第一章22話『お前のことは忘れない』
黄金色の月光が漆黒を照らす。森にぽっかりと空いた空間。
月光がそれぞれを露見させる。一人は知らぬ狂気に震えることも出来ない白い袴を纏った少年、一人は知る狂気に震えるより先に憤怒を露わにする漆黒に溶けやすい濃い青紫色の服装の青年、一人は黒よりも深い黒色の髪を長くし、顎を上げて彼らを見下しこれから絶望を執行する宣言を行った艶のある白い正装の男。
絶望の知らせにツルギは唖然と身を構えることさえ出来ず地面へ着いた腰が離せない。角膜は広がり狭まりを繰り返し焦点が真面になることもしない。
ヘンゼルが負傷した左耳を押さえ、先刻同様に治癒を促す。月光色が瞬くその手が覆い隠し数秒足らずで月光色は瞬くことを止める。
「ヘンゼル……。治癒、か?」
その事実に彼も彼も再び絶望を味わう。味わった青年は狂気を睨み付け、味わうことになる少年は地面を押し返そうとしていた腕と肩の力が無くなっていき、味わわした男が祝福していた月を狂気に変えて長い髪から覗かせ口角を上げて口元を微かに曲げる。
ヘンゼルの下ろした手の残した負傷した箇所は負傷の原形をとどめていた。すなわち、
「……治癒しない」
「それって……」
「ああ、やつの仕業だ」
弱弱しく息を漏らすように言葉を吐く。血走る瞳は男を捉え続け少年を視界に入れないように必死に一心に睨み続ける。額から頬に伝う雫が滴となって地面を濡らし始める。
激痛を叫ぶことはしない。だが、犬だった彼が肩を負傷した先刻。彼はうなだれ力なく言葉を吐いていた。その姿を目の当たりにしたから言える。その時も今回も彼を襲う激痛は非常で異常なまでだろう。
そしてもう一つ言える。今の彼が少年を視界に入れないように必死になることは彼があの時の狂犬の状態と化しそうとなっている、と。
「血、飲めばなんとか」
「いや、ならないな。魔道封じなのだろう。この状況を打破する方法は一つ」
「あいつを倒す」
ヘンゼルに向けていた視線を男、エドアルト王国第一公爵に移して柄を握り締め、そのまま折れていたいと言い続ける膝を力いっぱい押し上げて地面から腰を離脱させ立ち上がる。
「馬鹿にしては理解が速いな。では、ぼくが狂犬になる前に」
「ちんたらしてらんねぇ」
「ぶっ飛ばす!」「ぶっ殺す!」
「ちょいとヘンゼルさん口悪いっす」
「戯言はいい。いくぞ」
先陣を切ってヘンゼルは飛び出し後を追うようにツルギも続く。
口角を上げた男が凛とした背筋を伸ばしたまま、
「作戦会議は終わったか?」
ヘンゼルは狂犬だった頃の猪突猛進の闘い方と変わり、落ち着きのある無念無想の境地で爪の鋭くない手で鋭利に標的を霞める。一撃一撃を鮮麗し確実に標的の場所を仕留める。右手が過ぎて左手が過ぎ、勢いを殺さず左足を標的に横断させる。
屈み込んだヘンゼルから露わにするツルギの一閃。銀白に一筋の光が横断する。
素早い劇戦によって男はその身を押し返され足が地面を這うように砂煙を立てながら地面を抉る。男は「なんだ」とただ呟くだけで反撃を返すこともしない。その隙にツルギは両手で柄をさらに握り締めて男に数度振り下ろして振り上げる。
激しく強く振り下ろす一撃に全体重をかけると月光は背に当たるだけになる。その上をヘンゼルが背を合わして男に回転させた身を捩り踵を頭上から垂直に落とす。
踵は振り下ろし切る前に停止させられ軽々と弾き返されてヘンゼルは数メートル後退してしまう。
その隙を見出したツルギを見下す黒く黒い黒だけの双眸が輝かずあり、口角が上がっていた口元はへの字に折れて退屈そうに口を開く。
「殺す気はないのか――」
その言葉にツルギは刹那に気が付く。自身の向けていた刃が刃ではなく棟で放たれていたことに気付く。
彼は敵だ。だが偏に人間だ。平凡な平穏な平和を過ごしていた。故に死闘することが出来ない。敵である相手の命を奪うことがどれだけの罪悪感に苛まれるか分からない。怖かった。自分が人を、生き物の生を絶たせる行為が。殺気を出し殺さずいればヘンゼルが仕留める。
そのことに気付いた時彼はもう刀を振ることが出来なくなる。
ヘンゼルが息の根を絶たせれば、自分は命を奪う罪悪感を背負うことなく共闘したと賛美される。なんとも醜い生き物だろう。誰かに罪を背負わせ、自分は賛美される。
合理的な生き方。だがその無意識を意識させられ、もう彼の双眸に闘志はない。力が抜けそうになる。手から刀が零れそうになる。指が緩み空気に晒されそうになる。だがその停止しかける思考を呼び覚ます怒声。
「――おい、人間。離れろ!」
ヘンゼルは身を屈ませ体勢を低く保つ。身を纏う半透明の紫色はオーラのように見える。灰色の双眸が男を睨み、その瞳にまだ闘志は宿っている。まだ彼は諦めもしないし背負わせることもしない。本気で先刻の言葉を実現させようとする。
その言葉に対してツルギのとった選択は離れる。ではない。柄を再び握り締め眼前の敵に刃向かわせる。その選択を選ぶ。
離れろ。その言葉が意味するのは的確な一撃でない範囲攻撃。つまりヘンゼルの命令通り戦線離脱が選択としては正しいだろう。
だが彼は刃の逆側、棟部を振り回しその無作為な一閃一閃に男も立ち往生し続けるしかない。
「……馬鹿か、離れろ!」
「バカはてめぇだ。いいからさっさとしやがれ!」
「……ふっ、どうなろうと知らないからな」
ヘンゼルの纏われるオーラのように見える魔力は濃さを増していく。範囲を拡大していく。
防戦一方の男が涼しげな表情のまま口を開く。
「それでもなお、我を通す、か。甘い。甘すぎるな異邦人。殺意がなければ助かるとでも?」
ツルギは刀の棟部を振り回し続けながら、
「それはだいぶ違うぜ。命乞いなんかしねぇ。俺はただ――」
――俺は周囲からの見られ方とか気にしていつも非道は避けた。今回も同じくそうだ。だから、こいつに刃を向けることに躊躇いがある。人殺しは、悪だ。絶対悪でないにしても相手の生を絶たせることはいいことではない。だから俺は刃を向けられない。でも、
「――信じてるだけだ」
彼と死線の境界を彷徨い、彼の本能に抗う精神が語った、彼の罪に歯向う瞳が訴えた。
だから信じる。彼の気持ちを。
背筋が凍る程に冷える感覚を覚え身震いが止まらなくなりそうな程の憎悪が背後から迫りくる。
「暴食の担い手として行使する。――暴食の一噛み――」
ヘンゼルの纏った魔力はその一声によって具現化する。紫の魔力は刹那に標的と戦友目掛けて大きな犬の首から上に化ける。それは大きく口を開き、地面を微かに抉りながら這い寄る。
――まだだ。
「大罪の行使か。強欲しか見たことはないからな、実際に拝めるとは、殺しに来た理がある」
ツルギの存在を置いてその先に荒ぶる犬に視線を釘付けにする男。そして、
「――よそ見してんじゃねぇよ」
「――ッ!」
地面が崩壊するような轟音が背後から近付く。それは無音で消失した地面が空いた空間に落ちる地の音。紫の犬の跡筋はぽっかりとなくなる。
その狂気の殺気が今は心地良い。何も恐れることなくツルギは刃を男の頬に斬りつける。そこからは血が溢れることはない。掠る程に紙一重だったのか。だが頬に縦に付いた傷は深く見える。
男はその傷跡に見えないが視線を送り他に注意が散漫する。
「よくも、……」
眼前に居たはずの彼が消え去っていて呆然としていれば男の視界は紫色で覆われ、存在すらその一噛みが覆い隠す。
音もなく覆われ、少しの余韻を浸った犬が空気に押し寄せられるように溶けて消える。魔力が残り犬の居た空間はぼやけはっきりと見ることは出来ない。
「……ツルギ」
ヘンゼルは今にも崩れそうになる体勢でぽつりと彼の名を呟いた。黄金色を放ち空から見下ろす月を眺め、
「暴食の糧になったか。お前のことは忘れない。今日くらいは」
無慈悲なその言葉が吐かれたその時、朧だった魔力の残りが完全に空気に溶け去り、
「――今日くらいかよ! せっかくだから死ぬまでとかにしとけって」
朧だった奥に尻餅をついて目をぎゅっと締めたツルギの生き生きとした姿がある。ヘンゼルが笑みを溢しながら視線を送り、
「……まあ、そうしといてやる」
「おうそうだ。主悪の根源に果敢に挑んだ人間として讃えとけ」
その接戦後の一幕を目の当たりにしてアテラもグレーテルも胸を撫で下ろし、
「……ほんと、よかった。お兄さんも無事そうで何より、ね」
その祝福と安堵にグレーテルは頷き息を漏らし、アテラは双方の活躍をすぐにも近くで称賛するために一歩を踏み出す。
否、踏み出そうとした。だが見えない壁は未だ顕在していた。それが意味することは当事者にしか分かり得ない。
力一杯にそこを叩き叩き叩く。叫んでは喉と声が震える。
「――ツルギ、まだ終わってない!」
その声は微塵も届かない。反響するだけの声が叫びがもどかしい。壁から返ってくる震えた叫びが胸を締め付ける。
顔が表情が歪むアテラにグレーテルはぽつりと尋ねる。
「アテラさん。あの人は、きっと。いいえ、絶対大丈夫」
その言葉が意味するのは一般的には安否だ。だがアテラにしか分からないはずの意味が一つあった。アテラは恐る恐るグレーテルへ視線を返して、グレーテルはそれ以上何も口にせずに、アテラは下唇を少し噛み細い手を握り締めて躊躇っているようにそこに立つ。そして、踵を返して見えない壁に掌をそっと付ける。
「……そうよね。ツルギだものね。知りたくない現実に必死に向き合って」
掌が薄らと赤く湯気を漏らす。
「危ないって分かってるはずなのに、ここまで来ちゃって」
赤い湯気ははっきりと掌を覆う魔力になり、
「怖い思いしたはずなのに、あなたたちに優しく笑顔を送って」
赤毛がふわりと重力に逆らって、瞼を力なく閉じて、
「あなた、グレーテルの言う通り。大丈夫、よね」
瞼をカッと開き、掌に神経を集中させてその先の壁に放つ。
温かいその光が見えない壁にゼロ距離で衝突しそこを震源とした波紋が広がっていく。幾つもの波紋は波のように、嵐のようになる。だが歪むことさえせずに割れることもなくそれは存在し続ける。
「――なんで、堅すぎる」
その状況を露知らず、笑顔に包まれた彼らはどちらも気付きはしなかった。厳密には気付いた時には遅かった。
暴食の担い手、ヘンゼルの左胸に刹那に灯った赤き点。絶望の終点が灯って、消えた。
「――ヘンゼルぅぅぅううッ!」
それが意味したのは王国第一公爵の攻撃と思える殻龍の息吹。それさえも平和呆けしたツルギには分からず思考が固まり停止していく。唖然呆然の彼の傍らに一つの黒いモノがひらひらとゆったり舞い降りる。
驚愕と絶望を目の当たりにしたツルギはそれを手に取るが声が出ることはない。
――黒い、羽。
月光を一本一本が反射させて艶やかに視線の裏側に届く。そして、一枚、また一枚と舞ってくる黒い羽を辿るように合わない焦点を必死に合わせてその先へ送る。
焦点は羽や森、その先の暗い空に移っては移り、羽を舞わせる存在を視界に入れた。
月光を背で受けシルエットを浮かばせるそれはまるで天使で、月光が色を誘われればまるで悪魔で、そこに浮遊している。その男が凛然としたまま、
「暴食の犬。実に頑張った。だが本能のままのお前は野良犬同然。故に死をもって大罪の担い手を私に譲渡するがいい」
漆黒の羽を一度羽ばたかせ黒い羽をまき散らし舞わせる。次に漆黒の双眸を腰の上がることも出来ない少年に移して、
「お前は普通の人間だ。だがそれ故、預言に挙がったのだろうな、クサナギ・ツルギ」
徐々に降下する漆黒の羽を生やした男に双眸を奪われている少年の身震いは止まらない。手足指先さえ微動だに出来ない少年の絶望を目の当たりにした渇いた双眸から雫が溢れ出し頬を伝って袴を濡らしていく。
その時、何かが割れる音が響いた。
† † † † † † † † † † † †
グレーテルは泣いた。絶叫して泣いた。力なく膝が折れ地面に吸い寄せられた。震える指先、掌が遠い遠い彼に死物狂いで届こうと伸びて、掴もうと開いて閉じて、
「兄さん、にいさん、にいさんにいさんにいさん、いや、いや嫌イヤイヤいや、ヒトリにしないでにいさんい、いや、だよにいさん」
「大丈夫。お兄さんは大丈夫」
瞳を潤しきって頬を水浸しにして口元から唾液を溢して声にならない音を漏らす。
その彼女の口元、頬、眼。を濡らした液を自身のローブで拭って、
「だって、強いでしょ。あなたのお兄さん」
グレーテルの灰色の双眸はアテラの真紅の双眸を右左と何度か泳いでは、頷く。真紅の双眸が一心に彼女に契る。
「あと、私。本気の本気出すから」
アテラは白いローブの接地面の止め具を解き、グレーテルへ被わせては止め具を留め、立ち上がって長い赤毛を振ると刹那に全身を温かい赤い魔力が包み、
「……よいですの?」
その問いに頬を柔らかくして口角を上げ笑みで返す。
そして、瞬間的に赤い魔力が球体に変形し、内側の様子が外から窺えず、その瞬間の後。魔力の中に存在している彼女は変わる。
白い短めだったスカートは膝程に変わり、スマートだった上着も余裕のある布地になり、素朴だった無地に近かった柄は増え赤色と金色で白地を可憐に飾っている。
ゆったりと掌を翳すと力が微塵も込められていないように見えた。だが、見えない壁は音を弾かせて割れて消える。
そして、少年と羽の生えた男が眼前に対峙しかけたその時彼女は叫ぼうと空気を肺一杯に吸う。そして、停まる。少年が呟いたのだ。その声が届いてしまった。アテラの耳に、鼓膜を通して脳に伝わって胸がきりきりと痛む。そして、踏み出した一歩がそれ以上進めず吸い込んだ空気がそっと吐き出される。
「――ばけもの――」
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