第一章23話『愛しているよ』

 彼は極々普通の人間。彼は平和な世界で過ごした人間。彼は背伸びをして生きる人間。彼は何の異能もない人間。彼は本音を建前で隠した人間。彼はその建前でさえ自身に対する偽りと分かり得ない人間。


 そんな彼の本音の本心が塞き止められていたモノが外れたように、ダムが崩壊するように、双眸から滝を流して、口元から溢れ出す。


「なんで俺なんだ。なんでこんなことになったんだ。どうしてこうなったんだ。どうしてどうして……」


 崩れた彼自身に歩み寄ることも出来ない彼女はその光景を潤んでしまった瞳に映すだけ、それでも彼女は必死に葛藤して渇いた喉から声を振り絞る。


「……ツ、ルギ……」


 彼の元へ届かない言葉の断片は彼女自身しっかりと発言出来ているのか確信が持てない。

 頬を顎を瞳も彼は涎に鼻から溢れる体液に顔面を濡らして、焦点が合わない、合わせようともしない双眸は朧に輝きはなく森と空の境界線を映す。だらけた腕に手先は闘志が凍死したように微動だにせず、


「なんでなんでおれが、どうしてなんで、……」


 止まらない疑問が半永久的に続く中、眼前に降り立った黒い羽を生やした男が左右に顔を動かし、黒い髪を揺らめかせて、


「壊れてしまったか。非常に残念に思うよ。あそこの女性、いや今は――」


 朱色の閃光がツルギと男の間に割り込んでその言葉を途切れさせる。アテラは無我夢中に両手を握り拳にすると、周囲を赤い魔力の渦が纏う。

 男は一歩後退して笑みを浮かべ、少年はその煌きを追うことすらせずに一人呟き嘆き続ける。


「――おっと、今回は非常に残念に本当に思うよ。クサナギ・ツルギ。お前に死を与えることが出来ないようだ」


 足を地面から少し浮かせて背中から生えた羽が自身を包み覆い隠して、微かにその隙間から覗かせる瞳が訴える。


「だが次はきっと。まあ、今回はヘンゼル。お前の命を絶やせた。お前を引き換えに暴食の担い手は次の候補者に譲渡される可能性があることだろう。この――」


 アテラは躊躇い続けた足をようやく動かすことが出来た。それはきっと彼の安否のためでありそれは自分のためでもあるのだろう。

 覆い隠した羽が黒い卵のようになり、徐々にその大きさを縮め半分ほどになった瞬間、それは黒い鳥に変貌し月夜の月光に向けて言葉を置いて飛び去っていく。


「――モモタ・ロウ・ウラシマが次の担い手になるだろう」


「待って!」


 アテラは手を伸ばした。遠く高く羽ばたいたモモタと名乗った鳥に向けて掴もうと伸ばす。すると手の辺りの何もない空間から黄金色に煌く縄が一本空に向かって伸びる。

 それは生きていると錯覚してしまう程に自由に自在に空気、重力、追い風の抵抗を一つと受けず距離を縮めていく。僅かとなったその寸前、黒鳥は身体を捻り回避して失速して縄はその跡を追う。

 失速して加速して羽ばたき優雅に夜空を舞い踊る。縄と共に踊り戯れるように、


 やがて何度と重なった縄の間を潜り抜け加速し切った黒鳥はさらに高く羽ばたく。縄も追う。だが何重にも絡まったこぶが距離をさらに開かして根元から空気に溶けるように黄金の光を煌かせて消えていく。夜空の下、地面の森の上空に一筋の輝きを撒いて完全に空気に同化した頃には黒鳥は姿を遠くの果てに眩ました。


 悲壮な表情を浮かばせるアテラはもう視感することが出来なくなった黒鳥も名残り惜しみ、背中に当たる視線を送る少年にその姿を見せるのを躊躇いつつも踵を返す。


 少年は泣いている。瞳から滝のように涙を零して力なくそこに座り込んでいる。

 何を話したらいいのか、少年は分かってくれるのか分からない。でも言わなければいけない。真実を教えなければならない。だから、少年と同じ目線にしゃがみ込んで、


「ツルギ、聞いて。私ね、私……」


 滴を溢し続ける渇いた瞳に映る自身の姿が醜くそれ以上口が開くことが出来ない。

 教えなければいけない。でも言いたくない。ツルギに知られ、「ばけもの」と言われ悲観されるのが怖い。その思いだけが口を閉ざさせる。

 瞼を閉じて、眼前の現実から目を背けるように閉じて下唇を噛んで、勢い任せに開く。


「……私」

「……なんでおれなんだ。帰りたい、あのせかいにもどりたい。かがみ、かがみかがみ、どこにいるんだ、なんでこんな……」


 彼の本心。それを聞いてしまった。その時、アテラは一つ決意する。立ち直し転がった球体、精霊フンシーに歩みを寄せて、

 廃人となった少年は彼女が通り過ぎた時、その姿を目で追って力なく地面を這いずって腕と手だけで後を追う。


 振り返れば少年が懸命に手を伸ばして爪を立てて地面を抉って進む。

 アテラは手を差し伸べて微笑みかけて少年の名を口にする。


 少年はその差し伸べられた手を視界に入れず払うこともせず気に留めず過ぎ去り、左胸に風穴の空いた立ち尽くす彼に手を伸ばす。


「……へんぜる、なんでおまえが、おれが死ねばよかった。死にたくない、こんなせかいは嫌だ。殺してくれだれかころして……」


 それは彼の本音なのか本心なのか虚飾なのか偽りかも分からない。狂った虚言、支離滅裂な言葉は地面に吐かれ、少年は力なく横たわり言葉を吐き続けて瞳を開けたまま動作を停止させた。


 アテラは転がる石に指先を触れさせる。

 すると石の皮が剥がれ落ち弾け翠色の姿を月光に再び晒した。


「ごめんよアテラ。何も出来なかった。本当に」


「ううん、フンシーは頑張ってくれたわ。お疲れ様。私が、……村へ帰りましょ」


 立ち上がり、立ち尽くすヘンゼルの胸元に掌を添えて、弱弱しく握り直す。


「ヘンゼル。あなたもお疲れ様。ゆっくり休みなさい」


 握り直した手を彼の半眼となった双眸を頭から通り過ぎさせると、芯の抜けたように後ろへ倒れ込む。地面との間に腕をすり込ませ抱き上げて彼を、彼を待つ彼女の場所へ運び室内に寝かせて、


「グレーテル。ごめんなさい。ヘンゼルはもう……」


「……にいさん、にいさんにいさん。また笑ってほしいですわ。朝におはようって微笑んで、夜にはおやすみと言って下さい。にいさん、何か言って下さい、わたくしはにいさんがいないと、にいさんにいさんにいさん……」


 弱くそれでも現実を受け止めたくなくて強くグレーテルはヘンゼルを揺する。


「嘘と言って下さいですわ、にいさんこたえて」


 溢れることが止まらない瞳と口。その行動を妨げることも出来ずアテラは眉を寄せて視線を彼女と彼に落とす。

 ヘンゼルの静かに閉ざされた双眸が微動だにせずにグレーテルが揺らすことで力の抜けた髪がそれに身を任せて抵抗をせずに揺らめく。


 グレーテルが何度も何度も兄への呼びかけを続けて、枯れることを知らないように雫が何滴もヘンゼルの頬や目元に零れ落ち、まるで静かに眠るヘンゼルが泣いているかとも見られる。

 やがてグレーテルがヘンゼルの胸元に顔を埋めて、


「……にいさんにいさん、いかないで。おいてかないで、わたくしはにいさん……」


 その言葉はもう彼に届かない。生を保たせる血の流れは停止し、魔力でさえ一滴も視感出来ない。故に最後の一滴をアテラは注ぐ。

 人差し指を彼の心臓の真上に差し出す。どこからともなく彼女の指先に透き通った雫が一滴溜まっていき重力に導きかれているのか真下の青年に呼ばれているのか、雫は指先を離れ青年の空いた左胸の奥に滴る。


「……愛しています……」


「……ぼくもだよ、グレーテル……」


 その言葉にグレーテルは硬直して神経を聴覚に集中させる。静まり返った隠れ家で再び言葉が届けられる。


「……愛しているよ。永遠に……」


 グレーテルが瞬時に体を起こしてか細い腕を床に支えさせてヘンゼルの頭上から双眸を見開いて、


「にいさん?」


 その問いかけにヘンゼルは重い重い瞼を痙攣させながら持ち上げる。赤みの一切ない灰色の双眸が雫の滴った双眸を見つめると、グレーテルは優しく、だが激しく愛を訴え抱きつく。


「兄さん兄さん兄さん、生きてますわ、兄さんが生きて――」

「――ごめんよグレーテル。もうだめなんだ……」


「それって、どうしてですわ。兄さんは今生きて」

「ぼくは死んだんだ。アテラさんがくれた最後の一滴、それのおかげさ」


 ヘンゼルは視線をアテラに移して一度「ありがとう」と口元を動かして再び妹へ戻して、


「だから、最後に伝える時間がもらえた。グレーテル、愛しているよ。永遠に永久に、この世界の誰がグレーテルを否定しても悲観しても、ぼくの命が燃え尽きようとも。ぼくはグレーテル、君を愛している」


「わたくしも、兄さんを愛してますわ。他のものなんかいらないですわ、何もいらないですわ、兄さんが逝くのでしたらわたくしも……」


 グレーテルは瞼を勢いよく閉じる。溜まった涙が空気に弾ける。それは兄と共に逝くという決意からか。死、を受け入れる覚悟の固まらない、死への恐怖か。震える腕に肩、痙攣し始めた頬。現実から目を背けるようにグレーテルは瞳を瞼で隠すと、


「やめておくれグレーテル」


 痙攣する頬に温度なく力の生気のない指先が触れ、グレーテルは瞼を瞬時に上げる。


「ぼくは望まないよグレーテル。君はぼくという束縛から離れ新たに生きてほしい。きっと辛いことも、いいや。辛いことばかりだろう。君に担われた罪が消えることはない。故にぼくらは疎まれ蔑まれ、嫌悪される存在。だけど、でも、この世界は広い。きっと一人くらいはそうでない人間に逢えるだろう。ぼくは逃げて逃げてグレーテルのそうゆう可能性を断ち切って逃げた。そんな酷い兄からのお願いだ」


「にいさんはひどくなんて」


「グレーテル、生きてほしい。例えいなかったとしても生き続けてほしい」


「そうですわ、人間は人間、また裏切られますわ」


「だとしても、きっといつか巡り逢える。永遠に逢えないわけじゃない。ぼくが生まれ変わってでも君に逢いに行く。だから信じていて、世界に一人は何かあってもグレーテルの味方はいるんだ。と……」


 頬に触れていた指先がそれを区切りに離れ重力に逆らわずゆったりと落ちていく。

 グレーテルがその冷えた手を握り胸を近付けて願うように祈りを捧げるようにヘンゼルの胸元に額を置いて、


「兄さん兄さん、兄さん。わたくし、生きますわ。兄さんに再び会うまで必ず――」


「……あいしている、よ……」


 ヘンゼルは安らかに微笑みを浮かべながら満足そうに眠りについたように瞳を閉じて、


 グレーテルはに胸元に顔を埋めたまま最後の悲壮の叫びを、


「兄さん、いやぁぁぁアアァアァあぁあぁアッ――」



 アテラは床にそっと指を差し出し突き立てる。すると、室内を飛び越え隠れ家の森に空いた空間を半透明の朱色が覆い、


「これで私たち以外ここへ入ることも近付くことも出来ない、わ。また来るわ」


 青年の胸元を枕にして安らかに静かに寝息を立てる少女は起こすには勿体ないほど可愛らしく儚く、寝言も漏らす。


「……兄さん、」




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