初めてづくし。

 彼女の電話番号をゲットしてから数日後、その日は休日でいつものように部屋のベッドの上で携帯ゲームをしながらゴロゴロしていたが、あまりにも暇になってきたので、彼女に電話をかけてみることにした。もし予定があえばデートにでも誘おうと思っていた。けどおそらく仕事中だろうなぁ、まぁ電話に出なかったらまた夜にでも掛け直せばいいか、という、そのときは特に緊張もせず軽い気持ちで発信ボタンを押した。

 五コールぐらい待っても出なかったので、諦めて電話を顔から離して電源ボタンを押そうとしたときだった。

 「…はい。」

電話の向こう側から聞こえたその声は、最高にやる気のなさそうな声だった。慌てて応答した。

 「あ、あれ?今日仕事休みなんだ?珍しいね。」

 「…ずる休み。あまりにも面倒な気分だったんで。で、何?」

 「あ、そう。いやなんか、俺も今日仕事休みでゴロゴロしてたんだけど、あまりにも暇になってさぁ。その…咲空愛は暇かなぁって思って…。」

 「…私が、暇だよ、って言ったら?」

次の言葉をなかなか言い出せなかった。一言言えばいいだけなのに。たった一言、どこか行かない?って。

 しびれを切らしたのか、自分が返答する前に、深い溜息をついてから彼女が喋りはじめた。

 「…はぁ。ほんとにもう…ほんとに暇つぶしでかけてきたの?そんなんだったら、私まだ寝てたいから電話切るよ?」

 「デ、デート、しない?これ、から。」

くちびるが震えてうまく喋れなかったが、なんとか言いたかったことを言葉にすることができた。

 「…言えたじゃん、ちゃんと。本当はものすごく面倒だけど。頑張って言葉に出してくれたから、いいよ。これから会っても。まぁけど、どうせどこ行くかも決めてないんでしょ?」

まったくその通りだった。彼女とデートしたいとここ数日ずっと思ってはいたが、どこに行こうかまでは考えていなかった。いや、考えたが何もいいアイデアが思い浮かばなかったというほうが正しかった。なんせ女性とデートなんて五年ぶりどころではない。おそらく自分の中の記憶では高校時代以来だ。こういうときに相談できる頼りになる男、雄大は仕事が忙しいのかなんなのか、電話にまったく出てくれなかった。仕方ないのでネットで検索したり、某有名サイトの知恵共有サービスで質問したりしてみたが、なかなかいい答えに辿り着けず、結局考えるうちに面倒になってきて先延ばしにしていた。

 「え?ええ…まぁね…。決めてない。」

 「…私、行きたいとこあるんだけど。けど一人で行くのも気が引けるし、ちょうどよかった。まぁ男にはまったく関係ないし面白くないと思うけど、それでもいい?」

正直、意外だった。彼女に行きたい場所があるなんて。しかも、気が引けるって。一体どこなのか、ワクワクしながら聞いた。

 「どこ行きたいの?俺はどこでも付き合うけど。」

 「…化粧品売り場。」


 待ち合わせは、車で二十分ほど走ったとこにある街の中心部の駅前にした。雲一つない秋晴れの休日の昼前ということもあってか、駅前は家族連れやカップルなどで随分と賑わっていた。みんな今どきの流行りの格好でオシャレして、女性はメイクばっちり決めて。そこにいるすべての人が笑顔で満ち溢れていた。自分はオシャレでもないし、流行にも疎いし、けどせっかくのデートだからとシャツの上にそこそこの値段のしたテーラードジャケットを羽織ってきた。似合うか似合わないかはよくわからなかったが、これが自分の唯一の精一杯のオシャレな恰好のつもりだった。

 待ち合わせ時間ちょうどに駅舎と反対のほうから彼女は歩いてきた。もちろん笑顔はなく。彼女は、白シャツにベージュのチノパンという、まぁとりあえずシンプルだった。髪はいつもと同じく青いシュシュでまとめていた。おそらくこれが今の彼女にとっての精一杯オシャレなんだろうと思った。とりあえず、この前のTシャツにジーンズではなくてよかったと、一安心した。

 「ここまでどうやって来たの?バス?」

 「…車。どっかそこらへんに停めてきた。」

 「なんだ、言ってくれれば一緒に乗せてきてあげたのに。」

彼女は寝不足なのか、とても眠たそうだった。一回小さなあくびをして、言った。

 「…いいよ別に。車持ってるけど全然乗ってなかったし、たまには動かさないと壊れるから。それより、さっさと行こうか。」

彼女は喋り終わる前に、スタスタと歩きはじめた。

 「ちょ、ちょっと待って。どこ行くかもう決めてあるの?」

彼女の歩くスピードはとにかく速かった。たいして足が長いわけでもないのに。自分はそんな彼女についていくのが精一杯だった。

 「…よく知らないけど、とりあえずファッションビルに入ったら化粧品売り場ぐらいあるでしょ。」

 「てか歩くスピード速すぎ。そんな急がなくても。もうちょっと遅めてもらってもいいかな…。」

 「女の私のほうが歩くスピード速いって、なんなの。まぁいいけど。」

文句をいいながらも、彼女は速度を自分のペースにあわせてくれた。こうやって隣を歩くと、二人は身長がそこまで特に変わらないということに気付いた。太っているわけでもないが、なにかスポーツをやっていたのかと思うぐらい女性にしては肩幅もガッチリしていた。

 「…ねぇ。さっきからジロジロ見ないでくれる?気持ち悪いから。」

 「いや、恰好がシンプルだなぁって思って。そのシャツ、咲空愛によく似合ってると思うよ。」

 「…馬鹿にしてるでしょ。余所行きの服はこれしか持ってないの。それとも何?もうちょっと女の子らしい恰好のほうが好み?」

 「別に馬鹿にしてないよ。けど、咲空愛がスカートとか履いてたら笑ってしまうかも。」

 「…スカート!?履くわけないでしょ。そんな自分想像したくもない。もし万が一私が履いてきたとして、ちょっとでも笑ったりしたら、ぶっ飛ばす。あんた…じゃなかった、太一を。ビンタじゃなくて、ぶん殴る。」

 「ぶっ飛ばすとかぶん殴るとか…その発言が女っぽくないなぁ。綺麗になりたいんでしょ?言葉の一つ一つも気を付けないと。あと、呼びにくいなら今まで通り、あんたでいいよ。無理して名前で呼ばなくていいから。」

自分に指摘されたのが気に食わなかったのか、彼女はちょっとムッとした様子でこっちを睨みつけて言った。

 「いいの!そのうち直す。太一が私を名前で呼ぶから私も名前で呼ぶ。…まぁ別にどっちだっていいんだけど。あ、話してたら通りすぎたじゃん。さっきのコンビニの横曲がったほうが近道だったのに。」

ふいに彼女が自分のジャケットの裾を引っ張った。ほんの一瞬だった。けどそれは大きな進展のような、そんな気がした。彼女が自分に近づいてくれた。こんな些細なことでもとても嬉しかったし、心臓の鼓動が速くなった。彼女はすぐに手を放すと、今来た道を戻りはじめた。

 買い物客で賑わうファッションビルに入ると、二階がレディース関連のショップが立ち並ぶフロアだった。いろいろな種類の服屋に靴屋に時計店に貴金属店に下着専門店。ところどころピンク色で華やかで香水のいい匂いが漂っていて、当たり前だが歩いている客達の九割は女性だった。男の自分が歩くのは場違いというかなんというか、とりあえずとても恥ずかしくて、ビルの入口から歩みを進めるのを躊躇していた。それは、さっきまで早足で歩いていた隣にいる彼女も同じらしかった。

 「…何、ここ。目がチカチカする。匂いもすごいし。」

彼女にとってもこういう場所は初めてらしかった。そりゃ友達もいないし化粧品もまともに持っていない女性だから、当然困惑するだろうとは思った。

 「まぁせっかくここまで来たんだし、行こうよ。止まっててもしょうがないよ。化粧品買うんでしょ?それかこの環境に身体を慣れさせるために一周歩いてみる?」

 「…えぇ。歩いて、みる…。」

あまり乗り気でもないのか、まだ困惑しているのか、彼女の返事はいつもより元気がなかった。彼女がなかなか歩き出そうとしないので、仕方なく自分から歩みを進めた。

 自分は特に見るものもなかったし、ただ誰かに当たらないように前を見ながら歩くだけだったが、彼女はマネキンに着せてある新作の服や並べてある色とりどりのバッグなんかに少しぐらいは興味を持っていろいろ見ながらゆっくり歩いてくるだろう、と勝手に思っていた。むしろそうであってほしかった。その予想は見事に裏切られた。振り返ると、自分のすぐ斜め後ろをわき見もせずスタスタと歩いていた。その姿を見て、さすがにちょっと呆れてしまった。

 「あのさぁ…何のためにここに来たの?普通さ、お店の前で立ち止まって自分の手に取って、自分に似合うかなぁ、とか考えたりするもんじゃないの?それともほんとに興味ないの?」

彼女はいつもにも増して小さな声で恥ずかしそうに言った。

 「…だって、何をどう合わせたらいいか、わかんないし。何が似合うかもわかんないし…。」

 「…そっか。わかった。じゃあ化粧品買う前にちょっとだけ服を見て回ろうよ。俺が咲空愛に似合いそうな服を選んであげるよ。あんまり自信ないけど。」

彼女は頑なに拒否した。

 「いい、そんなの絶対にいい。あ…じゃなかった。太一に選んでもらうのは嫌だ。化粧品買ってさっさと帰る。」

 「苦手なこと後回しにしてても前に進まないよ。買わなくてもいいからさ、とりあえず自分にどんな服が似合うか、少しだけでも考えようよ。俺も真剣に考えるから。」

数秒考えて、彼女は渋々答えた。

 「…ふざけて選んだりしたら、その場でぶちキレるから。」


 彼女に似合う服探しは困難を極めた。いろんなお店を回って、気になった服を鏡の前で合わせてみたり、店員にアドバイスをもらったりしたが、彼女が買いたいと思うような服はなかなか見つからなかった。フロアを一周半ぐらいしたところで疲れてしまい、ベンチで休憩することにした。彼女は紙カップに入ったコーヒーを二つ買ってきてくれた。

 「…はい。買い物に付き合ってくれてるお礼。」

 「ありがと。にしても、コーヒー大好きだね。なんで?」

 「…落ち着くから。それ以外の答えが欲しいの?」

 「いや…いいや、それで。にしても、こんなに迷うとは思わなかったね。どうする?もうちょっと探す?なんなら他のビル行ってもいいけど。」

彼女は何も迷いもせず答えた。

 「やっぱり服はいい。見つかりそうもないし。てか疲れた。今日は少しの化粧品だけ買って帰る。」

まぁ彼女自身がそう言うのなら仕方ない、自分も慣れていない人混みの中を歩き疲れたので、コーヒーを飲み終えるとすぐに化粧品店に向かうことにした。

 色とりどりの口紅にファンデーション、あとは何に使うかまったくわからなかったが、そんなに広くはない店内には数えきれないほどの化粧品が所狭しと並んでいた。

 「いらっしゃいませ。今日はどんなものをお探しですか?」

彼女はどうも口紅が欲しいらしく、店頭に置かれた、テレビでよく見かける女優のポスターと一緒に置いてある商品の前でずっと動かなかった。そんな彼女をみかねて、長身のスラッとした綺麗な女性店員が声をかけてきた。

 「…この口紅、いいですね。つい見とれてしまいました。けど私に似合うかどうかわからない…。」

 「そうなんです、この商品は発売されたばかりでして大変人気があるんですよ。そうですねー、似合うとは思うのですが…お客様にはもしかしたらこちらの商品のほうがお似合いかもしれませんよ。」

そう言って店員は隣の棚から口紅を一本彼女に手渡した。

 「私に、似合うのかな。私…その…メイクが苦手で…。」

下を向いて恥ずかしそうに答える彼女に、店員は優しく包み込むような笑顔で言った。

 「大丈夫です。もしよければ、少しだけ私にメイクの指導を任せてもらえませんでしょうか?」

 「えっ?いいんですか?」

 「はい、もちろん。喜んでご指導させていただきます。奥へどうぞ。」

 「よろしくお願いします!」

こんなイキイキとした彼女を見るのは初めてだった。さっきまで服を選んでいるときでも笑顔は一つもなかったのに。みずから探しに行きたいと言っていただけあって、どうやら化粧に関しては本気らしかった。そんな笑顔の彼女を店の外でニコニコしながら見ていると、店員に声をかけられた。

 「もしよければ、彼氏さんもどうぞ奥へ…」

彼女の顔から笑みが一瞬で消え、店員の言葉を遮り真顔で言った。

 「友達です。」

 「あ…そ、そうですか。では、よければ奥へどうぞ。」


 店員の指導によって彼女の顔はみるみるうちに変化した。まるで魔法のようだった。化粧を終えて鏡を見た彼女の表情は決して忘れられない。そこに映っているのが自分じゃないような驚きと、少し綺麗に近づけた嬉しさとが混ざり合った顔でしばらくの間、鏡を覗き込んでいた。

 「…ありがとうございます。あの、また教えてもらえませんか?自分でこんなメイクできるか不安で…。」

 「はい、いつでもどうぞ。もしよろしければこの番号に電話してください。非番でいないかもしれないので。あ、携帯のほうが確実かな。」

店員は名刺を取り出し、そこに携帯番号を書き足して彼女に笑顔で渡した。

 「…加藤 咲菜さきな、さん。名前似てますね、私、咲空愛っていいます。」

 「咲空愛さん、いい名前ね。またいつでもいらしてくださいね。」


 帰り道を歩く彼女はいつにもなく堂々としていた。

 「ねぇ、結局何買ったの?なんかその袋、すごく重たそうに見えるんだけど…。」

 「内緒。それよりさ…どう?ちょっとは変わったように見える?」

 「うん、劇的に変わった。朝、眠たそうに歩いてた咲空愛と別人みたい。」

 「…なんか失礼だね。頑張ってちょっとだけメイクしてから出て来たんだけど。」

 「あれ?化粧品持ってたの?まったく持ってないのかと…。」

 「うるさいな!百均の化粧品でも、化粧品は化粧品なの!」

怒っているようで、笑顔が隠しきれていない彼女がなんだか可愛く思えた。本当に、いろんな意味で今までの彼女とは別人だった。メイク一つで、中身も少しだけ綺麗になったように思えた。

 駅の前で別れるとき、ほんの一瞬彼女と目があった。相変わらずのその美しい瞳を見て思った。自分は本当に彼女が好きだ。これから徐々に綺麗になっていくであろう彼女を見ていたい。傍に居たい。と。

 ふいに彼女が話しかけてきた。

 「…どしたの?急に固まっちゃって。じゃ、帰る。またね。」

歩き出そうとする彼女を呼び止めた。

 「ちょっと待って!」

 「…急にびっくりするじゃん。で、何?」

 「次…いつ会える?」

彼女は笑って言った。

 「…今決めるの?そうだね、私の化粧がもうちょっと上達したら太一に会ってもいいかな。」

 「どういう意味?別に上達してなくても俺は…」

 「そういう意味。別にもう会わないって言ってるんじゃないんだから、ちょっとの間だけ待ってみたら?」

そう言って彼女は人混みの中へ消えていってしまった。





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