第一章17話『君が呼んでくれるから』

 ――どこだ、アテラ。どこまで行ったんだ。


 背後に置いてきたものを振り返っても暗闇の先、奥まで視界に捉えることは出来ず、何度か方向転換をしたことによって、その背後に置いてきた村の正確な位置は特定することは出来なくなっている。

 月光は無数の木の葉によって遮られツルギへ届ける光は微かであり、その本体の一部さえ見えずいる。


「……月も見えやしねぇし。ったく。そんな時間経ってねぇのに」


 声を張り上げて捜す。と言う方法があると思えるが静かな森の中、動物も少ないのか寝ているのか木の葉の擦れる音すらツルギの動作によって生じる音にすぎない。ならば声を張り上げればそう離れていないであろうアテラの耳には届く可能性は相当高い。だが、それと同時に、


「……でけぇ声出さゃ、あいつらにも聞こえるからな。ちきしょ……」


 アテラに届く可能性が高いのと同じくらいに魔獣、犬の兄妹。ヘンゼルとグレーテルに聞こえる可能性も高い。

 だが心中をもやもやとさせる何かが詰まった気持ちは募り閊えは錠の付いた扉のように開かれることはない。


 ――何か引っかかる。アテラの隣にいたい。使い魔として傍にいてやりたい。ってのも素直な気持ちだ。だけど、何か……。


 忍び足で音を最小限に抑えながら進行と思考する。

 渇いた冷えた空気が気管を通るのが分かる程の気温を肌から身体の内まで感じながら一つの樹木を避ければ少し開けた空間に身を出した。そこは、


「……おいおいおい、マジかよ。隠れ家ってもっと見つからねぇ所にあるんじゃねぇのかよ」


 ツルギにとって思い出深く感慨深く恐怖のひと時が脳裏に瞬時に鮮明に鮮麗にフラッシュバックされるほどに日常の余韻を感じさせない、彼、彼女にとっての日常の空間。


「ここってあの時の……」


 ヘンゼルとグレーテルが住まう隠れ家と言われる場所が眼前に、暗き森から隔離されたはずの一軒が、暗い森に反比例してその空間を目立たせるように引き立てるように、存在感を月光が禍々しく駆り立てる。

 二人の家には明かりが灯っておらず人、生物の気配がそこからは感じられなかった。


 だが、ツルギは生唾を呑み込み渇く喉がその渇きを増幅させて、掠れる喉が嫌なほど咳を促す。


 一つ二つ。草、木の葉が身を擦れる音が背後から近付く。


 ツルギは咳き込むことさえ忘れ腕の毛穴が閉まる感覚、背筋に瞬時に広がる寒気、腹部に忍び込む冷えた空気、ツルギは全身で嫌な鳥肌を実感して眉一つ動かせずに震えることも出来ずに、それでいて口だけは勝手に開き声を発させた。


「――運命の再開ってか、ばっ……かやろう。こちとら微塵も望んでねぇぞ」


 黒目の双眸を必死に現実から背けるのを否定し続け首を少し背後に向けて、双眸を背後に向けてその背後に忍び寄ったモノをその瞳で捉えた。


 暗黒の漆黒の森から覗き見る二つ、四つの赤き眼の光がツルギに集束される。ゆっくりゆっくりと近付く四つの眼。その正体が黄金色の月光に身を晒す。


「……ヘンゼル、グレーテル」


 グレーの毛並の猛獣が二頭。四つの眼を赤く爛爛とツルギを鋭く睨み付ける。

 口からは鋭い鋭利な歯が剥き出しになりそこからだらだらと唾液が地面に零れ落ち、開いてもいない口の奥から猛獣そのモノの威嚇の声を発す。


「話しても……、無駄だよな」


 二頭は二手に分かれツルギの周囲の間合いを一定にジリジリと距離を近付けつつある。

 ツルギは一つ肩を落として溜息を吐き出して腰の鞘に納まる刀の柄にそっと手を置いて姿勢を天上に向けてすっと正して、


「アガ爺、覚えとけよ――ッ!」


 柄を掴み刀身を鞘から数センチ空気に晒せば月光の反射が二頭への合図ともなる。その瞬間に二頭は大地を強く蹴り土煙を巻き上げツルギに向かって跳ぶ。口から剥き出しの歯、大きな口が大きく開きその白い牙がさらに大きく見える。

 刹那に鞘から刀身を抜き棟で二頭同時に弾く。


 が、弾切れず二頭は元のツルギのいた場所へ着地して身を屈めて、ツルギは全身で反動を受けて二頭から少しばかり距離が離れる。


「バカ力にも程があるだろ」


 片手で二頭の突撃と自身の一撃の衝撃を受け稲妻が走ったような痺れが骨の髄まで浸透していく。

 屈み込んだ内の一頭が脚を即座に伸ばしてツルギへ向かって跳躍する。鋭い爪が襲い来る。

 その攻撃を右へ避けるともう一頭がすでに跳躍していた。右足に全体重が掛かり地面を蹴飛ばしその攻撃すら回避することが出来た。

 踵を返して二頭の後を瞬き一つせずに追いかける。


 先陣を切った一頭がすでに方向を切り替え跳躍していた。

 鋭い爪がツルギの首へ斬りかかる。その爪が首をかすめる紙一重に腰を反り返して首が胴体から斬り離れるのを逃れた。

 鋭利な爪先は頬をかすめることなく眼前を通り過ぎる。爪の軌跡が光を残しているような錯覚すら覚える極限状態。

 正面の一頭が唸り、背後の一頭が唸り、


「――ヒト、血。ボク二ニク。人ノ肉、チガ、肉ニクガ、ニクヲ血ガ、骨ヲ、カワヲボク二……」

「――チ、血、ニクワタクシ二ニクに二煮肉ヲ肉ニクニク肉肉肉ヒト肉ニクガ、ニクヲ兄さん二……」


 鋭い歯を剥き出しにしたまま、涎を滝のように溢し続けたまま、瞼が震え赤き眼が訴えかける。

 どちらがヘンゼルでどちらがグレーテルか見分けることも出来ない瓜二つの二頭が同時に跳躍する。


 ツルギは正面の一頭にしか気が掛からずその突撃を刀の平地で受け止める。だが、背後の一頭が渇いた空気を裂きながら背中へ向けて跳んでくる。ただの突進は身構えていなかったツルギにとって大きな衝撃になってさらに開けた隠れ家の正面付近まで飛び転がる。


 背中が痛い。腕が痺れる。全身が震える。手も指も腕も瞼も唇も足も脚も毛先さえ震える。


「……全くてめぇら狂ってやがる」


 背後からの衝撃に備えることをしなかったことによって舌を噛んだのか、口の中に広がる血の味、鉄の臭い。血に唾液が混じり鮮明な赤色を口元から顎にかけて一筋の線を作る。

 歯を食いしばり、刀を地面に突き刺し、震える腕を、手を刀の軸を頼りに重力に抵抗して力を込める。

 震え続ける脚。今にもくたばって諦めて終わりを待とうと折れそうになるのを堪えて、立ち上がる。


 気が付けば森から完全に開けた空間。月光が天から降り注ぐ空間にいた。

 半眼になり今にも閉じそうになる瞼を上げて空で悠々と反射する月を睨み、この絶望的な局面を、激痛と共に感じずにはいられなかった。


「……なんつーか、あの時みてぇだ……」


 ぼそりと呟く少年は月の明かりに焦点を奪われながら過去の記憶と重ね合わせていく。



 † † † † † † † † † † † †


 ――日柳剣、一四歳。三年程前の夏のこと。

 その大きな空間。剣道の全国大会、中学の部。大きな体育館は二階と三階もあり大勢の観客が熱を発して真夏日の猛暑の中、その空間はさらに活気、熱気が込み上げ雲、霧が作られているのではないかと錯覚してしまう程に熱かった。


 試合形式、三本勝負。二本先取した者が勝者とするルール。すでに試合は終盤。

 電光掲示板に一対一。反則判定はツルギにカウントが一つされている。

 場外で面を外し呼吸を整える。


「剣。この試合、必ずにして見せろ。例え反則があろうともお前の竹刀はここで立ち止まっていいモノではない」


「……はい。父上」


 カウントされた反則は誤解であり、その会場の全ての人、審判でさえも分かりきっている。だが反則一回となってしまっている。

 傍らにいる白衣の男が慌てて二人の会話に割り込む。


「――だ、ダメですって! 捻挫。ただの捻挫どころじゃないです。これ以上試合を続行させるのは医師として――」


 五分の既定の時間がすぐに終了し面を被る。湿度で蒸れる中一歩一歩試合場へ歩みを向ける。

 ツルギの父が主審へ「問題ない。続行を願います」と言うのを背中で聞き、


「見ていてくれればいいです。必ず、勝って見せますから――」


 境界線に踏み込み、板張りの床と足の裏が接して熱気に反して冷やす。

 中央の×印から一本下がったところ、開始線に立ち審判員の合図を待つ。

 正面には相手。ただその相手に誰しもが認める一本を射れればいい。だが、ツルギは本音を思う。


 ――ここで負ければ楽になるだろうか。別に、親のためにすることでもねぇ。


 面越しに天井に設けられたライトを呆然と力なく眺める。

 その空間の中の人が静まり試合再開の合図を待った。竹刀が重い、期待が重い、空気が重い、視線が重い。数々の重圧がツルギの力を奪っていく。手が竹刀から解けそうになりながら待つ。

 その誰もが待つ無音の時をたった一人が妨害した。


 扉が大げさに勢いよく開かれ即座に閉められ、爆音が耳に残り空気に張り付き耳鳴りが起きる。

 それを起こしたたった一人が会場の外で全身を屈め起こすと共に肺一杯に空気を取り込む。


 会場の照明が瞬間的にゼロになり中央の試合場にのみライトが照らされる。

 周囲は暗くなり誰かいるのか、何人いるのか、どんな表情をしているのか、何をしているのか。真剣な趣きで見つめているのか、呆れて鼻をほじっているのか、退屈そうに欠伸をしているのか。

 視界に捉えることが出来なくなったその試合場でツルギは天井から降り注ぐ照明の光を浴びて曲がった指が、竹刀の支えになっていた指が伸び切りそうになる刹那。聞こえた。

 周囲がどう思う、感じる、考える。親が期待するからとかじゃない。雑誌に掲載されるからでもない。相手の反則が許せないからでもない。ただただツルギは竹刀を握り締めて構えて合図と共に走り出す。


 君が呼んでくれるから――。



 † † † † † † † † † † † †


 重なった記憶が走馬灯のように駆けていき、天上からの光を全身で浴びる。

 渇いた空気はあの時と違って蒸れていなくて、

 冷えた温度はあの時と違って暑くなくて、

 周囲の期待はあの時と違って一つもなくて、


 ツルギは刀身を鞘に納め、鞘に納まったままの柄を握り、垂れる紐で刀と鞘を結び、構える。


 ツルギは待つ。合図の時を。双眸を閉じて。虚無に瞳を任せて。


 一拍一拍心臓の鼓動を感じて待った。震えていた腕はピンと伸び構えられ、足もまた折れる気配は微塵も見られない。


 瞬間的に二頭の唸り声が鼓膜を震わせた。土を蹴る音さえ研ぎ澄まされて鼓膜に届けた。

 それと同時に、



「『ツルギーッ!』」



 ――君が呼んでくれるから俺は立ち上がれるんだ。



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