第一章18話『狂い狂って狂った常人』

 暗闇の森、天上から黄金色の月光が注がれる。木の葉の一枚一枚を照らし、地面へ零れる光は数える程しかない森。

 息を殺し、踏み出す足は控えめに忍ぶ。

 暗い暗い視界の中真紅の双眸を凝らして辺りを窺い進む。

 その場に聞こえるのは自身の足音。足裏が地面を踏み、ローブが草、葉に擦れる音。


「……いない、わね。シンシアが逃げてきてからそんなに時間は経っていないのだけど」


 暗い暗い森の中、ある一点に気配を感じ取る。

 恐る恐るその方向へ進行を変えて様子を覗いながら慎重に進んだ。

 彼女が移動する度に発さられる以外無駄な音がない森に響いた一種の打音。その音は彼女が進行する先から聞こえる。

 何度かの打音と物体が地面を引っ掻きまわるような雑音。その音の元凶か分からない。だがアテラは感じずにはいられない。


「この感じ、あの子たち?」


 忍び足が駆け足になり、慎重に控えめだった身体は草、葉に気を遣うことを止めて強引に進む。両腕を眼前に備え木々の枝、葉の妨害を防ぎながら走る。


 打音雑音が止んだ。


 暗い森を走りいつしか到着する。進行先に木々が羅列していない、月光が何にも妨害されずに地面へ舞い降りる空間に身をさらけ出した。

 アテラの腕やローブに纏わり付いた葉がゆったりと重力に引かれ舞っていく。

 アテラは両腕の防御を解いて、瞳に正面に対峙するモノたちを映した。


 グレーの絨毛に赤き瞳の狂犬二頭。その睨み付ける先。


 月光に全身を晒し両手で刀を凛々しく構え瞳を瞼で隠す少年。

 月光が少年の持つ刀の鞘をギラギラと黒光りさせている。


 狂犬は二頭とも姿勢を低くして足元に力を込めて踏ん張る。始める。そう察したアテラは肺に瞬時に空気を送り込み、風もなく空気を止まり、時間さえ停止している錯覚に満ち溢れたその一時を崩壊させるように息を吐き出すと同時に叫んだ。


「――ツルギーッ!」



 † † † † † † † † † † † †


 君の声が聞こえる。

 君が俺を救ってくれた。

 君が俺を呼んでくれる。

 君が必死になった、後先も考えずに。

 君が、……。


 虚無の視界の中、君の声が聞こえる。姿は見えないのに笑顔が見える。心配そうな不安そうな表情が見える。慌てた顔も、怒った顔も鮮明に見える。


 心地よい声域は慌てる落ち着かなかった心臓に癒しを与えた。鼓動が一定に静まり聴覚が鋭くなる。


 あの時もそうだった。

 呼ばれる声が小さくも大きく聞こえて竹刀の柄を堅く握り構え、瞳を閉じて正面に対峙するモノを見ずに声だけど見た。そのままに声のままに声を合図に動き、竹刀を突いた。


 ツルギは過去の自分と重なり、その声のままに周囲を視感することなく一歩を踏み出し鞘に納まったままの刀を突き立てる。

 感触は一定かつ確実に空気を仕留めた。空気が頬を撫でて対峙した標的の音が途中で途切れ、時間を数秒跨ぎ背後に着弾する。砂煙が撒き散る音を鼓膜を通して聞き、軽い瞼をそっと開ける。正面に対峙していたモノたちはいなくなっていた。


「……やった」


 首を半周させえて背後に這いつくばる狂犬を目の当たりにして歓喜する。

 気持ちが昂るのを感じるとツルギが現れた森とは別の位置から彼女が駆け寄ってくる。

 喜びに頬が緩み口元が曲線を描き月光が光って影を作って光ってと勝利を活気立ててくれるのを感じる。


「アテラ、やってやったぜ」


 全力疾走の彼女の勢いは止まることをしない。


「さすがに愛しいからってそんな――」


 僅かな距離になってもその速さを殺さずにツルギの懐へ抱き付きながら、


「――ツルギのあんぽんたん、まだ――」


 言葉が途切れたように感じる。なぜならそれは刹那の衝撃。判断回路の遅延。


「――終わりじゃない」


 その言葉と同時か、早かったか、遅かったか、それさえも分からないままに灰色の物体が刹那の一閃を走らせその跡に残るのは白い布の切地と真っ赤な血の滴が宙を舞った一時。


 アテラの勢いはツルギに衝突したことによって抹消されツルギの背中を犠牲に停止する。

 地面に数秒背を擦ったツルギ。砂煙がモクモクと月光の下で沸き立ち視界を消す。


 ――なんだ、背中が痛いのか、擦れた、痛いのか、背中なのか痛いのは、痛くないのか?


 脈が鼓動が遅く遅くなるのが聞こえる。心臓が大きくなったようにはっきりと分かる。

 腹部に乗った彼女が何かを言っている。でも分からない。痛いから分からない。


 ――やっぱいてぇ、でもどこが、……あつい、熱いアツい熱い熱い。


「ツルギ、ツルギしっかりして! フンシー!」


 アテラは砂煙の中イヤリングを指で弾く。すればイヤリングはその形を変形させて精霊フンシーを顕現させる。


「……ふぁあ。なんだいアテラ。こんな遅くに起こして。出発は朝のはずじゃ……これは」

「ツルギツルギ、ツルギ! フンシー煙邪魔!」


 寝ぼけ眼をパチクリさせてやる気の無さそうな表情を浮かべながら、


「全くアテラは精霊使いが荒いんだから困っちゃうなぁ」


 溜息を一つ溢すと砂煙の中、月光が参じることなく遮断された一角の中精霊は光を集め、


「叩く起こされてすぐに命令されたってボクは……。とも言ってられないね。――ていっ」


 調子はずれな声と同時に球体の精霊から四方八方に空気が弾け砂煙が一掃される。


 アテラの細い掌が少年の両肩を優しく強引に揺する。何度も彼の名前を口に出して。


 ――あー、泣きそうな顔。そんな顔すんなよ。


 ツルギの双眸は微かに開き、重い重い瞼が可愛らしい大人びた顔立ちの彼女を最後に閉ざされる。

 何度も何度も揺すり揺すられる最中、その状況をものとしない低い唸り声が一頭から発された。


 赤く光る瞳を鋭く獲物へ向けてから一歩をずっしりと踏み出す。その足の向く先は相方であるもう一頭の犬。

 鼻をすんすんと効かせては、体勢を横向きに変えて呼吸の確認をしている。


「グレーテル。大丈夫かい?」


 横たわる狂犬だった犬は狂気を失い悲壮感を感じずにはいられないほどに大人しく弱弱しく息を吸って吐いて、力なく一言だけ溢す。


「……にいさん」


 アテラもツルギの口元へ耳を寄せてその吐息を聞く。と安心した様子を表情に一度出して胸を撫で下ろす。


「うん、よかった。息はある」


「アテラ、呑気に子守唄を唄っている場合じゃないようだよ」


「うん、フンシー相手出来る?」


「出来るけども、相手はあの子たち。いいのかい?」


 アテラは俯き気持ちを押し殺し呑み込む様に横たわる少年を見つめてから、浮遊する精霊にその真紅の双眸を向けて、


「ほどほどに、ね?」


 精霊はくるりと半回して言葉を吐き出す。


「任せておくれよアテラ。まぁ、寝起きだから保証は出来ないかもだけどね」


 吐かれた言葉と交差するように狂犬が地団駄を踏み入れて突撃を図る。

 フンシーはそれの進行を見極めるためか時間を置いて空気を吸ってから吐き出す。

 空気、息は嵐の息吹になって狂犬の進行を妨害する。


 アテラは精霊の加減の効いた攻撃を確認してから再び少年へと視線を落として、


「ツルギ、大丈夫。私が助けるから」


 少年へ向けた言葉は、自身へ言い聞かせるかのようにして頷いて、少年の血が漏れる抉れ返った腕へ掌を拡げ両手を翳して一心に願うように祈るように真紅の双眸を瞼が隠す。



 † † † † † † † † † † † †


 視界は黒色と紺色が混ざったような色が入り乱れる中、音がする度に火花が弾け飛ぶように電撃が走っているようにも見える。


 遠く遠くから自分を呼ぶ声が近付いては遠ざかる。遠ざかっては近付く。


 身体を揺する感覚を徐々に覚え、小さくも遠くても成人を果たした声がツルギの鼓膜を通る。


『グレーテル、大丈夫かい?』


 その声の主はきっとヘンゼル。ツルギに刃を抜けて、死の恐怖、狂気を目の当たりにさせた張本人。彼の声は聴いたことはあれど思い出せず、その声もまた彼のモノとは思えないほどに狂っていない。

 ただただ妹グレーテルを親身に心配し危惧している他ない。それは狂気の狂の字もなくどこにでもいる兄として当然な正気の愛。


 グレーテル。狂いに狂った狂気の女性。この世の禁忌を犯した兄妹の妹。兄を愛し慈しみ寵愛を持って信愛を曲げなかった狂った女性。

 彼女は他人他者、この世の理に屈することなく自身の、汚く言えば欲。だが彼女は信愛に寵愛に愛慕し愛しむ。その自身の気持ちを曲げることのない狂人の常人。狂い狂って狂った常人なのだろう。


 その二人の愛は偽りのない本物であり、ツルギは一人火花が散る混沌の視界の中思う。


 ――世間から正気じゃない、非常識、狂っている、狂った愛。そう疎まれて蔑まれてもそれは彼らの偽ることのない信実の愛なんだよな。それに、


 混沌の火花が弾ける中、あの時の光景が朧に浮かぶ。


 妹は兄の肉を欲し、兄は妹の欲を満たすために差し出す。していた行為は人外だろう。

 欲を満たして果てては余韻に浸る妹、その妹を躊躇なく蹴り飛ばす兄。そこに愛はあったのだろうか。

 愛が無いのならば、今こうして危惧することはあるのだろうか。


 その答えに至る時、右腕に温もりを感じると同時に感覚が甦り始める。

 右腕に走る激痛が甦り、その痛みは温もりに緩和され上書きされ先刻までの苦痛激痛が無かったことのように思える程に鎮痛さえもない。

 混沌の視界は刹那に弾け消え、黄金色の輝く瞬く光の満ちた心地の良い空間へと一変する。


 彼女の輝きが全身を包み込むように感じて、彼女の煌きが胸の奥に届いて広がる気がして、彼女の祈りが天上から降り注いでくるように思えて、


 ツルギは瞼を上げる。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る