異常なほどに低く元の世界でいう魔女の老婆の様にも見える。そして、大きな頭部に乗る大きな白色のシルクハット。


「――ツルギ?」


「……ああ、そうだけどお前はいったい。っておい!」


 一つ頷くと小人の彼は異言語を叫びながら杖を大振りに回して踵を俊敏に返す。外へその小さな足取りを素早く向かわせた。


「コメオノ!」


「……おいおいおい! お前急になんなんだよ!」


 連絡塔から出ると姿を右側に機敏に身を曲げて消える。その彼を追うようにカガミが小走りで扉に向かった。


「叫んでる場合じゃないよ。あの人多分だけど、帽子屋さんじゃないのー?」


「ぼうしや?」


「うん。アリスちゃんが『不思議の国のアリス』のアリスならその作品に出る帽子屋さんも居てもおかしくない、でしょ?」


「確かに」


 顎に手を当て床に視線を落として考え込む。アリスは集会の時長方形の紙を取り出し何かを呟いた。それにあの日の朝、肌寒い吹き抜け小屋の吹き抜け部に壁としてツルギの温度の低下を緩和させたトランプの兵だろう。それら二つを考えても、『不思議の国のアリスの』作中登場人物は少なからず一度はツルギの前に姿を現した。実際アリスが善意として行為に至ったとは到底思えない彼女の日頃の行いだが、


「とにかく今は帽子屋を追うか」



 † † † † † † † † † † † †



 小さな歩幅の足取りはツルギたちの足取りと同じくらいの速度で細かく素早く歩む。持っている杖は地面を突くことはあまりせず大振りにくるくると回す。上機嫌なのか足取りはたまに跳ね上がったり下手くそなスキップを試みたりしている。

 そんな彼が一つの建物の前で小さな足を揃えて大きな頭を細かく上下に左右に動かしまくる。建物はアリスメル村で主流の石を積んで立てられたもの。中世のレンガ造りの家ともいえる。古く見える建物は時間の経過を思わせる。建物の維持として元いた世界での一昔前のまだ不自由が溢れていた頃と同様だと思える、石壁の地面付近は若干の苔が張られている。扉は何年も前に設けられたと見える木製の扉で木目が割れかけ腐りかけ、十分育ったものが殴れば木屑に変えれるだろう。


 視線を行き渡せて家の趣きを見ていれば帽子屋は先刻までくるくると回していた杖を扉に突き立てて、高速にノックを連打する。トトトトトトトトン。それと同時に彼は何を思ったのか高めの音域で笑い出す。


「ヒッヒッヒヒヒイッヒッヒィー。ヒヒヒッヒィーヒヒッヒィヒィッヒィイヒッ」


 それは暗号なのか、異世界の言葉なのか明確には分からないだが一つ言えることは、その行いが扉を開かした。

 扉が歪な音を立ててゆったり開くと帽子屋は笑うことも叩くことも止め、その身を扉の端に移動させて地面に杖を立てると片手を中へ広げる。まるで客人を招待するように。


「んじゃ、お言葉ってか行為に甘えて、失礼します」


「し、失礼、しますぅ……」


 帽子屋の横を通り過ぎた瞬間。彼は歪んだ双眸をぎらつかせ大きな口を歪に歪ませて一笑した。


「イヒッ」


 元の世界でも帽子屋は『狂った帽子屋』で名が広く通っていた。ツルギもカガミもそれ以外に強い印象はなく、現世で語り継がれる『不思議の国のアリス』でも彼は奇人としてのキャラクターであった。実際の彼が常人であろうともツルギもカガミも目の前の奇人を常人とは到底思えることは出来ない。


「狂ってやがる」


 その一言は通じることはない。ないはずだが、ツルギがそう吐き捨てると歪んだ笑みを浮かべた帽子屋はすっと口元を大きなへの字に曲げてシルクハットの先で双眸を隠した。

 そんな彼はさておき、内部に視線を送る。暗い部屋は扉から侵入する外光で手前まで容易く把握出来る。

 木製の床はひび割れ、埃が宙を優雅に舞っている。玄関のすぐ先にあるのは古びた机が一つと手前に置かれた古びた椅子が二つ。外装と内装は数十年は時間経過を思わせる。


 二歩進めれば椅子の背もたれに触れることが出来た。古びた椅子は座れば折れてしまいそうで、椅子を引いたとしても欠けてしまいそうに脆く見える。

 傍らに歩み寄ったカガミが「あ」と声を漏らす。それは眼前に居座る者に対して、居るとも思えなかった気配に対して、自然と喉から吐かれたのだ。窓から薄らと星々の明かりが侵入してその眼前に居る者の姿を確立させる。


 古惚けたローブを頭まですっぽりと被る者。ぶつぶつと異言語なのか分からない声を漏らす者。話したことはない、だがあの場になぜか居座っていた老婆。


 そして、ウァサゴを目の前にしてツルギは遂に戻ってきた安堵とこれからの未来への不安が喉を急激に乾かせて声を絞ろうとするが息すらも自在に吐き出せない。


 ぶつぶつとツルギたちに届かない声を出すウァサゴ。彼女に向かって恐れはない。だから声を絞り出す。


「――――あなたが、ウァサゴさん?」


 絞り出すことは出来なかった。喉の乾きは静寂を強制的に選択させようと体が勝手に選ぼうとした。だが、ツルギの代わりにこの場を訪れたもう一人が日本語で尋ねた。震え気味な声はこの場の雰囲気の重圧とウァサゴという老婆の異質感がそうさせてしまったのだろう。手元に視線を落としていたツルギは気付いた。彼女の細い腕から生える手先が握り拳を作って何かを抑制しようと圧迫させていた。カガミの手も声も震える。だが彼女は奮い立たせてツルギの代わりに異質に立ち向かった。


「……守るとか言っときながら、今更なにびびってんだろうな」


 口の中、喉の先、自身にも届くか怪しい言葉を跳ねさせる。カガミは聞こえない言葉に鼓膜が震えたことで気が付く。


「なにか言ったー?」


「んや、なんでもねぇよ。ただ、そうだな。言ったとしたら。……ばあさん、聞こえるか!」


 ぶつぶつと独り言を独りだけに聞こえるように口から漏らしていた老婆は独り言を続ける。

 老婆に、帽子屋に、異世界に、きっと聞いている精霊と退屈少女に、隣の少女に、自分自身に、叫ぶ。


「――ユウシャ・ツルギが帰った! 言葉をよこせババア!」


 静かなアリスメル村に、暗い夜空に、入り口の帽子屋に、傍らの少女に、響く。


 老婆は、ぶつぶつとした独り言を止めて数秒を置いて口を開き息をすっと吸い込む。


「――――戯け小僧ッ!」




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