第二章8話 『守れない約束』

 空気は震動せずに風もなくただ異世界へ向けた扉越しの太陽の光が背中を射す。扉に妨げられている熱は余熱か潜熱か熱がそっと擦ってくる。

 眼前の少女の体を纏う翠色は太陽光を微かに受けて濃い部分と薄い部分が乱雑に踊る。瞳を閉じてから、少女が眠るように柱に身を預けてから数秒。少女の纏っていた翠色はゆったりとした動きで少女から一縷も残さず離れて少年のまさに眼前に集束して球体の実態を作り上げた。

 艶のある丸みは水晶の表面の様に。薄い緑色は自然と安らぎを覚える深緑の如く。二つの豆の様な瞳と指の爪程にしかない口は表情豊かに変幻自在。瞳は糸の様に細くもなりえ、口は人の頭を丸呑み出来る程広がる。

 その精霊の実体を懐かしく思い耽て彼に通じるはずのない言葉と、彼に通じさせるための笑みを白い歯を見せながら溢しす。


「相変わらずまるっこいな」


 通じるはずのない言葉が精霊に届き、精霊も彼に通じない言葉と通じさせるための笑みで表情を柔らかく曲げる。


「なんだろう。君は無礼な発言をしているとボクの直観が教えてくれるよ。ボクに対して罰当たりな君への粛正は陰日向の地へ向かってからになるのが悔やまれるよ。後悔とはこういうことを言うのかな。非常に残念だよ」


 ぶつぶつと淡々と奇怪な言語を放つ精霊に対して崩さない笑みを白い歯を引っ込めて鼻息を一つ捨てて、


「改めてよろしくなフンシー。じゃ、行くか」


「よろしくされてあげるよツルギ。行こうか」


 一人と一霊は言語が通じない二人は、通じていない彼らは互いを信じ信じられ言葉の壁を壁と思わず見合うと、少年は踵を返して異世界へ通じる暗黒の扉に足を向かわせていると、その背後から翠色の精霊が宙を漂いながら追い抜きゆらりと先に扉の向こうの暗黒に身を投げ出してくるりと球体を器用に反転するとまじまじと少年の方向を見つめる。


「焦んなって。今、行くから――」


「待って!」


「さ?」


 割り込まれた声高で一拍遅れて言葉を繋げた。その割り込んだ声の正体は、甲高い音域の可愛らしい声。いつもののんびりとした特徴的特徴がなくなり焦燥感が露わになっている。

 進めた歩幅が停止して瞳は精霊に、焦点は背後の声の正体に向かう。


「どうして……」


 瞬間的な大声によって背後の者は吐息を立てる。彼女の焦燥感も彼の焦燥感も互いに互いの行動で発言で焦がし合い、彼は首を横へ向けて横目で背後の少女を視界に入れる。現実を目の当たりにする。


「なんでカガミが起きてんだ……」


 少年の疑問は吐き出すとその場で空気に溶け去り少女にも精霊にも聞かれずに自身の焦りを急かすだけになる。

 少女は胸元に握り拳を当てて動悸を抑えようと抑制させるために深呼吸をして今度はいつもの口調で繰り返す。


「やっぱり、待って」


「…………」


 別れは告げた。再開の約束を交わせた。だから躊躇もない。後悔もない。故に踵は返さず言葉も返さず握り拳を締める。爪が掌にめり込む痛覚が生じるがそれよりも堪える痛みが大きかった。だから足を一歩大きく踏み出す。


「またねって、そう言ったけど!」


 普段の口調の彼女はやはりなく焦燥感が胸を口を焦がしているのが分かった。だから少年は足を止められない。


「そう言ったけど! でも多分またねは来なくて、その約束は守れないから!」


 扉の二歩手前で足は止まる。俯く少年には地面が映っているのか分からない。


「守れない約束するのは嫌だから、だから今ツルギとお別れは一生だから嫌だから! わたしはっ!」


 支離滅裂の前後の繋がらない少女の震える声を掻き消すように塗り潰すように少年は重い口を開かせて声を震わせる。


「俺は一生会えないなんて思わないしそんなことにしないって。それにいつか、いつか戻ってくるから。そしたら俺の異世界での話いっぱい聞かせてやるよ。だからカガミもこっちの世界の話いっぱい聞かせてくれよ。そんでもってカガミも好きだろ、ラノベ。ラノベ作家になるのもいいし、ゲームのシナリオライターでもいけそうじゃん。俺とカガミ、俺は異世界、カガミはこっちの世界でさ。俺さ、この数日で学校のこと大分興味津々だしこっちに戻るの少し遅れるかもだから社会とか未知の世界のことも話してくれよ。どんな人がいて、どんな仕事して、成功して失敗して、ほら、楽しい趣味とかも出来るだろうしさ。そうゆうの全部戻ってきた時に語っても語り尽くせないくらい語り合おうぜ。俺もあっちの世界のこといっぱい話す。どんな人がいてどんなことがあって、異世界の良さとこっちの世界の良さ見つけ合おうぜ。だから、絶対に、戻ってくるから……」


 虚勢虚飾虚言。どれもこれも信実だが真実ではない。確信も確証もない。あちらにはあちらの脅威が存在する。姿を脳裏に過ぎらせるだけで身震いで脚が折れそうになる。だが、その脅威のある異世界で生き延び戻ると決めた。ただそれだけの決意が震えを止めて足を立たせた。


「そんなの……どうでもいい、ってわけじゃない……ツルギに話すために生きる。未来のために、それなら頑張れる」


「なら」


「でも、そうじゃない。違うの……そうじゃなくて……私は……」


 掠れ声は涙が溢れるのを堪えるように力みつつも弱く儚く吐息のように零れ落ちる。

 少女は小さな小さな歩幅で背を向けさせ続ける少年に向かって左右にふらつきながら歩み寄って、


「……わたしは、つるぎをまつよりも、つるぎといっしょに、いきたい、から」


 踵を返せば衝突してしまう程に近い距離からの弱弱しい声。何に堪えているのか分からない。だが、めり込み続ける爪の痛みはツルギの感覚に作用せずに、さらに下唇を噛む。


「私も、異世界に行く」


 別れを交わした後、彼女は彼女の中で何を見て何を思って考えて決心したのか。きっとそれは妥協といった可能性を押し止める思想がなくなったからだ。

 ツルギは一度目異世界に行き異世界で死ぬ。それでいい。この世界から存在が消えるのならそれで構わない。そう思い自身の感情を押し止め自分で作った限界の妥協点でいいと思った。だが、その妥協点の先、限界を超えた先にも行けるのなら行ってやると決意した。カガミの決心はその決意と同様だ。

 だが、


「それはできねぇ」


「なんで、私に力がないから、足手まといだから?」


「ちげぇ。俺にも力ねぇしそんなことじゃねぇ」


 正直、こちらの自衛隊などの武装集団でも無限治癒には核兵器レベルでなければ難しいだろう。七つの大罪の一つである暴食が存在を喰らうなら他の六つはそれに準ずる力を擁しているだろう。


「じゃあ、どうして?」


「言ったろ。こっち戻ってきてラノベ作家になってさ」


「そんなことじゃないことくらい分かってる」


 覇気のある張った声は今までの抜けたものとは違い真実を求める。ゆっくりと踵を返すと眼前にあるのは、


「……どうして、一緒に行っちゃだめなの……」


 双眸に大粒の雫を溜め込んで溢さないように上を向き上げる少女。頬と目尻は赤くなっている。

 彼女の涙。

 矢田野鏡は感動屋であり情緒豊かに感情のまま傷付き喜び悲しみ苦しみ、様々に対して愛を持って慈しみ涙を零した。その彼女が今は感情に反して抗い瞳に大粒を溜め零れ落とさまいとする。その彼女に対する虚飾は彼女の意志への冒涜ですらある。故に偽る虚勢を止める。


「……あっちに行けば危険がある。それは俺にはどうしようも出来ないと思う。頑張っても頑張っても助けたくても助けられない。あっちは、異世界は危険なんだ!」


 ツルギの知った異世界。ライトノベルでありがちな召喚された主人公無敵チートハーレムなんかないただの残酷な世界。空想のおとぎ話に心躍らせる彼女はきっと、ツルギの向かう異世界を知れば絶望し悲しみ後悔するはずだ。

 ツルギは大振りで背に待つ異世界への扉に向けて手を広げ翳し視線を投げる。

 扉は先刻の半分ほどまで狭まり視感で分かる低速度でさらに狭くなっていく。その先の精霊はただ優しく無表情でもなく悲しむでもなく焦燥ない冷静でその扉が閉じ切るのを待っているように思えた。それ故にツルギ自身への焦燥感が焼かれる。


「すごい苦しいことも悲しいこともある。残酷で残虐で……俺はカガミに泣いてほしくない」


 彼女は言葉の続きを待つように口を噤みへの字にして感情を堪える。ツルギは一心の想いを地面に向かって溢す。


「……笑顔で生きていてほしいんだ」


「そんなこと」


 視界に入る彼女の両手が握り拳が今までよりも力が入り震え出す。


「そんなこと出来るわけないじゃん!」


 地団駄を一度踏み両手を少し上げて伸ばし、大粒の滴が地面を濡らした。

 顔を上げて見れば眼前にあるのは頬を伝わせて大粒を流し続ける少女の泣き顔だ。その感情は憤怒。涙袋は震え溜めた雫が崩壊したダムの様に流れ続ける。茶色がかった双眸が潤いと激怒を混ぜ合わせツルギを睨み付けた。


「そんなこと、ツルギがいないのに笑顔でなんてむり、だよぉ……」


 憤怒を露わにした彼女は一変して悲壮に呑まれる。


「……私は、私の選択を、なのに、いや……」


 感情が口先から溢れ出す。瞳から涙が流れ狂う。拭う手は塞き止められていたダムの崩壊に追いつかず、拭った先から零れてしまう。

 選択。ツルギも選んだ選択。その選択によって諦めた妥協したこちらの世界を諦めないと決意した。その選択を提示させ、強制しなかった者へ視線を送る。


 暗黒の空間に翠色の丸を漂わせる精霊は表情を先刻から変えずに言葉を発することなくそこにいる。その手前の扉は確実に閉扉を刻々と縮める。故に精霊の言おう言葉が想像出来る。


『君の選ぶ選択を止めもしないし否定もしないよ。だから最後の選択だ。日向の地に残るか、陰日向の地に行くか』


 閉扉する扉は人一人通れるほどしか開いていない。時間はない。考え続ければ強制的にこちらに残ることになる。フンシーの言い分からすればツルギとカガミの記憶から異世界のことはなくなるだろう。その選択は残酷でなく限りなく危険はなく、カガミの望むであろう「ツルギがいないのに」の条件をクリアする。今のツルギがそれを選ぶか、制限時間になれば不幸になる者はこの世界にはいない。学校へ行けば新たに出来た友人がいる。教師も今までと違っている気がした。親への恩もいずれ必ず返すことが叶う。



 だが、



「んなのらしくねぇよな。なあ、カガミ」


 泣きじゃくる少女は目を丸く疑問符を浮かべて、頬と目尻を赤くし目元も頬も顎までも涙で濡らして、拭う行為を停止させると大粒がぽたぽたと地面に落ちる。


「飯は薄味で素材そのものって感じだ」


 シンシア宅で御馳走になったスープはまさしく素材の味を生かしたものだ。旨いことは旨いが日本の味に慣れた舌では苦みが強い。


「洗濯機とかねぇから洗濯とか大変かもしれねぇ」


 アリスメル村に限って言えば電気機類はもちろん存在が見られなかった。まさしく異世界と言った世界。王国や富みある村では可能性として暮らしに楽な道具はあるとは思えるが。


「飲み水もこっちみたいな水道はあるけど浄水は怪しいもんだ」


 シンシア宅で調理をしてもらった時に視界に入ったものは水道があり、竃もありその辺りは不便は見える場面はなかった。

 そして、なにより、


「それにあっちはまじであぶねぇ」


 森には魔物や魔獣がいるだろう。そして最悪な危機、王国の刺客。


「守れるかどうかつったら難しい。ぶっちゃけ俺は守ってもらった立場だ。だから、救えるか分からねぇ。でも、だけど」


 彼女の握り拳を右手でわし掴みにする。反応が盛大に接触部分から痒みになって駆け巡る。脳が揺れる感覚を覚える。脳回路が思考に追い付かない。立ち眩みで今にも膝を付けて座りたい衝動が蒸せる。


「守れない約束になるかもしれねぇけど、必死に守るから。カガミのこと守るから!」


 彼女の空いた手の人差し指がすっとツルギの口元に差し出され必死に訴えかけたツルギは勢いで指先に口先が軽く衝突して、充血した双眸を丸くしてカガミを見入る。


「分かったよ。もうもうそんな必死に言わなくても元から守ってもらうつもりだし、何より――」


 動作の自由のある左手を握られる手にそっとかけて下ろし、


「こうしてツルギが苦痛よりも優先してくれるの分かったから。だから私もどんな苦痛よりもどんな苦難よりも、どんな幸せよりも、あなたを優先したい」


 重なった手は徐々に離れていき相手の温もりを惜しむように愛しみながら指先が離れて互いに自由を与えた。だがお互いその温もりを感じていたいのか空気に触れる手は未だに触れ続けているようにそこに留まり続ける。


「だから、こんなわがままな私ですがついて行ってもいいですか?」


 潤ませる清水が表面で踊り瞳を輝かせて一滴が双眸か頬を伝った。


 自由になった手を再び奪い無理矢理に強引に強制的に、だが優しく彼女を連れ出す。平和な地球の日本という国から、残酷に冷酷に無慈悲な異世界へ、ツルギがかつて異世界召喚された御伽世界へ。


 ツルギとカガミが異世界への扉に吸い込まれるように入り込んだ刹那に扉は閉ざされ、そこには今まで通りの園庭と後光の光と小鳥の囀りの木霊と中年男性の姿があった。

 男性はへの字に曲がっていた口元を緩ませ笑みを独り浮かべると独り言を呟いた。


「死ぬんじゃねぇぞバカ息子」


 満足気に笑みを作った男性の頬に一筋の滴の跡が出来、その滴が落ちることなく拭われたのはいずれのこの世界に知る者はいない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る