第一章20話『俺は大馬鹿さ』

 白い牙が唾液もあってか月の明かりに照らされる。口内は暗く赤い舌が淀んで見える。大きな口が開かれると共に猛獣の唸り声が零れ周囲はおろか静まり返った森全体までその声は拡散していく。


 その牙はツルギの眼前。紙一重で停止してツルギは瞬きをせずに見つめ続け、


「――俺の名前は、日柳剣。ツルギって名前だヘンゼル」


 怯えることなく恐れることなく一心に見つめるその微動だにしない瞳孔をヘンゼルは見下すように視界に入れる。


「人間でもお前でも馬鹿でも好きに呼んでくれていいけど、覚えててくれ。俺はツルギってんだ」


 剥き出しになった牙は眼前から離れていき大きく開かれた口は閉じ牙すら隠す。

 とぼとぼとツルギから距離を少し取って立ち止まり俯き気味に声を漏らす。


「にんげん。お前は馬鹿だ」


「重々承知。でもヘンゼルだって馬鹿だろ」


 突拍子もない発言にヘンゼルは地面に向かっていた顔を少し上げる。


「だって、世間周囲から罵倒されたりしたろ? なのに人と約束して、挙句の果てに妹を愛して」


 罵倒に近いその言葉にヘンゼルは顔を向けて無言で返す。


「でも、だからって周りの奴らが何と言っても俺はヘンゼルとグレーテルの愛は本物で偽ることない信実の愛で」


 胡坐に座り直して頭を掻きながら続ける。


「……ヘンゼルのこと、すげーかっけーって思うよ」


 ヘンゼルは鼻で一度笑う。それは馬鹿にするでも無碍にするでもなく、


「こんなぼくを信じて、ぼくがお前を噛み殺すことの方が可能性が――」


「ねぇよ」


 正気な狂気を言葉にすれば少年は否定して、


「いやでも少しは怖かったぜ。まじで死ぬかとも思った。折角助かった命を失くすところだった」


 否定を否定して空気を一度肺に通すと気管が冷えて生きていると実感する。


「無茶しねぇって言ったのに、助けてもらった命を失くすなんてあの子に謝っても謝りきれねぇ。でも」


 ヘンゼルは睨むことなく見つめて途切れた言葉を待ち少年は遠慮がちに微笑みを浮かべて、


「俺が死んでもヘンゼルがまた人を信じれるようになれば儲けもんだ。まあぶっちゃけ俺はヘンゼルを信じた。だからビタイチも可能性なかったぜ」


 ヘンゼルは空に浮かぶ球体を見つめると徐々に赤く煌いていた瞳が灰色に落ち着いていき、そっと小さく自信にだけ聞こえる程の小さな小さな呟きを溢す。


「……ツルギは馬鹿だ」


「んあ? なんつった?」


 ヘンゼルは鼻で一度笑って足を身をツルギに向ける。


「……お前は馬鹿だと言ったんだ」


 そう言いながら身を少し縮こませて後ろ足に全身を任せて立ち上がる動作をする。前進が月光と同色に光り、まるで月明かりを吸収しているかのように光が灯る。

 徐々に犬の形は歪んでいき、脚と腕は伸び手足は人の足の形になっていき鋭く伸びた爪は丸みを帯びて、胴体もまた人の形へ変化していく。前に突き出た顔も平坦に納まり、

 刹那に彼を光の渦が纏って弾ける。


 その中から現れるのは昨日のあの時の狂気と思っていた灰色の髪の青年。


 青年の姿のヘンゼルを目の当たりにしてツルギはほっと肩の力を脱力して親指を立てた拳を差し出し、


「――俺は大馬鹿さ」


「お前のこと、少しは信じよう」


 彼の灰色の瞳を見つめ返しす。ヘンゼルは手を差し伸べツルギと同じくらいの手に自身の手を重ねて握り合いヘンゼルは力強く優しく近寄せる。


 ――嘗ては人を信じて信用して信頼していた彼。何がきっかけでそれを止めてしまったのか分からない。人は信じ信じられ愛し愛されても自分可愛さに建前を振りかざす弱い生き物だ。でもその中で必死に生きて守りたいモノに正直に素直に信愛を持って自身よりも大切な人のために、大切な守りたい存在のために強くあろうとする虚飾する生き物だ。

 偽っても心の底で醜いことが渦巻いても、信実の愛はどこまで偽ろうともそれは本物なのだろう。


 ツルギは背に置いてきた彼女と精霊に満面の笑みを向けて先刻同様に親指を立てた拳を突出し、


「言ったろ、任せろって」


 その安否を確認でき少女は胸の前で拳をきゅっと締めて精霊に自信満々に胸を張る。


「ほらね、ツルギなら大丈夫って言ったじゃない」


「そうだね。あの子はきっと……。いや、なんでもないよ」


 釈然としないアテラは赤毛を揺らして一つ悩むと正面で堂々と振る舞う少年に精霊が浮遊しながら近寄って行き、


「ツルギ、君は本当に阿呆だね。命の恩人の前でよくもあそこまで出来た物だよ」


「それを言われると何も言い返せん……」


「でもまあ、アテラは不安もあっただろうけど君を信じていたよ。だから経緯も結果もいい幕締めにも出来たし、一先ず褒めて置くよ。暴食の担い手相手によく頑張ったよ」


「なんかそうも馬鹿正直に褒められるとなんつーか、照れるな」


 遠目に見える彼女に視線を送れば笑顔が一つ返ってくる。手を小さく振るというおまけ付き。


「……俺さ、あの子の為にならなんだって出来そうだわ」


「それは死んでもいいってことかい?」


「死んであの子が幸せに、笑顔になるんだったらな」


 手を彼女に振り返して、浮遊する精霊に顔を向けて、


「でもあの子は誰かの犠牲の上にある幸せを望まない。違うか?」


 精霊フンシーは目を細めて「んー」と唸り考えツルギの頭の周りをぐるりぐるりと回る。


「ちょっと違うかな。確かにアテラは幸せなるために何かを犠牲にして、例え神が死ぬとしても望まないだろうね」


 話の流れを汲みとってか。ヘンゼルは横たわったままの犬グレーテルに駆け寄って行った。


「でも、そもそも元が違うんだけどね」


「もとが違うって言うと?」


「幸せの為に何かを犠牲にしないとかじゃないんだよ。アテラは幸せすら望まない」


「……それって」


「だからツルギ、君が死んだりあの子のために何かすることはないよ」


 精霊は躊躇なく冷酷に現実を少年に突き立てる。

 今までのツルギなら、何もしない。という選択はとても都合良くなおかつ、自分の本質に合っている。そう思っていた。だが今現実をそう伝えられ今までと違うもどかしさを感じる。


「……何もすることはない」


「そう、ただし使い魔としてあの子を傍らで支えることは忘れてはいけないよ」


「ああ、任せろ」


 ――何もすることがないわけじゃない。使い魔としてやれることはある。アテラが幸せを望まなくても俺は幸せにしてあげたいし、笑顔を見ていたい。だから、


「一先ず村へ戻ろうぜ。さすがに疲れちまった」


 精霊を見た後に彼女へ視線を送ると彼女が労う。


「ツルギ、お疲れ様です」


「アテラも疲れたろお疲れさん。フンシーもな」


「ボクは君を褒めても労ったりはしないよ。当たり前のことだからね。むしろ今回のことは七つの内の一つと軽い手合せをした程度だしね」


 フンシーがそう返すとアテラが慌てた表情で眉を中心に寄せて少し困っている。

 困っている顔も可愛い。と思うツルギ。


「ちょ、ちょっとフンシー?」


「何を気遣っているのか分からなくもないけど、ツルギがこの世界で過ごしていくうちに知ることなんだ。別にいいと思うけどなあ」


 そうこうしている内にグレーテルは人の姿に変わり二人はツルギたちのところへ歩みを向けていた。


「アテラさん? がよろしければわたくしからお話しいたしますわ」


「そ、そうよね。ツルギも知っていく必要あるものね。わかったわ」


 観念して肩の力がどっと抜かれるのが分かった。「でも」と言葉を結んで、


「それは私から話します。グレーテルも疲れたでしょ?」


「別にだいじょうぶですわ」


 アテラはグレーテルの足元に指を指して、


「足、震えてるじゃない。無理はよくないわ」


 ヘンゼルが頭を前へ軽く傾け、


「ありがとうございます」


 畏まった態度を受けてアテラは両手をぶんぶんと振り回して慌てふためく。


「いえいえいえいえ、あ、頭上げて? 明日ここを通るからその時にでもまた寄らせてもらうわ」


「はい。またの機会にお礼させて下さい」


「んー、そうね。なら明日から同行してもらえるとありがたいかな。ツルギとマモンじゃあ大変かもしれないし、それに」


 畏まり続ける青年ヘンゼルとグレーテルの半眼から見せる灰色の瞳を見つめて言葉の続きを探すが見つからない。しかし言葉は繋がれた。


「仲間ってことだろ」


 もちろん使い魔(予約)のツルギが答えを見つけ出す。


「ってかヘンゼル。俺とアテラに対する態度が全然違う気がするんだけど!」


「当たり前だ人間。お前は馬鹿で人間で――」


 そこで言葉を区切る。きっと死線を味わわせ味わい一戦を交えたからなる気を遣わない関係になったのだろう。


「仲間なのだろ。それに馬鹿だ」


「はいはい、つまり馬鹿だからっつーことな。おっけー」


「阿呆な君を皆よく分かってくれてよかったじゃないか」


「う……。お前ら寄って集って、俺に何か怨みでもあんのかよ!」


 精霊フンシーは浮遊しながら笑い、ヘンゼルも口元を緩やかにカーブさせて笑みを溢して、その傍らでグレーテルがヘンゼルとツルギに視線を交差させて嬉しそうに微笑み、アテラも手で口元を隠しながら堪え切れずに笑みが弾ける。


「……なんつーかさ、いいな」


「ふう、何が?」


 呼吸を整えた彼女がツルギの横顔に視線を送って、その視線が熱く感じて彼女に見つめられる方の頬が熱くなるのが分かった。彼女を直視出来ないツルギは空から祝福の光を届ける月を見て、


「ほら、昨日の今日でさっきまで命がどうとか言ってたんだぜ?」


「うん。言ってたけれど、ん?」


「余韻つーかさ、戦った後の相手とこうして笑い合ったりさ。いいなって思う」


 かつて少年は幾戦も戦いの地へ足を運び本気で戦い合った。けれど今回みたいな戦後に笑みが生まれることはなかった。ましてや命すらかけた戦い。

 昨晩の狂気を降らせていたと思っていた月は全く違って見えて、冷たい風は先刻、隠れ家に向かってくる最中とも違って、どちらも心地よく居心地よく、それでいて幸せを感じさせてくれた。


「では、ぼくらはそろそろ」


 ヘンゼルが頭を下げるとグレーテルも真似するように頭だけ下げて二人は二人の住まいに足も運んでいく。


「また明日なー!」「また」


 大きく空を仰ぐようにツルギは手を振り、アテラは控えめに振って、ヘンゼルとグレーテルはお互いに同じタイミングで会釈をしてフンシーは先に帰路を辿ろうとする。


 四人と一球が月光の下で一丸となり去り際その時。夜空から耳に入る不思議な音。

 激しく空気を幾度も裂く音が一定の速さで弾かれ続ける。

 その音に精霊はぽつりと言葉を溢すように無意識に吐き出す。


「……幻殻龍……」


 その音は徐々に近付いてくる。月光の先。祝福の月は悲壮する。

 黄金色の中に一つの影が自由に空を横断している。それは少し細めの胴体に二枚の羽のようなモノが付き空気を一切仰ぐことなく、シルエットは微動だにせずに浮遊を続ける。


「……げんかくりゅう?」


 ツルギの問いに精霊は返す。戸惑い困惑し双眸を震えさせ、


「――今は亡き憤怒の担い手、この世界の守護半神。憤怒の龍。それの抜け殻だよ」


 幻殻龍と呼ばれるそれは空気を叩き続け風を裂いてくる。徐々に接近するそれが近付けば近付くほどに月の明かりが悲嘆している気がした。



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