第一章4話『真紅の瞳』

 少年が動き出しテーブルが宙を舞うのを外から窓から顔を覗かせた赤毛のアテラ。

 間に合うかどうかは神のみぞ知る未来の話。

 だが、勝手に動いたこの足は止まらないことは分かる。玄関の戸を勢い任せに開ければ絶体絶命の状況が広がっている。アテラの訪れまではの話だ。


 彼女の訪れが少しの猶予をツルギに与えた。

 男は唐突の訪問者で手が一秒。否、それ未満の時間停止した。


 右手に鞘が触れることが出来、確実に手元に収めた。だが、すでに男の時間の停止は再開へと変わっている。

 音も消える錯覚の中男の墜ちて来る刃を確実に睨み付ける。

 右手を刹那にツルギの脚に移動させると同時に逆の手を眼前に持ってくる。柄が眼前に現れ待機した左手で刹那、一瞬で刀身を……


 ――刃と刃が衝突した甲高い音がその空間に響き渡った。そして、はっきりと発した言葉。


「おせぇよ、とろま」


 笑った。ツルギが不器用に笑みを作って。

 鞘から抜かれた刀身の腹で男の刃の軌道を微かにずらすことが出来た。紙一重。刃幅の広い平が頬に触れるか触れないかの距離。刃自体の冷温が伝わったくるのが分かるほどに近い。


 二つに割れたテーブルが墜落する音を耳に入れた。それと同時に、


 男は狂ったグレーの瞳を変えずに逆の手で拳を作り振り上げる。次に来る動作は、


 ツルギは、回避の動作、防御の姿勢すら正しく取る暇がなかった。生死を掛けた。その時生きた。平凡に生きてきたツルギ。脳も身体も状況に最早ついて行くことが出来ないでいる。

 手も足も指も瞼も笑みを作っていたはずの口すら、ただただ瞳に映る現状を脳に送ることもせず、その眼球に目の前の光景を映すのみ。


 死を悟ることも、走馬灯を見ることさえも、現状に抗うことさえも出来ない。

 ただただ何も考えることが出来ない無力な無能な彼は無様に待ち続ける。


 この状況の終末を――、



 † † † † † † † † † † † †


 それ以上に何も出来ないでいる日柳クサナギツルギ

 まるで滑稽。生死の勝負に勝ったと安堵してしまった。決着の尽いていない勝負を途中で勝利への確信をしてしまった。本気の交戦で、試合終了の笛の音が鳴っても尚、その場からの退場まで気を許してははらない。気を抜いてはならない。


 知っている、分かっていた、前まで出来ていた。その真剣勝負というものを。


 だが、彼は、日柳剣は、気を許し抜き、死という敗北の寸前を目の当たりにしても彼は抗えない。


 その眼に映る次の光景。青空よりも空色と深緑の翠色のそれの縦長に潰れかけた悲壮感に当てられた元球体の物体が男に向かって衝突、男の行動の阻害をした。


 音も入らない鼓膜。瞳の焦点のみの視界に飛び込んできたそれを認識するには時間も脳の働きも足りていなかった。

 男が焦点から仰け反り消えるその瞬間の後虚無に消えかかった彼を現世に脳の覚醒を促すのは怒声。甲高くどこまでも透き通る異世界の言の葉。


「――ゲツポ!」


 聞き覚えのある声。異世界に来て初めて聞いた人の声。

 三度の瞬きで焦点が、視界が広がり玄関からの訪問者の姿を始めて確認することが出来た。


 全力投球後の選手の様な姿勢の彼女。

 炎の様に燃えるような明るい薄めの紅色の赤毛が長く伸び、肌の白さがその赤さを掻き立てる。頭の両端を小さめに結んで可愛らしさがある。整った綺麗な顔立ちな彼女のこちらに向けられる鋭くも優しい眼差しの瞳は、髪の赤よりも赤い真紅。

 白いローブの下には短めのスカート。そこから伸びる上品に細く伸びる太股。


 再びツルギは男に視線を戻す。仰け反ってはいるが上体を起こす最中と言っていい。

 そして、その背後に視界に入る狂気。顔面、黒色のゴシック服すらがそれを分かる程に赤に染まっている。その狂気が標的を瞳に捉え一心に彼女へ襲い狂おうとするのを。


「――来るぞっ!」


 その言葉が通じるわけでもない。だが、彼女は反応してくれた。

 人差し指一本を突出し、指先は赤い光を小さく放つと彼女の手前で狂気が動きを停止する。

 その時間はツルギにとっても大きかった。冷静に脳の覚醒を促し鞘に刀身を収め鞘の先端、鐺で男を押す離す。

 男を退きツルギから離れた時、彼女の指先の光が弾けると同時に狂気の女は床に足を着くことなく壁に激しく痛打する。


 彼女はツルギにスッと手を差し伸べた。細い綺麗な小さな掌。その意味は万国共有だろう。

 だが、躊躇したツルギを誰が責めれようか。

 彼の体質。女性に触れることで起きる自身への害。

 死を前にした彼。躊躇するのを腕。怯える瞳は彼女の綺麗な手を見つめる。


「スレェヨ。オコ」


 その優しい声。言葉は分からない。でもだけど、悪意はない。

 それだけは、分かる。

 ツルギは体質関係なく彼女の優しさ善意に向き合いその差し伸びられた掌に手を置いた。


 世界が止まった。違う。彼と彼女が世界から外れた。

 辺り一面周囲一帯を煌くる輝き。ツルギの瞳には彼女しか映らず、彼女もまた真紅の瞳にはツルギしか映さない。

 ツルギは不思議に思った。



 † † † † † † † † † † † †


 ――反応しない。


 アレルギー反応を起こさない。まだ触れて数秒も経ちはしていないとは言っても全身に来るはずの痒み、胃を刺激する吐き気。今までの体質が嘘の偽りのようにそれらは襲って来なかった。


 思い返せば初めからそうだった。


 異世界に来た初めを思い出す。

 確かにあの瞬間彼女の手を振り払い、触れた。

 あの時は、逃げることで必死だったかもしれない。だが、何一つとして身体への異常はなかった。

 異世界だからか?


 違う。

 狂気の女。あいつに起こされたと時に確かにあった。


 今まで今回のような例外はあったか?

 なかった。母にすらアレルギー反応を起こし、親身に慕ってくれる幼馴染にも向き合えずいた。その他の人も同様、それ以上だ。電車に乗り知らない人が触れずに隣に座る。その行為だけで体は意思を無視して反応してきた。


 なのに、今回はなぜ……?


 彼女のことだって知らない。むしろ、訳分からん言語を喋る赤毛の女。

 森で浮遊しながら追いかけてもきた。

 視線を交わしただけで気が狂いそうになる反応をしたとしても可笑しくない。


 それなのに……


 なぜ、彼女は、特別なんだ。



 † † † † † † † † † † † †


 止まった時間の異世界からも外れた空間の中、言葉の通じない彼女に問う。


「君は一体何者なんだ……。それにこの状況……」


 ツルギは辺りの光が優雅に煌き踊る果てしない空間を瞳の奥まで映す。

 そんな困惑のツルギを差し置いて彼女は不意に笑みを溢した。


「……スレェヨ。オコ」


 先刻と同じ一言。ツルギはもちろん分からない言葉だった。だが、彼女がツルギの不安、心配、動揺を修祓しゅうふつさせようと言った言葉と言うことは分かった。


「安心して? 大丈夫?」


 ツルギがツルギの居た世界、日本の言葉で推測できた言葉を疑問形でオウム返し。いや、オウム返しと言うには言語が違いすぎるか。


 灼熱の色をした赤毛がふわりと重力に逆らった。周囲の光たちもそれに同調するようにゆったりゆったりと、浮遊する。

 彼女がツルギの額の手前に掌を翳してこの世界の言葉を呟く。


「ヨウェェ、ギヴェメイェウィセドモ」


 掌が青白く光り、その光がツルギの額へと接近すると溶け込むように入り込み消える。

 ツルギはその光、彼女の行動に何一つ不安感を抱くことなく全てを受け入れた。


 脳に流れるツルギの居た世界の言葉の数々。ツルギの知っている言の葉が無数に瞬く天の川の様に流れる。それらに重なるように知らない言の葉……、


 否、知らなかった言の葉がツルギの知恵として異世界の言葉と元居た世界の言葉と一致した。


 呆然と襲い来る知識の波に脳裏が思考を停止させる。その停止を動かすのは目の前の赤毛の彼女。


「――初めまして。分かる? 私は、アテラ。あなたの名前は?」


 聞きたかった。彼女の言葉。分かりたかった言葉。透き通った甲高い声と口調は平準だがその容姿と声に一致する。

 なぜかは分からない。異世界に来たからか、狂人に遭遇したからか、彼女が美しいからか、この謎な空間のせいか、ツルギの言葉は震える。


「つるぎ……。くさなぎ、ツルギ――」


 それを聞き満足気に優しく笑顔を作ってみせた彼女。その笑顔を機に謎の空間から戻り、再び停まっていた時間が続きから秒針の音を立てて動きを再開させる。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る