第一章3話『狂った二人』
逃げた。逃げられた。自分の落ち度だ。
彼女は少年の逃げた方向へ宙に浮き追う。
木々の妨害なんてものは妨害にならない。
「なんて速さなの。手加減なんてしてないのに」
「アテラ、鈍っているんじゃない? あ、太った?」
「その辺に放り出してもいいのよ?」
「……あ、見えたよ」
「フンシー、都合悪くなると会話を変えるのは悪い癖だよ。……前言撤回。しっかり掴まってって」
無い手で必死にしがみ付くと速度が上がる。フンシーと呼ばれる球体が言ったことは事実であり呑気に棒立ちしている少年の姿を確かに捉える。だが、少年も馬鹿ではないようだ。
追いかけるモノが化け物に見えているのか必死な形相で逃げ出した。逃がさないと意気込みを入れたその時、
「――停まってアテラ!」
その声に急停止。彼女の勢いは刹那に無くなる。ローブはそれと別で進行方向に行こうと暴れる。ついでに球体フンシーも飛んでいく。
フンシーは勢いよく木へ強打し地に目を回して転げ落ち、その球体のせいでころりころりとアテラの足元へ転がった。
「……乱暴だな全く君は。危うく弾けるところだったじゃないか」
「ふん。弾けても再生するんだからいいじゃない?」
「怒ってる……」
「怒ってません」
即答し口を尖らせ明らかに憤怒している。フンシーは蒸し返しても増々機嫌が優れなくなると悟り本件に移す。
「アテラ、その石碑を見てごらんよ」
アテラの停止した傍らに先刻少年が阿呆面で見ていた石碑がある。
「これが? 普通の石碑じゃない?」
アテラの機嫌は疑問で悪い状態から治っただろう。フンシーはふわりと地から浮かびアテラの傍らに浮遊する。
「よく見るんだ。この文字を」
苔で見え辛いが書かれた文字。現在のこの世界に存在しない文字。それはアテラにもフンシーにも解読出来ないだろう。
月が明かりを反射させ周囲は月光に晒される。
「それをあの少年が阿呆面で見ていた。分かる分からないはともかくこの石碑に携わる人物なのかもしれない」
アテラは何も語らずフンシーを強引に肩に乗せて地から足を浮かばせると今までの比にならない速度で少年の後を追った。
数分、数十分追った。その先に光る灯が一つ見える。人の気配を感じたアテラは地に足を着けて徒歩で近付く。
家の壁の横に横たわる少年すぐさまに捕まえようとしたその時。
家の戸が開き中から二人の男と女が出てきた。女はすぐに少年に気が付き駆け寄った。力なく横たわる少年を仰向けに起こす。少年は意識が薄いのか反応を微動だにせずにその女に体を任せていた。
女が口を開き言葉を発するのを耳を凝らして研ぎ澄まし聞く。
「兄さん。人間です」
続けてその後ろから月を不敵な笑みで睨み返す。
「今晩は、宴になるね」
その言葉が意味するのは何かは分からない。だが、アテラは震える。その二人の狂気に満ちた瞳と魔道に戦慄、震慄する。
月はそんな狂った二人の興奮を掻きたてるように狂気に狂わせるようにそこから月光を降らせる。
† † † † † † † † † † † †
外へ毀れる室内の明かり。それから避けるように外壁に背を任せ室内から聞こえる会話盗み聞きするアテラとフンシー。
甲高い女の声が引き笑いを頻繁にしている。
「……さあ、兄さん。今日は珍しい脂の乗った人間ですわ。ふふ」
「煮るのもいいが、生で刺身も一興ではないか」
「兄さん。ふふ、太股は焼きましょう、こんがりと焼けた」
その言葉を耳にした時、咄嗟に窓から瞳を覗かせてしまう。中の状況を確認しないといけないのだ。
奥の釜戸で大鍋の中身をゆっくりと混ぜる。漆黒の派手な唯一肩が露出している部分を除けば妃の着る様な服の女。髪は、長く二つに束ね、少し青みのある薄い紫色の紫苑色一色。瞳の色はグレー色。
女の背の方向に見えるのは、同色の短髪男。椅子に座りその男の前に、テーブルに寝かされる少年。手脚の拘束はないがあの時、召喚時持っていた棒は傍らに無かった。
アテラが内部を確認しながらに、女は続けている。
「匂いを想像するだけで……わたくし、もう……」
「まだ我慢するんだよグレーテル。さあ、おいで……」
狂った瞳を向けたグレーテルと呼ばれた女が涎を垂らしながら頬を桃色に紅潮させて近寄った。
男は立ち上がりグレーテルを抱き寄せてそっと口元に唇を差し出し舌を伸ばせて見せた。グレーテルは躊躇なく遠慮なく強引にでも愛おしそうに男の舌を噛み千切り、血塗れになった口元を気にも止めずにさらにさらにと噛み、千切り、呑み込み。根元と舌の残りも欲しているのか声と呼ぶには遠く吐息と言うには悍ましい。
「にぃさん、んぅ……。あむ、はぁあ、にぃさぁん。にぃさんの、おいし、んぐっ。あぁあ、あぁ、あ……」
にっこりと笑みを浮かべたと思われる男。思われると言うのは血に汚れた顔で表情が見えないからだ。
お食べ。と言わんばかりにさらに舌を出すと、もう食せる部分が無くなったのかグレーテルは男の頭を無理矢理に自身に近付けて無くなった舌の根元をずるっと吸い始めた。
アテラはそれ以上の光景を見ることを止め再び窓から外壁に背を預け、突撃の隙を窺った。
「にぃさぁぁあん。おいしいですわぁ……にぃさんの、すっごくぅ、おいひぃへふ……」
† † † † † † † † † † † †
異質な音が脳の目覚めを急かした。その音こそ男女の営みに聞き間違える程に色欲を悟るかのように。だが、薄らと瞼を上げれば誰一人としてそんな馬鹿げたことは思わない。
女が男の口に食い付き、否、喰い付いている。顔、服を血に染める。
その光景を見続ければ狂気に狂うのは必至だ。ツルギは現実で起きている錯乱した行動から目を背けるため再び瞳を瞼の裏側に戻した。
十分くらいだろうか、もっと短かったかもしれない。だが、その時間はツルギの感覚をも狂わせたのだ。異音が止み吐息に変わった。再び瞼を薄く上げる。
身体を震わす漆黒のゴシック服の紫苑色のツインテールの女が焦点の合わない瞳をどこかに向かわせている。ぼそぼそとまた奇怪な言語を言っているが、それはもう言語ですらないと悟る。
顔を血で赤くし、肌色の肌は桃色に紅潮している。
――もう一人はどこだ?
薄くした瞳を部屋に巡らせ耳を澄まし居場所を把握しようとする。が、先刻の狂乱で動揺しているのか背後に近付いた気配に気付くことはなかった。
室内からの異音は吐息に変わり、事の終わりが分かったアテラ。
窓から瞳を覗かせると、狂気に汚染され切った女が昇天しぼそぼそこの世の言葉でない言葉なのか、ただただ聞き取れないのか、呟き続けていた。
少年への外傷は見られず無傷のようだ。なんて安堵している暇はなかった。
窓際から音も立てずに近付く男。その手には、包丁。刃幅が広く長方形の形をした大きな包丁は、一般人からしても普段使うものではないのは分かる。
それを大きく天井に向けて翳す。振り下りる。咄嗟に叫ぶ。
「――危ない!」
言葉が通じないのも分かる。でも、魔力を練るよりも早くに危機を知らせる。その方が少年の命を助けられる。確信があった。
あの俊敏な逃げ腰、逃走の素早さ。蟠竜といい勝負が出来るかもしれない。それほどの少年。だから信じれた。そして、アテラの召喚に訪れをした本人だからだ。
† † † † † † † † † † † †
「――ダンゲロウソ!」
聞き覚えのある確かな異世界の言語。
なんだかんだで心地の良い高さの声は言った。ダンゲロウソ。と、ツルギは分かるはずのないその言葉の心髄をすぐさまに悟る。危機の警告だと。
そしてその元凶は背後にいる確かな狂気そのモノと言うこと。
刹那に転がり乗っていたそこから落ちる。それと同時に狂気そのモノが殺せなかった勢いのままテーブルに刃を強引に刺した。
ツルギから見える景色。テーブルから刀身が剥き出された刃幅の広い菜切り包丁。太さも刃幅も刀身も元の世界の菜切り包丁とは比にならない大きさだ。
刃を抜こうとテーブルを乱すが床にテーブルの破片の木がぼろぼろ落ちてくる。
――今の内だ。刀は……。
視界に部屋全体を送り届け玄関であろう扉近くの壁の端に立てられていた。鞘から抜かれた気配すらなく武器などには興味ないのだと分かる。ツルギの背後の狂った女は未だ焦点の合わない瞳を震わせ口元を真紅の赤に染めたまま頬を紅潮させている。
――今なら行ける!
そう確信したツルギ。こちらの武器は出入り口のところ。距離的に見ても五メートルくらい。
幸いにも男の武器も抜けず悪戦苦闘。
ツルギは駆け出した。テーブルの下を潜り抜け何の間もなく辿り着く。予定だった。
逃げ出したツルギに刹那に気が付き、武器をテーブルごと持ち上げると右半回転をして投げつけた。その行動に左足でグレーテルを蹴り飛ばしたのに意味があったのかは分からない。
背後からの強引な行動は後ろに目がなくても分かるだろう。ツルギは刀の一歩手前で投げられたテーブルへ回転蹴りを与えて致命傷を回避するが重みと勢いのあるテーブルは食卓を乗せる団欒の土台の役割を失い武器としてやってきた。身体へのダメージは足との接触の痛感以外ない。テーブルはその場で重力に導かれ床に落ちる。
男はグレーテルを蹴り飛ばしたと思えば、言葉にならない嗚咽に似た音を喉から無理に発した。
瞳は輝きという言葉を知らないようだ。灰色。言葉通りの灰のような色と燃え尽きた輝き。全てを蔑んだ眼。蹴飛ばした女のことでさえ。
女の安否を確認する動作すらせずに気にも止めずに身軽になった武器の刃を目的に向かって鋭く突き立てタイミングを計らったようにテーブルから少年の姿が覗いた。
バランスを崩し掛けた瞬間テーブルの向こうから狂気がやってくる。悍ましく輝く刃が訪れる。身体のバランスを取っていた足先にテーブルの角が触れた瞬間に全身の体重ごとテーブルを天井へ向けて蹴り上げる。
奇跡的に刃の平に当たり男の目的から逃れる。
床と背中の衝突。死の寸前の脳の働きから次に移したい行動は明確。刀をこの手に。
だが、身体の動きはその明確な行動に付いて来ることはない。ただ手が欲するそれに届こうと動いただけだ。
男の弾かれた武器勢いが失った矢先。そんなことはお構いなしとばかりにテーブルに鋭く深く刃で真っ二つに斬る。まだそれらが落ちる前に男は両手で柄を握り振り下ろす。
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