第一章21話『お前らの未来は決まった』
月に浮かぶ小さな飛行機のようなシルエット幻殻龍。それが空気を叩いて隠れ家はおろか森全体に音を運ぶ。幻殻龍は彷徨うことなく迷わず隠れ家に向かって進路を辿る。
月が悲嘆し、森がざわめき、精霊はない喉を鳴らして、少年と彼女は呆然と眺め、彼らは震える。
目前に近付いた幻殻龍は月光によって影を作り朧の形を隠れ家上空を通り過ぎて去っていく。
空気を叩く音は遠くへ去ったと思えば迂回したのか再び近付いてくる。
「なんなんだありゃあ」
幻殻龍は森にぽっかり空いた隠れ家を品定めするようにぐるりと転回し続ける。
呑気に呆然に立ち尽くす少年は捉えられない。地面を這ったり自身に浮かび上がる一つの赤い点が自由に動き回るのを捉えることが出来ない。
それを目の当たりにするヘンゼル。彼は怒声を上げる。
「――逃げろ!」
ヘンゼルは呆然と唖然とする少年に向かって駆け出して刹那に月光と同色を纏って犬の形へ変化する。
グレーテルは怯え幻殻龍を睨み震え自身の身を抱き抱える。
「何を言って――」
呆然とする少年の左の胸に赤い点が止まった瞬間。犬ヘンゼルは少年に速度を殺すことなく衝突して右肩に傷を負う。
犬ヘンゼルを抱くようにして背で衝撃を全て受け砂煙が立ち込める。
「……っておい。ヘンゼル?」
「……お前はやっぱり馬鹿だ。ぼくらはいいから早く逃げろ」
「いいって、逃げろって、この状況ではいはい分かりましたなんて逃げれるかよ!」
左手に伝わるべっとりとした血。それを目の当たりにして、
「くそっ。俺はやっぱ馬鹿だ、大馬鹿だ。何がどうなってんだ」
――戦いの後の余韻。馬鹿も休み休み言え。
灰色の瞳をちらつかせる瞼。閉じかけ開けばその度に赤く変色していく瞳。
「……奴は、王国の、えど、あ、るとの。第一、公爵」
「傷が広がるだろ! しゃべんな! アテラなんとか治療を――」
立膝を突く彼女は言う。
「大丈夫。この子は暴食の担い手。人肉を喰らったその性質から自己治癒能力は私が治療しても同じ速度よ」
傷付いた肩は彼女の言う通り治癒していく。肉の奥から老廃を吐き出すように肉が増幅してやがて皮も膜を張る。
「オマエは、ヤッパり、馬鹿ダ……」
猛獣の唸り声を上げるヘンゼル。それはまるで先刻の狂乱を悟らせる。
「マズイ。……コイツヲ連れて、逃げテ下さイ……」
弱弱しく息を吐くように言葉を漏らすと隠れ家の玄関前で立ち尽くす少女に優しく言う。
「……グレーテルは、いつも通リ、家デ待っテいておくレ……」
精霊が瞬間的に近付き少年たちの浮上で口元を歪ませる。
「大罪の侵蝕がここまで……。アテラも彼らの住まいに隠れて」
「でも……」
「大丈夫さ。幻殻龍が龍の抜け殻なら話せば分かり合える。いいからアテラさあ」
「う、うん。ごめんね」
彼女と少女が下屋の下に、月光から隠れるように身を潜める。
「しんしょくだ、暴食の担い手だあよく分からねぇけど、どうするフンシー」
「彼への侵蝕は一先ず暴食の担い手としての義務を果たせば落ち着くだろうね。でも問題は」
浮遊し転回し続ける幻殻龍。冷静そのものとしてただただ空気を叩き続ける音。それは幻殻龍の鳴き声なのだろう。
「一気に襲い来ることはなさ気か、フンシー、ヘンゼルはどうすりゃいい?」
「肉を与えることが一番効率がいいね」
「に、にく……」
「血でも応急処置としては効果は絶大だろうけどね」
ツルギはそれを聞くと戸惑うことなく右側に納まる刀を鞘から少し抜き、刀身に左腕を斬りつける。
「いってぇ、けど」
ツルギの中弱弱しく息を荒くする犬ヘンゼル。彼が瞳孔を震わせて耐えに耐える。
「オマエは、どこマデも、馬鹿ダ……」
犬ヘンゼルの頬を手で支え切れた腕を近付ける。血が湧水のように止まらずに滴る。
「お前にやられた右腕に比べりゃ掠り傷だよ。いいから飲め」
支えた逆から血を滴らせ口へ滑り込ませる。
何度か間を置いて喉を通しす。赤く染まった瞳は元の灰色に変色していき荒かった息遣いも治まる。
「すまない。落ち着いた」
「おう。よかったよかった。あとな、すまないじゃなくてこうゆう時はありがとうって言うもんだぞ」
「そうか、ありがとうツルギ。助かった」
その言葉に心が弾むのを覚える。満面の笑みと一つの頷きで返すと、
「ツルギ、腕を出して。アテラ程ではないけどこの程度の傷口くらいは塞げるからさ」
「お、わりーな」
「きゅきゅっと。はい完了。あと」
瞬時に絞まる傷口を目の当たりにして暫しの感動さえ覚える。血の跡を拭えば傷付けたのが幻想だったかのように思える程に完治する。
「こうゆう時は、ありがとうございますフンシー様だよ?」
「へっ。ほざいてろ、サンキューな」
犬ヘンゼルはツルギから大地へ移動してその身を月光色に輝かせ纏わせ人の姿に変える。
そうすれば幻殻龍の鳴き声はやがて遠ざかっていく。状況を判断出来たのだろうか。
狂った犬が正気に戻り戦況はツルギらに傾いた。
「いなくなった。か?」
幻殻龍の鳴き声は一切なくなり森に隠れ家に平穏を戻した。ヘンゼルは唯一の家族、グレーテルの潜んだ住まいに向けて歩みを向ける。
静まり返った森。月光が均等に降り注ぐその隠れ家でツルギは背伸びをして終戦を、
「んー、これで終わりだよ……。な――」
背伸びをして遠ざかりグレーテルに歩みを向けるヘンゼルの背中に視線を送り赤い点が左側の心臓辺りを彷徨うのを見て、
「んなわけねぇ! ヘンゼル、よけろぉ!」
終戦を否定して彼の否定と共に、彼は少し左へ避けて右肩に風穴を空けられる。
飛散する赤い血が地面に降り撒かれ隠れ家に潜む彼女と少女の足元まで粉々の肉が飛び散る。
彼女らは驚愕して、少女は悲鳴を叫び、彼女はそれを塞ぐ。
「……。にいさん、兄さん兄さんにいさんにいさんにいさ、ん……」
「グレーテル。ヘンゼルは大丈夫よ。落ち着くの。深呼吸して?」
彼女は手本を見せるように深呼吸し続けて、瞳から大粒の涙を零す少女は瞳孔を開いて彼女を視界に入れて、その行為を真似る。
「あなたのお兄さんは大丈夫。私の精霊もいるし、使い魔もいるし、何よりヘンゼルは強い。そうでしょ?」
「兄さんは、強いですわ。でも、だけどあいつは強さだけじゃないですの。幻殻龍がいなくてもあいつは殻龍の息吹を使えますわ」
「それがあの攻撃。見えなかったわ」
――ツルギがこれから対峙する敵。憤怒の龍の抜け殻、幻殻龍を操り、殻龍の息吹を自在に使う。でも相手はエドアルトの第一公爵。迂闊に素顔は晒すわけにはいかない。ツルギ、何も出来ない私に代わってどうか……。
口元に力を入れて眉を八の字にして祈り捧げると少年がアテラの方へ親指を立てた拳を出して、
『ま・か・せ・ろ』
そう口が動く。アテラはただただ無力にこれからの絶望を見守るしかない。
† † † † † † † † † † † †
肩の血肉が飛散したヘンゼル。肩を押さえ息を吸って吐いて、押さえた手を退ければ傷は残らずに元通り。
昨晩の兄妹の現実とは思えない疑わしい行い。それは、妹の大罪の侵蝕の遅延と兄の自己治癒能力の維持。そのための行為なら知ってしまえば恐れるに値しない。実際に目の当たりにすればやはり多少なりとも目は背けるだろう。だが、そこに狂気的狂乱要素は皆無だと断言出来る。
人の血を取り込んだ彼の自己治癒は瞬発的であって瞬間的であって永久ではない。
つまり、勝負を決するために取るべきは速度。一手二手、エドアルト第一公爵よりも先に、
「ヘンゼル、大丈夫そうだな。ヘンゼル、フンシー。相手の場所は分かるか?」
「ぼくは血の匂いは追えるけどそれ以外の特定のモノを察知することは……」
「出来るならすでにやってるよ。それよりツルギ、君は命を懸けた戦いに向いていないよ」
言い返すことのできないツルギに躊躇なく続ける。
「そう落ち込まれるといい気分はしないね。君は最後の一手を決めてくれればいいさ」
「最後の一手を」
「ああそうさ。攻撃を受けても自己治癒能力でどうにかなるこの子と、基本どんな攻撃でも無敵なボク。つまりボクらが盾になる。君の、ツルギの剣で――」
「――最後は任せるよ人間」
鼻で一度笑い飛ばす。これからの一戦は自身の一振りで勝負が決する。
怖く恐く責任の重さに押し潰されそうになって逃げ出したくなる。そのかつての自身が抱きそうな感情を一度笑い飛ばして、
「――任せろ」
刀の柄を握り締め鞘から刀身を輝かせて覗かせて空気にその身を晒して、両手で握り直し構える。少年の両側、右を精霊が左をヘンゼルが固めて漆黒の森に視線を配り合い、
「暴食の君、自己治癒はあとどれくらい?」
「過信しないでくれ、精々一度。二度目は再び狂うことだろう」
「ったく。一度で決めりゃいいんだろ。エドアルト、第一公爵とやらをさっさとやっちまって血たん盛り飲みやがれ」
「ふん。遠慮はしないぞ」
「多少はしろよ!」
森の漆黒の奥、ツルギの正面の草が掠れる音を発した。
漆黒に浮かべ上がる二つの赤い点。それらは一定の距離を保ったまま微動だにしない。
「あれは……。フンシー」
「早速登場というわけか。いいよ」
その返答に対して翠色の精霊は一直線に飛び出し、少年もその後を追うように駆け出す。
ヘンゼルは、彼らに聞こえるか聞こえないかの呟きを呟く。
「やつの瞳は赤くない。あれは――」
言葉にするよりも速く動かなければいけない。殼龍の息吹はいつ放たれたか分からないほどに刹那で強烈。
故にヘンゼルは変化する間もなく人としての足で地面を蹴り上げて走る。
彼に浮かび上がる赤い点とその発現者との間に割り込ませる。
水風船を割れたような音にツルギとフンシーは駆けるのを止めその音が弾けた自身らの経路に目を配る。
左手で防ごうと構える姿勢を取るが強烈な殼龍の息吹によって弾けた後の手は、骨まで露見され肉が二つ三つと重力に誘われる。
ヘンゼルは抉れ返った左手を強く握り締める。すると月光色の光を帯びて、骨の上に肉を、肉の上に膜を、膜は皮になる。
「やつはあそこだ。そっちのは違う」
閉じた拳が指を指す方向へツルギとフンシーが視線を送る。そこはただの暗闇の深い森。その奥に存在すると思われる第一公爵。
「じゃああっちのは……」
標的と思われた未確認の存在に視線を戻せばそこには何もいない、何もない同様の森が広がるのみ。
やつの攻撃対象になる赤い点だったのかも今や分からず、ただ言えることは倒すべき相手はそこにはいないと言う事実。
赤い点は視線を標的から外したツルギに灯る。
その間に精霊が割り込み瞬時に小さな球体を膨張させ、放たれる殼龍の息吹が何にも妨害されることなく威力を一定にその球体の形を歪ませ凹ませる。
「よそ見は禁物だよツルギ」
歪んだ球体は内側から攻撃を押し返し元の形へ戻ると同時に攻撃の弾丸となった物質を弾く。
膨張していた球体は元の大きさに戻り不規則に上下に不器用に浮遊する。飛ぼうとする雛のようにも見える。
「なんだか重い、なぁ」
表情を歪ませ重力に引っ張られていく。全身が石のように変わり果て刹那に丸い石に変貌し地面に転がり落ちる。
精霊の表情は歪んだまま口も開くことさえ出来ずただの石になる。
「おい、フンシー。どうしたってんだ」
「多分さっきの殼龍の息吹。石化の加護があったんだと思う」
少年は驚愕に呆然とし青年は額から汗を頬に伝わせる。
その光景を目の当たりにした赤毛の彼女が精霊の名を叫び近付こうと隠れ家を飛び出す。
「――っ! これは……」
何も視感出来ない壁に阻まれ下屋から先へ進むことが出来なくなっている。衝突した透明の壁は波紋を広がり掌で触ればそこには常時波紋が広がり続ける。それは水面のよう。
「ツルギ、ヘンゼル! 逃げて!」
その声は透明の壁まで届き、先に届くことはなく。アテラは何度も何度もその壁を拳で叩き続ける。
気ににも気付くことのない少年は、漆黒の森に視線を送り動かそうとしても動かない足は勝手に震え瞳孔を大きく小さくなって、額に映る赤い点が絶望を浮かべているようだった。
放たれる一閃が少年に届く刹那。
青年が肩を押し少年を標準から除外して絶望は青年、ヘンゼルの左耳を襲った。
飛散する赤い飛沫が空想的に幻想的に作り物の様に、夢のような非現実を拡散して宙を舞う。
地面へ倒れ込んだツルギは、立ち尽くすヘンゼルの左半分の顔の血塗れを視覚し絶望を浮かべる。
漆黒の森から月光に身を晒す者。
やつは男で、黒髪で長髪で前髪が顔が見えずらく髪の隙間から見せる双眸は狂気そのもの。
艶のある白色の生地で出来た服は金色の刺繍が所々にされ、襟が頬を隠すように立っている。
「――ヘンゼル。クサナギ・ツルギ。お前らの未来は決まった」
知るはずのない男は凛々しい佇まいで顔立ちで凛々しい声を発たせる。絶望を知らせる。
「――死んでもらう――」
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