旅の続き

 穏やかな春の日差しを浴びながら満開の桜並木の通りを二人で歩いていると、誰かに名前を呼ばれた気がした。

 「今、誰か俺のこと呼ばなかった?」

 「そんな声聞こえなかったわよ。気のせいじゃない?それよりさ、ベンチにでも座ってちょっと休憩しない?なんか歩き疲れちゃった。」

 「そうだね。缶コーヒーでも買って、休憩しよっか。」

 「またコーヒー?朝も飲んでたよ。太一はほんとコーヒー好きだね。」

 「…そうだな。」

もうずっと前のことなのに、この公園で缶コーヒーを買うとなぜか切なくなってしまった。

  

 梅雨が終わり、蝉の声が聴こえ始めた頃だった。彼女は静かに一人で旅に出た。誰にもお別れを告げず、何の兆候も見せず、ただひっそりと。前日の夜まで咲菜さんと三人でトランプなんかをしながら笑いあっていたのに。帰り際に「おやすみ」と言ったのが最後の言葉だった。あまりにも急だったので、早朝に病院から電話がかかってきたときはにわかに信じられなかった。病院がそんなふざけた嘘をつくはずもないのだが、「嘘ですよね!?」と、何回も聞き返してしまった。すぐに咲菜さんに電話すると、咲菜さんは一言「わかった」とだけ言って、仕事を休んで病院に駆けつけてくれた。

 案内された部屋に入ると、医者がベッドの横に立っていて、彼女の顔にはすでに白い布が被せられていた。その姿を見て、やっと彼女の死を理解できた。もう、この世に彼女はいなくなったのだ。ゆっくりと彼女の傍に近寄ると、医者が小さな声で言った。

 「…あまりにも急でした。夜中に看護師が見回ったときは異常がなかったみたいです。しかし、朝になって…。」

自分は医者の言葉を遮って、言った。

 「…そうですか。わかりました。」

 「ご冥福をお祈りいたします。」

そう言って医者は部屋から出て行き、入れ違いで咲菜さんが入ってきた。特に目に涙は浮かべてはいなかった。自分もそうだった。もう、ずっと前に覚悟はできていた。咲菜さんと二人で、彼女の顔にかかっている布を外した。穏やかだった。まだ眠っているかのように、少し笑みを浮かべて。

 「…この子、笑ってるのね。きっと最後は苦しまなかったんでしょうね。」

 「…そうだな。眠ったまま行っちゃったんだな。俺らになにも言わずに。」

 「この子らしいわね。」

 「ええ。最後まで咲空愛は咲空愛だった。」

覚悟はできていた。けど、彼女の顔を見るともうどうしても涙が溢れてきた。彼女とのいろんな思い出が蘇ってきてしまった。それは、咲菜さんも同じらしかった。

 「もう泣かないって思ってたのに…すいません、いろんなこと思い出しちゃって、涙、出てきちゃいました。」

咲菜さんはそっと傍にあったティッシュを二、三枚手渡してくれた。

 「私も。この子に出会えて本当によかった。短い間だったけど、本当に楽しかった。いなくなってもずっと親友には変わりないよ、おやすみ、サッキー。」

 「おやすみ、咲空愛。」

そう彼女に呼びかけて、二人でしばらくその場で泣いた。

 葬式は、それはもう簡単なものだった。彼女が死んだことを伝える親戚もいないし、参列する人もいない。一応、新聞のお悔やみ欄には名前を乗せたが、誰も来る気配はなかった。唯一伝えた人物と言えば、以前彼女のことで相談に乗ってもらった雄大ぐらいだった。たった三人で簡単な通夜、葬式を済ませた。棺を閉じる前、咲菜さんが花束と一緒にそっと彼女の顔の傍にある物を置いた。雄大がそれに気づいて、言った。

 「ん?その青い物はなんでござるか?」

咲菜さんは少し微笑んで答えた。

 「これはね、この子がずっと着けていたシュシュ。大好きだったみたいね。髪の毛がなくなってもずっと傍に置いていたのよ。」

 「そうだな。ずっと着けてた。」

 「ふむ。女性にとって髪がなくなるのは悲しいことだからの。」

 「…そうね。それにしても、自分でラストメイクしといて言うのもあれだけど、本当に綺麗ね。」

彼女の顔は、本当に美しかった。咲菜さんのメイクのおかげもあるが、それだけではない。彼女は恋をして、親友ができて、自分の夢を実現させて、本当に綺麗になった。初めて出会ったあの日とはまるで別人のように感じた。彼女の顔を見ても、もう涙は出なかった。逆に泣いていたら彼女に怒られたかもしれない。「泣くな、馬鹿」って。彼女がずっとそうだったように、最後まで笑って送り出してあげることが大切だと思った。

 もうどこを探し回っても、彼女の姿を見つけることはできない。彼女の温かい身体を抱きしめることもできない。けど、自分の中でずっと彼女は生き続けているし、ずっと好きな人だ。いろいろ大変だったけど、彼女と出会えて、恋ができて本当によかった。またそのうち違う人を好きになるだろうけど、それでもずっと好きな人だ。

 葬式も終わり、自分は新しい仕事に着き、徐々に落ち着きを取り戻した頃だった。ふと咲菜さんから電話がかかってきた。

 「太一さん、お久しぶり。今、電話大丈夫?」

 「はい、大丈夫です。」

彼女が死んだ後、咲菜さんとはしばらく連絡をとっていなかった。自分の生活を落ち着かせたかったのもあったし、咲菜さんが自分に少し気があるのもわかってはいたが、やはり彼女のことを思い出すとどうしても他の女性とデートするという気分にはなれずにいた。

 「急な電話でごめんね。あのね、実は昨日、あの子から郵便物が届いたの。」

 「…咲空愛から?どういうこと?」

 「それがね、あの子が生きてる間に内緒で私宛に送ったみたいなの。太一さんのところには何か届いてない?」

 「いや、特に…あ、すいません。誰か来たみたいなんでちょっとまた後でかけ直します。」

そう言って、玄関まで行きドアを開けると、宅配屋のお兄さんが汗をダラダラ垂らして立っていた。

 「あ、お荷物届いてます。ハンコかサイン、お願いしまーす。」

まさかとは思ったが、送り主を見ると彼女だった。その場ですぐに茶封筒を開けると、中には一冊の分厚い本が入っていた。急いで咲菜さんに電話をかけ直した

 「あ、すいません咲菜さん。今ですね、俺にも届きました。咲空愛から。なんか本みたいなんですけど…咲菜さんは何が届いたんですか?」

 「本?私は、スケッチブックだったわ。ほら、彼女の荷物のどこを探しても出てこなかったやつ。太一さんの本には何が書いてあるの?」

片手で本を開いてみると、それは彼女の日記だった。どうやら毎日密かに日記を書いていたらしかった。

 「…日記、みたいです。分厚い本にびっしりと書き詰めてありますね。」

 「変なの。あの子、密かに日記なんてつけてたんだ。それ、見てみたいな。あの…今から会えませんか?」

 「…えぇ、俺は大丈夫です。じゃあ、あの本屋の前の喫茶店で。」

 真夏の太陽が照りつける中、車の冷房をガンガンにかけて喫茶店に向かった。そう、彼女と初めて二人で行ったあの思い出の喫茶店に。店内に入ると、咲菜さんはもうすでに席に座っていた。久々に会った咲菜さんは少し髪を短くして、色もちょっとだけ茶色になっていた。気のせいか、前にもまして美人になっているような気がした。

 「お久しぶりです。髪の色、変えたんですね。」

咲菜さんは笑顔で言った。

 「そうね、ちょっとしたイメチェン。黒色は暑いからねー、久々に茶色にしてみたんだ。どう、似合ってる?」

 「もちろん、似合ってます。」

ちょうど店員が通りかかったので、呼び止めた。

 「あ、すいません。注文お願いします。ホットコーヒー、ブラックで。咲菜さんは?」

 「こんな暑い日にホットコーヒー!?太一さん、変わってるねー。私はアイスコーヒーでお願いします。」

そう言われればそうだ。注文し終えてから気づいた。自分でもなんでこんな馬鹿みたいな猛暑日にホットコーヒーを注文したのかわからなかった。ただなんとなく、自然にその言葉が口から出てきた。「ホットコーヒー、ブラックで。」

 「そういえばさぁ、咲空愛のスケッチブック持ってきた?」

 「うん、もちろん。見る?私もまだ最後まで見てないんだけど。」

そう言って咲菜さんは紙袋から少し薄汚れたスケッチブックを取り出した。間違いなく彼女がいつも手放さず持っていたやつだった。

 「…なんで咲菜さんに送ったんだろうね。」

咲菜さんは少し考えてから言った。

 「おそらく…自分の身体と一緒に燃やされると思ったんじゃないかな。うん、絶対そうだな。あの子の場合。嫌だったんでしょうね、自分の思い出が燃やされるのが。」

 「そっか。そうかもね。シュシュは一緒に燃やしちゃったけどね。」

 「あれはあれでよかったんじゃない?きっと今頃、前みたいに長い黒髪生やしてさ、あの青いシュシュ着けてると思うよ。そういえばあの子、私がどれだけ勧めても絶対髪の毛染めようとはしなかったなぁ。なんかさ…あの子の話してると止まらなくなりそうだね。」

そう言って咲菜さんはまた微笑んだ。その弾けるような笑顔のせいなのか、久々に女性と話したからなのか、妙に緊張していた。

 「そうだね。」

スケッチブックを開くと、最初のほうはもう何回も彼女に見せられた、旅先で描いた街中や桜なんかの絵だった。

 「ここらへんは何回も見たことあるなぁ。咲菜さんも見た?」

 「うん。二、三回は見せられたかな。なかなかセンスがあって上手なのよねぇ。」

ページをまくっていくうちに見たことのない絵が出てきた。どうやら病室のベッドの上からいろいろ描いていたらしかった。特に何の変哲もない病室の風景。窓の外に見える街路樹や車。机の上の本。カーテン。花瓶。たしかに彼女は一人では移動できなかったが、他に描くものはなかったのかと思うぐらい、自分たちにはどうでもいいような絵ばかりだった。

 「なんか、変わった絵ばっかりだね。」

 「けどきっとあの子にとっては、すべて美しかったのよ。カーテンも、花瓶も。そして、何かを書きたくてしょうがなかった。」

その咲菜さんの言葉に少しは納得できたような気がした。そうだ、以前ホテルのベッドの上で見せてもらった朽ち果てた空き家の絵だって自分には理解できなかった。けど、彼女から見たらそれは美しかったのだ。

 「…あれ?最後のページ、中途半端で終わってる。何だろう、これ?」

そう言って、咲菜さんはスケッチブックを指さした。たしかにそのページの絵は描き書けだった。相も変わらず、病室を描こうとしたみたいだが、描いてあったのは部屋の一部分だけだった。

 「これが窓の一番上の部分で…この下には何を描きたかったんだろうね。」

 「もしかして…私たち、かな。」

 「…え?どういうこと?」

咲菜さんは数秒の間、何も答えなかった。

 「…特に。なんでもない。」

もうこの時点でなにか空気がそういう感じになっているというのはわかっていた。これが自分の思い違いだったらものすごく恥ずかしいことだったが、以前病院のカフェで咲菜さんの気持ちを少しだけ聞いていたから、なんとなく確信はあった。けど、自分からはどうしても言えなかった。それでいいのかどうか、ずっと迷っていた。

 「そういえばさ…日記帳は?」

スケッチブックを閉じてしばらくの沈黙の後、静かに咲菜さんは言った。

 「あ、うん。もちろん持ってきたよ。はい、これ。実は俺もまだ中身見てないんだ。」

カバンの中から分厚い日記帳を取り出して机の上に置いた。

 「…なんか、スケッチブックと違って開くの緊張するね。」

 「そう、だね。」

そう言い合いながら、自分はゆっくりと一番最初のページを開いた。はじまりは、あの南の島に到着したときの日記だった。

 〈○月×日。今日から旅日記をつけてみようと思う。やっと到着した。もう思い返すことはないって思ってたけど、やっぱり何かひっかかる。あいつが、太一が今どういう顔をしているか、気になる。悲しんでいるだろうか。まさか、喜んでるのだろうか。なんでだろう。これでいいって思ってたのに。自分の夢をやっと実現させてるのに。なんでだろう、気分が晴れない。けどここまで来たんだ。引き返すわけにはいかない。〉

 「旅の初日からこんなこと考えてたのか。喜んでる、ってなんだよ。そんなわけないだろ。」

呆れはしなかったが、なんとなく嬉しいような悲しいような複雑な気分になった。

 「まぁそれだけあの子は太一さんのこと大好きだったのよ。けど旅をするのは今しかないって思ったから一人で旅に出た。今となったら、これでよかったのよ。もうちょっと遅かったら旅に出るどころじゃなくなってたからね。」

彼女は結構な筆まめだった。一日も欠かさず日記を書き続けていた。交差点のど真ん中で出会ったあの日のことももちろん日記に書いてあった。

 〈○月×日。今朝、太一の夢を見た。ずっと考えてるからかな。詳しくは思い出せないけど、どこかで太一と出会う夢。正夢だったりして。まさかね。けど、そうであってほしい自分が少しだけいる。やっぱり会いたい。けど…もう無理かな。さて、そろそろ気持ち切り替えなくては。今日はどこ行こうか。寒いけど、また街の中をブラブラ歩いてみようか。〉

 「…正夢ねぇ。」

そう小さな声でつぶやくと、咲菜さんがにやけながら言ってきた。

 「正夢だったんだねぇ。やっぱりあなたたちは結ばれるべきカップルだったのかもね。この日の夜、ものすごく熱かったんだってねぇ。」

 「…ちょっ、え?なんで咲菜さんが知ってるんですか!?あいつ、そんなことまで言ったの!?」

赤い顔をして慌てる自分を見て、咲菜さんは笑って言った。

 「そうだよぉ、あの子から全部聞いてるんだよねぇ。君が病室にいないときは女子会だったからねぇ。あんなことやこんなことも…。」

 「もう言わなくていいから!恥ずかしい…。」

 「んー、太一さんからかうのなかなか楽しいかも。これからも…あ、なんでもない。」

 「…これからも?」

咲菜さんは何も言わず日記帳をパラパラとめくっていった。自分が不思議な顔をしていると、咲菜さんは話をそらすようにして言った。

 「あ、このページから入院中の話だよ。ほら、読んでみて。」

 「ほんとだ。んー、そうか。俺が見てないところでいろいろあったんだね。そうだねぇ…。」

正直、あまり日記の内容が頭に入ってこなかった。さっきの咲菜さんの言葉が妙に気になっていた。

 「ねぇ、ちゃんと読んでよ!」

 「…えっ?」

咲菜さんに急に怒ったように言われたのでびっくりしてしまった。しかし、咲菜さんの顔を見ると逆にキョトンとして自分を見ていた。

 「え?どうしたの、太一さん。」

 「え?いやだって、咲菜さん急に怒りだすもんだからびっくりしてしまって…。」

咲菜さんは不思議そうな顔をして言った。

 「怒ってないけど…。たしかに、ちゃんと読んでる?とは言ったけども…怒ったように聞こえた?」

 「いや。けどたしかにさっき…。」

そう言ってから気づいた。そういえば、さっきの声、咲菜さんじゃなかった。あの声、あの聞きなれた声。

 「…咲空愛?」

咲菜さんはますます不思議そうな顔になって、自分の顔を覗き込んできた。

 「…サッキー?太一さん、大丈夫?どうしたの?」

 「さっきの声…咲空愛だった。絶対そうだ。ちゃんと読んでよ、って。近くにいる。咲空愛が近くにいるんだ!」

そう言って、つい立ち上がってしまった。当然、周りの人達の視線を一気に集めてしまったのはいうまでもない。

 「…ちょっと。落ち着いてよ、みんなこっち見てるよ。」

咲菜さんにTシャツを引っ張られて、ゆっくりと席に座った。

 「本当なんだ。咲空愛が傍に…。」

ふいに咲菜さんが自分の手を優しく握った。

 「わかったよ。あの子が傍にいるのね。わかった、十分わかったよ。きっといろいろ心配になって見に来たのね。」

いつのまにか、自分の目から涙がこぼれていた。もう泣かないって心に誓ったのは何回目だっただろう。何回誓っても結局泣いてしまう。そんな簡単に破られる誓いなら、もう意味などないのも同然だった。

 「咲菜さん…俺、咲菜さんの気持ちわかってるつもりでいる。わかってるけど咲空愛のこと思い出すとどうしても…。」

咲菜さんは手を握ったまま、小さな声で言った。

 「…そうね。」

そのまま二人とも下を向いたまま無言になった。本当は、咲菜さんのことが好きだった。病院のカフェで咲菜さんが自分に好意があると知ったときから、ずっと。もちろん彼女が生きている間は彼女をずっと愛していた。けど彼女がいなくなってからも、どうしても言えなかった。それは恥ずかしいとかフラれたらどうしようとか、そういうことではなく、彼女にどう思われるのかという問題だった。もうこの世にいないわけだし、どう思われるかなんてわかるわけがないのに。それでも後ろめたい気持ちになった。自分の愛した人の親友を好きになる。それでいいのだろうか。正直なところ、咲菜さんの言ったことを少し疑っていた。本当に彼女があんなことを言ったのだろうか。

 「…最後まで、見てみようか。」

しばしの沈黙のあと、咲菜さんはそっと独り言のように呟いてゆっくりと日記帳のページをまくりはじめた。

 「最後の日、どんなことが書いてあるんだろう。」

二人で闘病中の彼女の心情などを思いながら、日記を読み進めた。日記の中でも彼女は辛いとか苦しいとかいうネガティブなことはまったく書いてなかった。ただ、平凡な日記だった。その日の天候だとか、読んだ本だとか、看護師さんと話した内容だとか。自分の病気や体調などには一切触れていなかった。

 「んー…なんていうか、平凡な普通の日記だねぇ。ほんと、なんのためにこれを俺のところに送ったんだろ。」

咲菜さんは何も答えず、黙って日記を読み進めた。そして、とうとう最後のページにきてしまった。それは彼女が死ぬ三日前に書かれたものだった。

 〈○月×日。もう、長くないかな。別に痛いとか苦しいとかはまったくないんだけどね。そんな気がする。いつ死んじゃうかわからないけど、これを最後の日記にする。そして、私のこの最終日記を太一と咲菜さん、二人に捧げます。

 親もいない、親類も友達もいない私の傍にずっといてくれたのは二人だけ。本当に感謝してる。おかげで本当に楽しい人生になった。もっとずっと一緒にいたかった。もうこれ以上何も書かなくていいよね。そういや太一、私の夢もう一つあるって前に手紙に書いてあったの覚えてる?私の夢。それは太一と結婚して幸せな家庭を築くこと。もう、叶わないけど。それだけ太一を愛してたってことだけ覚えててね。太一も同じ気持ちだったなら嬉しいな。

 最後の最後だけど、私の勝手なお願いをきいてほしい。咲菜さんには前に言ったことがあるんだけど、私がいなくなったら、二人が恋人になってほしい。私がいなくなったら、そのうち太一は誰かと付き合う。それはしょうがないこと。だけど、そう考えると私は辛いんだ。勝手だけど、太一を他の女に取られたくないんだよ。咲菜さんが太一に少し気があるって気づいたときは本当にショックだった。けど親友だから信じれた。私が死ぬまで太一には手を出さないだろうって。だから、咲菜さん、私がいなくなったら我慢しなくていいよ。太一が咲菜さんを選ぶかどうかは、それは太一の勝手だけどね。けど、他の女と付き合うのなら咲菜さんを選んでほしい。そして、二人で幸せになってほしい。私は、死んだらまた旅に出る。二人が幸せであるなら、心残りはないよ。たまに二人の笑顔を見に戻ってくるよ。

 なんか長い日記になっちゃったな。もう眠くなってきた。お幸せに。ありがとう。本当に、ありがとう。〉

 咲菜さんは、ゆっくりと日記帳を閉じた。そして自分のほうを見て、言った。

 「…どう、思う?」

咲菜さんの目からは今にも涙がこぼれ落ちそうだった。自分は少し困ったように言った。

 「どう思うって言われても…。」

 「そうだよね。どう思うかってね…。」

咲菜さんの言っていたことは本当だった。彼女の最後の願い。二人で幸せになること。自分が愛した人の願い。もう迷いはなかった。

 「俺は…好きです。」

 「…えっ?」

咲菜さんの潤んだ目をみつめて、言った。

 「俺は、咲菜さんが好きです。」

 「…本気で?」

 「もちろん、本気で。」

咲菜さんの顔は嬉しそうだった。が、すぐに顔を俯かせて言った。

 「けど…それはあの子の願いだからなんでしょ?太一さんは、あの子のことを心の中でまだ愛してるんでしょ?だったら…。」

 「違う。俺は…。」

 「…俺は?」

途中で言葉が出てこなかった。もう冷めきってしまったコーヒーを少し口に含んでから、自分の気持ちを思い切って伝えた。

 「俺は…病院のカフェで咲菜さんの気持ちを知ったときからずっと咲菜さんが好きだった。けど、咲空愛がいなくなってからもどうしても言えなかった。ずっと迷ってた。これでいいのか、って。咲菜さんは咲空愛の親友だから。咲空愛がどう思うのかって、考えてた。けど、今この日記を読んで気持ちの整理がついたよ。」

咲菜さんはまた涙を流していた。

 「本当に、それでいいの?」

 「これでいい。咲空愛のことは頭の中から消えないと思うけど…これでいいよ。もう、いつまでも迷ってる場合じゃないよ。二人とも。咲空愛がいなくなったからって時間が止まるわけじゃない。前を向いて、次に進んでいかなきゃ。だから…咲菜さん、俺と付き合ってください。俺と一緒に、歩みを進めてくれませんか?」

咲菜さんの顔はもう涙で化粧もところどころ落ちてしまっていて、ぐちゃぐちゃだった。周りの視線も気にせず嗚咽を漏らしてしばらく泣いたあと、小さな声で言った。

 「…うん。ついてくよ、ずっと。」


 自販機に小銭を入れてホットコーヒーとジュースを買って、彼女に手渡した。

 「どこのベンチにしよっか?近くに座るところは…。」

周りを見渡すと、また誰かに呼ばれた気がした。声が聴こえたほうを振り返ってみると、遠くのほうにベンチがあるのが見えた。

 「…さっきからどうしたの、太一。なんか変だよ?」

遠くのベンチを指さして言った。

 「あのベンチで休憩しようか。」

 「ちょっと遠いけど、まぁいっか。」

そのベンチを近くで見て、彼女は顔をしかめた。

 「…ねぇ、なんか汚れてるけど。本当にここにする?」

 「あぁ、ここで。」

彼女は自分の隣に嫌々座って、缶ジュースの蓋を開けた。遊歩道の前の鬱蒼とした林の向こう側は、車がせわしなく行き交っていた。

 「…まったく変わってないな。」

 「え?何が?」

 「さっきさ、咲空愛に呼ばれたよ。久々に。」

彼女は驚いた様子で言った。

 「えっ?サッキー、近くに来てるの?ほんと久々だね。」

 「この公園に咲空愛と来たことあるんだ。あのときは夜だったけど。そして、この薄汚いベンチに座って缶コーヒーを飲んでた。」

 「そうなんだ。」

 「だから近くに来たんじゃないかな。二人の様子を見に。そういえば、お腹大丈夫?痛くない?」

 「…うん、大丈夫。今はおとなしいみたい。」

彼女は大きくなったお腹を優しくさすりながら答えた。また、近くで笑い声がした。

 「聞こえた?今の声。」

彼女は空を見上げて、言った。

 「うん。聞こえた。あの子の笑い声だった。」

 「やっぱり傍にいるんだね。まぁ、すぐにまたどこか旅に出るんだろうけど。」

 「そうだね。ところで、このお腹の子の名前決まった?やっぱりあれにする?」

少し考えてから言った。

 「…そうだな。やっぱり、さくら、かな。咲空愛じゃなくて、平仮名で、さくら。咲菜の案は?」

彼女は微笑みながら答えた。

 「私もそれでいいかなって思う。最初は悩んだけど…あの子も喜んでくれるんじゃないかな。平仮名で、さくら。ちょうど桜の時期だしね。」

 「そうしよっか。よし、もうちょっと公園の中散歩してこようよ。」

そう言って二人は立ち上がって、再び満開の桜並木の中をゆっくりと歩き出した。

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さくら、それは美しい。 白鴉 煙 @sirokarasu

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