第一章19話『オマエハ馬鹿ダ』
一つの突進と向かい風が幾度も衝突しては弾けて砂煙を巻き上げて吹き飛ばす。
どちらが優先とも言えない状況に精霊はどこかもわからない額に汗を垂らして、
「いつまでもいつまでもめげない子だね全く君は」
その余裕のあるような発言とは裏腹に、切迫してきているように見える表情に対して、犬は地へ足を着かせて睨み付け息一つを不規則に唸り声とともに鳴らす。
「さすが、暴食の担い手と言う訳かな。でもそろそろ幕引きとしよっか」
翠色の球体は月光をその曲線を艶やかに反射させていると思えば、くりくりとした双眸を閉じて、
「――よ、――こら」
一つ一つ区切りながら言葉を繋ぐ。空気は振動し、音は無音に消え、骨の髄まで震動は届く。
「――しょっと」
その刹那。球体は空間を無視して辺り一面を覆い尽くして浮遊する。巨大な翠色が月と大地を分けて、月光は翠色を透き通り薄らと大地へ降り注ぐ。
空気の密度が一瞬で押し寄せて無重力を感じる。否、反重力となる。
横たわる犬、グレーテルの絨毛が逆立ち体が数センチ大地から離れる。踏み留まっていた犬、ヘンゼルは鋭利な爪を大地に立てて抵抗をする。
ツルギが言葉を挿む隙もなく反重力に身を委ねることしか叶わない。
瞼を上げたのを確認すれば彼女は一つ漏らす。
「よかった。無事みたいね」
アテラはほっと肩の力を抜き細い手で胸を撫で下ろす。
右の掌を空へ掲げると二人を覆うように半透明の膜のような壁が球体を描くように顕現する。
宙に佇む精霊が刹那に球体を震わせる。
辺りの木々や木の葉はその衝撃波か、先刻に反して重力の方向へ物質が導かれた。
それは浮遊した犬グレーテルも等しく、浮遊を回避していた犬ヘンゼルにも等しく襲い狂う。
二頭の犬は地面に這われ抵抗することさえ乏しく足も指先さえ動作が出来ない。
犬ヘンゼルは剥き出しの歯を噛み締め耐え、犬グレーテルは衝撃によって意識が戻るが同時に全身へ襲う圧力に抵抗出来ず小さく開かれた口元から涎が弾け零れる。
不可抗で不可避な状況下でも必死に一心に大わらわに躍起に死物狂いに犬ヘンゼルはグレーテルの力なく無力に地へ這われるのを阻もうと、赤き瞳が雫を溜めながら訴える。
「君たちに罪はない。だけどごめんね。抵抗し続ける君が悪いんだ。それにやっぱり君たちには罪はあるよね。禁忌を犯しあまつさえ契りを破ったからね。アテラの大切な人を脅かしたことも罪だ」
無慈悲にも等しいその冷酷な発言。自身の行いを正当化するためのこの世界の秩序を建前として罰を下すための言葉たち。
それは村、王国、この世界の禁忌に触れてしまった末路だ。罪は償う必要もある。
「まあ化物とされる君たちがどうなろうと誰にも関係はないよ。もちろん、ボクもアテラだってそうさ。だから、罪をその身で償おっか」
精霊は無情に残酷に冷酷に冷刻に追撃の衝撃波を放った。
衝撃波は先刻よりも激しく強烈に押し寄せた。
「――待って」
その掛け声の先、衝撃波を全身に浴び屈強にも二本だけの足を地に着けて曲がり折れそうになるのを死にものぐるいで耐える少年。その右腕に纏った袴の袖は裂かれ、肘裏から手首にかけて一本の傷跡が赤く残っている。
彼女の中断の命令は精霊に掛けられたものではなかった。不安な眼差しを背で受け軽口を叩く。
「大したこたあねぇな。おい、フンシー!」
その声のする方へくるりと双眸を回す精霊。
「ちょっくらその暴風圧的なもんやめてくれ!」
「ふん、何を言い出すかと思えば。やっぱり君は阿呆だねツルギ。この状況でそれは叶わない願いだよ。呑気に眠りこけていた君でも窮地なのが分からないほどではないと思っていたけれど」
不思議と視感すれば重く重く感じ取れた重力圧はツルギにとってそこまでの苦を与えはしなかった。だが、重いことは重く踏ん張り続けながらへの字に曲がった口元を緩ませ白い歯をこぼし笑みを浮かべて、「まかせろ」と口を開く。
少年の一歩後ろで彼女が一度頷き、
「フンシー、ツルギの言う通りにして?」
精霊は一度間を置いて少々考え直ぐに答えを出す。
「はあ、分かったよ全く本当に君たちは阿呆だ」
溜息を溢すと徐々に大きかった球体は空気を外へ吐き出して元々のサイズに戻る。重力圧は一切なくなり、身が軽くなるのが分かった。それは、同時に周囲一帯の木々にも等しく、彼らに対しても等しく束縛を解除させる。
軽くなった足で彼らへ向かって歩みを進める。
「ボクはどうなったってこれ以上もう関与しないからね」
「言ったろ。ちょっとは任せろ」
「……ツルギ」
アテラを覆っていた膜のような壁は消え去り、彼女は少年に二歩だけ近付く。
ツルギは背を向けたまま口を紡ぐ。
「何しようとしてるのか私、分からない。でも、それでも分かると思う。ツルギが――」
「――無茶はしねぇよ」
口を割り込ませると彼女は言葉が喉で引っかかり出てこない。自身の問いに対する答えだったのだろう。ツルギはそのまま背を向けたまま言葉を続ける。
「だってさ、二度だぞ」
アテラが「え」と疑問符を浮かべている姿が表情が双眸の裏を過ぎる。
「一度目は召喚されたあの時。アテラがいなかったら確実に今生きてねぇ。そして、今回だ」
「一度目もだけど今回だって、ツルギは使い魔だから」
「使い魔の契約はしてねぇ、でも君は俺を救ってくれた。命の恩人の目の前で折角助けてもらった命を無駄に出来ねぇよ。死んでたまるか」
彼女からの返答はない。ツルギは一歩一歩を踏みしめて、四つの足で立ち上がった犬ヘンゼルが頭をぶんぶんと振る。
ツルギはふと思い出しわざとらしく首から上だけをアテラに向けて、笑顔を向けて、
「――帰ったら、契約な?」
彼女は一度だけ呆然と上下に首を振り、少年は満足気に再び歩みを進めた。
† † † † † † † † † † † †
風も止んだ森の中、袴が歩みを進める自身の動きに追い付こうと纏わる。
月光が直接降り注いで鞘の黒光りを目立たせている。
彼が振り上げると正面に対峙した犬ヘンゼルが赤き瞳を鋭くさせて身を低くして構える。
「まあ、落ち着け。ヘンゼルでいいんだよな?」
そう言いながら少年は振り上げた刀を腰へそれを落ち着かせて、千切れかけの袖を破き傷跡を付けた者に見せないように隠すように巻きながら、
「ヘンゼル。お前は何がしたいんだ? どうして人を襲う?」
犬ヘンゼルは威嚇の姿勢を取ったまま睨み付け、少年は続ける。
「お前は約束をしたはずだ。人々の脅威的存在になってしまったお前たちは約束をしたはずだ。二人で静かに暮らすために」
「血ヲ肉ヲニクガ……」
「こんなことをして何になるってんだ。静かな暮らし。それが出来なくなるかもしれないんだぞ」
「ぼく、は、静カニ……」
赤き狂った血走った瞳はぼやけ始める。
ツルギは一縷の希望を込めて彼に、彼らに問いかける。
「そうだ! お前たちは、ヘンゼル! グレーテルと静かに暮らすんじゃねぇのか!」
「静カニ。グ、レーテ……ル。と、静かに……」
「そうだ。なら、人々を襲ったりなんかするんじゃ――」
その言葉を断ち切らせたのは他でもない。ヘンゼルだ。正気に戻りかけたと思われた瞳はさらに赤く染まり濁り震え、少年に向かって駆け出した。地を蹴り空気を裂き牙を剥き出しにして、
「――オマエニ、何ガ分カル!」
口を大きく開いて鋭い白い牙が歯茎から覗かせて、少年を襲う。
「――ツルギッ!」
その声は無碍に残酷に冷酷に状況を作り出しツルギへ託してくれた精霊。
その必死な精霊は浮遊しながら身を近付かせようとするが正面で彼女の掌が妨害する。
「どうして止めるんだい、このままではあの子が!」
彼女は非常に異常に、至って通常に冷静にその真紅の双眸を少年と犬ヘンゼルへ向けたまま言葉を漏らす。
「信じましょ。ツルギなら大丈夫。きっと絶対……」
「どうして!」
彼女は言葉を続けることなく双眸を向けたまま息を殺す。月光が入り込む瞳は輝きをさらに増してそれは彼への信頼の現れの様に、
フンシーが彼女の双眸が向ける視線を追って少年と犬ヘンゼルに視線を向ける。
少年は右腕で犬ヘンゼルの攻撃を防ぎ塞き止め地面に尻を託して、口元を曲げてニヤリと笑みを溢す。
「冷静になれよ。フンシーもヘンゼル、お前もな」
少年が噛みつかれた腕には先刻千切った袴の袖の一部が撒かれ彼の攻撃を防いでいた。
その余裕があるように見せる笑みは徐々に余裕を失ってきているのか引きつり始める。
「てかフンシーお前、関与しねぇっつたのに。何気優しいんだな」
「い、いや。それはほらあれさ。君が傷付けばアテラが多少なりとも悲しむからね。だからさ」
「あっそうかい……っ!」
右腕に鋭い刃が届いたのか鋭利な錐に刺しこまれたような痛みを覚え、歯を噛み締めて一心に紅き瞳を見つめて、
「……なあヘンゼル」
その問いかけに刃をさらに突き立てて抉り込ませる。
「なにそんなにカッカしてんだよ。ほら、クールクール、落ち着けって。お前はもっと冷静で賢いんだ。だから落ち着けって」
無理に柔らく頬を垂らすツルギ。痛みに耐えながらに目尻に雫を浮かべながら、それでも笑みを微笑みを表に出し続ける。
「話しだけでも聞いてくれ――ッ!」
その瞬間今までと比にならない激痛が電撃となって右腕から全身を駆け巡った。
「オマエラハ、イツモソウダ。優シク親切、思イ思ワレ、残酷ナ人間。オマエラ、自身ノ得ヲ優先シ、他人ヲ気遣ウフリヲシテ、結局最後ハ自分ガ可愛ク、他ノモノヲ蹴落トス」
牙が布を貫通したのか白地は徐々に内側から赤く染まり始める。ヘンゼルは牙を突き刺し続けたまま内なる声を漏らしていく。
「オマエラ人間ヲ信用シタ、ボクラガ悪イ」
「その人間が何をしたか知らねぇが。だからって人々を襲うことが正当化されるって思ってんのか」
「……当タリ前ダ。人間ハ他人ヲ思イヤリ、気遣イナガラ最後ハ――」
「――最後は裏切る」
ヘンゼルの言葉を中断させて、先刻まで作っていた笑みは消え去り口元は今までと逆に曲線を少し描かせ、
「周りからの見られ方ばっか気にして頑張って偽って、結局内面じゃ馬鹿にして貶して蔑んで相手を、利用できるもんは利用する。ほんとバカだよな人間って」
ヘンゼルは失笑を浮かべ始めるツルギに変わらぬ瞳で睨み続ける。
「上っ面ばっか気にしてるくせに結局誰かの上に立ってないと自分を失いそうになるほど弱くて脆くて」
風がない森の中、ぽっかりと空いた隠れ家の庭に静かに月光が降り少年は続けてヘンゼルは突き立て続けて、
「人間ってそうゆう生き物だよな。ヘンゼル、お前の気持ち言いたいこと分かるよ全くな」
俯き失笑すら忘れた少年は鋭く赤く睨む瞳を見ることなく俯き続けて、
「俺も前はそうだったし、これからだって上っ面ばっかりかもしれねぇ。前の俺はきっとそのまま相手を見下して利用できるもんは利用して生きて死んでいく。そう思う。でも」
言葉を一度区切ると少年はヘンゼルの睨む瞳を怯えることなく遠慮せず見つめ返して、
「だけどこれからは変わろうって、そんな生き方は止めてあの子と一緒にあの子の使い魔として恥じない人になろうって決めたよ」
「結局――」
「ああ、出来るか分からねぇ。変われねぇかもだしうまく出来ないだろうな。俺の本質は誰よりも酷い醜い人間だからな。でも変わろうって、ちげぇな。変わるよ絶対」
突き立て続けた牙は力を失い、逃げようと思えば逃げれるほどに緩くなる。
「人間だってさ、変わろうって変われる人もいるんだぜなんだかんだでさ。ヘンゼルだって昔は人を信じてたんだろ。なら今信じてなくてもこれから先、変わろうって変わっていく人間をちっとは信じてみろって」
「何ヲ言ッテ……」
「周りの人たちが、世間がお前たち兄妹を否定して、狂ってるだあ禁忌だあなんだって言っても、俺はヘンゼルとグレーテルは間違っちゃいねぇって、お前たち兄妹を肯定するよ。俺はお前たち兄妹がそこまで狂ってないって信じる」
赤く鋭利に鋭くしていた瞼は上がり、睨むという行為を止め布に突き立てた牙を口を開きゆっくりと外して、
「人間、オマエハ馬鹿ダ」
「知ってるよ。今朝も言われたし昨日も言われた」
「マルデ、人間、オマエハ馬鹿ダ。警戒モセズ」
静まりかえった月光が煌く空いた空間で少年は瞳を閉じることなく赤き瞳の犬を見つめ続け、
――少年の眼前に白い鋭利な牙が数本歯茎を剥き出しにして向かっていく。
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