涙雨
サクラ。小さな島国に咲き誇る薄い桃色の可憐な花。
私は初めて見たときから恋に落ちた。もうこの花の虜だ。
冬が終わり春になる頃、この花は咲き誇る。人々を魅了し笑顔をもたらす。
その国の人々はサクラが大好きだ。満開のサクラを見ようと老若男女、みんな外を歩く。みんな笑顔になり、触れてみたり匂いを嗅いだりして楽しむ。そして大勢でサクラの木を取り囲んで酒を呑み、踊り出す。見ているこっちまで愉快になる。
他にもいろんな可憐な花はあるが、ここまでするかというとそうではない。
サクラはその島国の人々にとって、特別な花なのだ。
私はこのサクラの花に魅了され、滞在している間、なにかに憑りつかれたようにずっとこの花をスケッチしていた。
しかし、サクラはすぐ散ってしまう。私も故郷に帰らないといけない。
そこで私は考えた。そうだ、この花を故郷で育ててみようと。
私は苗木をわけてもらい持ち帰ることにした。
いつかこの美しいサクラの花を、満開のサクラを故郷で咲かせてみせよう。サクラの素晴らしさをいろんな人に教えてあげよう。
きっとみんな笑顔になる。いつの日にか。
「…何、これ?」
彼女はそう言って、分厚い本を閉じた。
「いや、なんか本屋行ったら偶然見つけてさ。その昔、桜の苗を故郷の小さな国に持ち帰った植物学者の話。なんか面白そうじゃない?」
「まぁ、ね。で、私が頼んでた本は?見つかった?」
「もうちょっと興味持ってくれても…。あの本でしょ?あったよ。店の人に聞いたら、これがラスト一冊で次はいつ入荷するかわからないって言われた。」
彼女は笑顔で本を受け取った。
「よかった。ギリギリだったね。暇だし、さっそく読もうかな。てか、暑い。太一、涼しくして。」
「しょうがないだろ。エアコンの温度設定はこっちでできないんだから。あとで看護師さんに言ってみなよ。」
もう季節は梅雨だった。何日も雨が降り続き、病室内も湿気でジメジメしていた。彼女はもうすっかり髪の毛が抜け落ちてしまい、カツラを被った上にニット帽を被っていた。さらに自力で歩行することも困難になり、ずっとベッドの上で過ごしていた。
「てか、内容見ないで買ってきたけど、それどんな本なの?」
彼女は本を真剣な顔で読んだまま答えた。
「知らないの?最近すごい人気なんだよ、これ。旅の本。それまでずっと勉強ばっかりしてきた公務員の女の子がね、ある日突然仕事を辞めて世界中を旅して回るんだ。なんか私みたい。だからずっと読みたかったんだ。」
「へー…たしかに似てるね。勉強できるとこ以外は。」
「うるさいな!なんで言わなくていいこと言うのかな!太一だって同じじゃん!」
髪の毛がなくなっても、歩けなくなっても、彼女はあいかわらず元気だった。痛みとか、精神的に辛いとかあるのだろうが、自分や咲菜さんの前ではそんな様子は一切見せなかった。むしろ病気になる前より笑顔が増えたしおしゃべりになった。しかし、病気は着実にじわじわと彼女の身体を蝕んでいた。他の臓器にも転移が見つかり、もう手術も行わないことになった。つまり、終わりだった。一応抗がん剤治療は行っていたが、あとはどれだけ長く生きられるか、ということだった。このことを彼女には伝えていなかった。咲菜さんと相談してそう決めた。彼女のことだから言わなくてもわかってるはず。もうあとは一日でも一分でも長く彼女と一緒にいよう、一緒に笑っていよう、と。
本を読んでいた彼女が急に本を閉じて、言った。
「太一、屋上行きたい。」
自分は外を指さして言った。
「…え?だってほら、外、土砂降り…。」
「いいから!連れてってよ。」
あまりにも急なので少し戸惑ったが、こういうときの彼女は何を言っても聞く耳を持たないことはわかっていた。仕方なく車椅子に乗せ、部屋を出ようとしたとき、ちょうど咲菜さんがお見舞いに来てくれた。
「あら、どこか出かけるの?」
「そう、屋上に。」
咲菜さんは不思議な顔をして言った。
「だって、外は凄い雨よ。傘さしてても濡れるし…。」
「…だってよ、咲空愛。」
それでも彼女は意思を変えなかった。
「でも、行く。今、行きたい。ちょっとだけでいい。ちょっとだけ遠くの景色が見たいだけ。」
「じゃあ、私も行こうかな。」
そう言って、咲菜さんはビニールの袋から濡れた傘を取り出した。
「え?いやびしょびしょになりますよ?いいんですか?」
咲菜さんは笑って答えた。
「いいわよ。もう仕事は終わったし、あとは家に帰るだけだから。それに、雨の日の屋上も楽しそうじゃない。」
「ありがと、咲菜さん。じゃあ太一、早く連れてって。」
「わかったよ、そんなに急かすなよ。」
ロッカーに入れてあるビニール傘を取り出し、三人でエレベーターに乗り込んだ。
屋上にのドアを開けると、雨が滝のように降り注いでいて、さらに遠くでは雷が鳴っていた。
「咲空愛、やっぱり危ないんじゃ…。」
そう話しかけている途中で彼女は自ら車椅子を操作して前に進み始めた。
「ちょっと、傘!濡れるよ!」
まるで自分の声は聞こえていないかのようだった。彼女は土砂降りの中、ただひたすらフェンスに向かって進んだ。傘を開いて、咲菜さんと二人、すぐに彼女のもとへ足を進めた。彼女は濡れたまま、フェンスを掴んで遠くを見ていた。
「…ほんとどうしたの、咲空愛。何があったの?病室にいるの嫌になった?」
彼女は遠くを見たまま、囁くように答えた。
「別に。ただ遠くが見たかっただけ。すぐに。あの本読んでたら、また旅に出たくなっちゃった。」
自分と咲菜さんは顔を見合わせた。何て言葉をかけてあげたいいかわからなかった。
咲菜さんが彼女に顔を近づけて、言った。
「…そっか。サッキー、また旅したくなったんだね。大丈夫、またそのうち行けるよ、きっと。」
彼女はしばらく何も答えなかった。雨が一層強さを増してきた。もう戻ろうか、と言おうとしたとき彼女がゆっくりと話しはじめた。
「…わかってるよ。もう歩けないし、どうしようもないよ。もう、無理だよね。私、生まれ変わったら旅人になりたい。ずっと旅してるんだ。世界中回ってさ、友達いっぱい作ってさ。いろんな景色見るんだ。」
「そんなこと言うなよ、咲空愛。まだ生きてるよ、また元気になって旅できるかもしれないじゃん。」
「…まだ私も言いたくないよ。生まれ変わったら、なんて。けどね、それが事実なんだよ、太一。そのうち、死ぬ。長くないからね。だから、今やりたいことを今やらなきゃ。たとえ雨でもなんでも。無理言ってごめんね。咲菜さんも付き合ってくれてありがと。」
雨に濡れてよくわからなかったが、彼女はおそらく泣いていた。雨で涙は見えないように誤魔化せたかもしれないが、さすがに声は誤魔化せなかったようだった。咲菜さんはそっと車椅子を掴んで言った。
「戻ろうか、サッキー。風邪ひいちゃうよ。」
「うん、ありがと。」
エレベーターを降りたところでちょうど看護師さんと鉢合わせ、当たり前だがひどく怒られた。病室に戻り着替えを済ませると、彼女はまた本の続きを読み始めた。邪魔をしてはいけないと思い、咲菜さんとしばらく部屋を出ることにした。
一階のロビーを二人で歩いているとき、咲菜さんは言った。
「あの子、泣いてたね。」
「なんだ。咲菜さんも気づいてたのか。うん、泣いてた。雨で誤魔化そうとしてたけど、声でわかった。」
「強がりよね、ほんと。太一さんや私なんかより、あの子自身が一番辛いはずなのに、ずっと笑顔なんだもの。強い子だわ。私が同じ立場だったら、毎日泣いてるかも。」
「そうだね。病気がわかってからのほうがよく喋るようになったし。」
「…そうね。」
咲菜さんは急に立ち止まった。
「…どうしたんですか?」
咲菜さんは何かを言いたそうだった。
「いや…あのね、その…この前、あの子に言われたんだけど…。」
「何を?」
「いや、あの…言われたというか、約束したというか…その…。」
「え?何て?ごめん、聞こえなかった。」
「そうね…とりあえずここで立ったままなのもあれだし、またこの前のカフェ行きましょうか。」
ついさっきまで普通に会話してたのに。急に独り言のように小さな声になってしまって。なんだか不思議な感じだった。
カフェに着くと、あいかわらず客は誰もいなかった。この前来たときと同じ通路側の一番角の席に座った。
「で、彼女に何を言われたんですか?病気のこと?」
咲菜さんはなかなか喋ろうとせず、下を向いてスプーンでずっとコーヒーをかき混ぜていた。
「…なんか、おかしいですよ。大丈夫ですか?いつもの咲菜さんじゃないみたいな。」
やっと決心がついたのか、顔を上げて咲菜さんは話し始めた。
「…このことはあの子に言わないでね。それは約束してくれる?」
「…はぁ。わかりました。」
「あのね、この前太一さんが病室にいないとき、ちょうど私が顔を出したの。そしたら、あの子、そのタイミングを待ってたかのように真剣な顔で私に話がある、って
言ってきて。最初は病気のことを話してほしいのかと思ったの。でも、違った。」
「病気のことじゃなかったら、何の話だったんですか?」
咲菜さんはまた下を向いて、一回深呼吸をしてから顔を上げて言った。
「あの子が、死んだあとの話。」
「…死んだ、あと?」
「そう。もうあの子はそこまで考えてた。私、そんなことあの子の口から聞きたくなかったから、ちょっと怒ったのよ。今はそんなこと考えなくていい、って。けどあの子は生きてる間にどうしても私に言いたかったみたいなの。」
「それは、お金のこととか?そんなこと心配しなくてもいいのに。」
「お金、じゃないのよ。実は…太一さんの、こと。」
一瞬頭の中がハテナマークだらけになった。
「…俺のこと?何の心配?」
「そのね…あの子は太一さんのことが本当に大好きで、当然浮気なんて許すわけがない。あ、別に太一さんが浮気しそうとか言ってるわけじゃないのよ。でね、あの子、自分が死んだあとの太一さんを心配してた。そのうち自分以外の見知らぬだれかと付き合うんだろうけど、そう考えると毎日辛いんだって。だから、その…。」
「…その?」
「私が死んだら、咲菜さんが太一と付き合って、って…。」
まさかそんなこと言われるとは思ってもなかったのと、あまりにも衝撃だったので、口に入れたコーヒーを思わずカップに戻してしまった。まったく意味がわからなかった。なぜそういう結論に至ったのかが。
「あの…意味がわからないんだけど。いや、俺は咲空愛が死んだ後のことなんてまだ考えれないし、多分そんなすぐに他の誰かを好きになるってこともないと思うけど…それがいくら咲菜さんであっても。」
「…そう、よね。あんなに相思相愛なんだもの。そんな簡単に誰かを好きにはなれないでしょうね。私でも。でも、それがあの子の願いなんだって。」
「てか、まだいまいち理解できてないんだけど…他の女なら許さないけど、咲菜さんとなら許せる、ってこと?」
「そう、みたいね。私も言われたときは、はぁ?って言ったわよ。だって意味がわからないんだもの。私なら許せる、って。そしたらね、私が返答に困っていると、あの子に言われたの。咲菜さん、本当は太一にちょっと気があるんじゃないの?って。いいよ、咲菜さんなら許せる気がする。けど私がいなくなる前に手出したらいくら親友でも許さない、って。」
コーヒーカップを持ったまま固まってしまった。まさか、咲菜さんが、自分に。
「…じょ、冗談ですよね?いや、まさか咲菜さんが俺なんかに…。」
咲菜さんは顔を赤らめて下を向いて言った。
「あの子に、見抜かれてた。」
「…。いや…だって咲菜さん、たしか彼氏いるって…。」
「…ずっと前に別れた。」
頭が痛くなってきた。もちろん誰もが降り向く美人で優しい咲菜さんに気があるって言われて嬉しくないはずがないが、彼女が死んだあと付き合うかどうかとか、そんなことは一切考えられなかった。もう彼女のことで頭の中はいっぱいだった。
「こんなこと言うと咲空愛に怒られるけど、正直、嬉しいです。けど、すいません、今は咲空愛のことで精一杯なんです。だから…現時点では、俺からは何も言えません。」
「…わかってますよ。あなた達は本当に愛し合ってる。今の私はそれを傍で見れるだけで嬉しい。こっちまで笑顔になる。今はあの子の死んだ後のことなんて考えるのやめましょう。縁起でもない。一秒でも長くあの子の笑顔が見ていたい。さてと…そろそろ部屋に戻りましょうか。」
そう言って、咲菜さんは笑って立ち上がった。
病室に戻ると、彼女はさっきと同じ態勢のまま真剣な顔で本を読み続けていた。
「よく飽きないねー。目、疲れてこないの?」
彼女はゆっくりと本を閉じてから言った。
「…そうだね。ちょっと疲れた。けど、本当に面白いよ、この本。売れてる理由がわかる。」
咲菜さんが彼女の傍に座って言った。
「そんなに面白いの?読み終わったら貸してよ、サッキー。」
「いいよ。多分、明日には読み終わっちゃうよ。」
「あ、そうだ。サッキーにプレゼント。はい、新作の口紅。」
咲菜さんはカバンの中から、紙包みを取り出して彼女に渡した。
「ありがとう!いいの?新作なんかもらっちゃって?」
「いいの、いいの。それよりさ、今試してみる?」
「うん!すぐに試したい。」
そう言って、彼女は机の上に置いた鏡を見ながら口紅を塗り始めた。
「どう、太一?似合ってる?」
「うん、すっごい似合ってるよ。」
「ほんと?ありがと。」
外はいつのまにか雨が上がっていた。雲の隙間からちょうど夕日が差し込んできて部屋の中をオレンジ色に染めていて、彼女が口紅を持って喜ぶ姿がシルエットのように浮かび上がって幻想的だった。彼女の笑顔を見れたときが、どんなときよりも本当に幸せな時間だった。
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