…そして、雨。

 スーパーに買い物に行って彼女の姿をみかけると、軽く声をかけるようにした。最初は「…どうも。」か「…えぇ、そうね。」としか返さなかった彼女だが、徐々に「あっ、そう。」か「また?今日は忙しいから。」とか、あまり違いがないように思えるが、自分にとっては大きな進展のような気がした。何回か誘って、何回も断られて、そしてようやくまた二人で話す機会をもらえたのは、あの公園で会話をしてから一か月後のことだった。

 「今日、空いてない?」

傍からみると、スーパーの店員をナンパしているという変わった客にしか見えなかっただろう。今考えると、彼女もよく上司や店長に訴えなかったと思う。仕事中に話しかけるのは申し訳ないとは思ったが、なんせこの前電話番号を聞き忘れたので、彼女と接するにはどうしてもこの方法しかなかった。

 「…今日?面倒だなぁ、ほんと。まぁいいや。また裏の駐車場で待ってたら。」


 彼女は本当によく煙草を吸う人だった。自分の車に乗り込んだらすぐに火をつけて、三分後にはもう次の煙草に火をつけていた。

 「…なんでそんなに煙草吸うの?身体に悪いよ?」

横なぶりの雨が突き刺さるフロントガラスをぼんやり見ながら、彼女は答えた。

 「…ストレス溜るから。めんどくさい客とか、口うるさい上司とか、すぐにキレる店長とか、興味のないことをやたらと話しかけてくるパートのおばさんとかのせい。」

 「じゃあなんでそんな仕事ずっと続けてるの?」

答えるのも面倒臭そうだった。

 「ずっとこの仕事やってるから。他を探すのも面倒だから。」

 

 いつもの本屋の前の喫茶店につくと、雨のせいか、なかなかの混雑ぶりだった。運がいいことに、店の一番角の狭い二人席がちょうど空いたところだった。席について彼女は言った。

 「で、今日は何?」

 「その、何?って毎回聞くのやめてくれるかな…ただ咲空愛さんと話したいだけだから。」

さすがにすぐには言い出せなかった。雄大に言われた綺麗にする方法。恋をしよう、なんて。

 「まだ聞きたいことあんの?あんた、ほんと物好きだよね。あたしなんかのどこがいいの?化粧もまったくしらないこんな女。」

 「…そうだね。最初に本屋で話したとき、咲空愛さんの瞳が美しかったことが印象に残ったけど。」

 「…そんなん言われたの生まれて初めてだし。あんた変わり者すぎ。」

ちょうど運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、彼女は言った。

 「あんた、太一だっけ?いいね、どこにでもいそうな名前で。覚えやすい。」

 「たしかにね。同姓同名なんてたくさんいるだろうね。それにしても…咲空愛って、すごい名前だよね。両親はどういう思いでこの漢字にしたんだろ?普通に『桜』じゃ嫌だったのかな?」

両親、という単語を発したとき、彼女の顔がちょっと引きつったのがわかった。

 「両親、ね…。」

彼女の様子を見る限り、どうも聞いてはいけないことを聞いてしまったらしかった。なにかとても重たい空気になってしまったので、慌てて話題を変えることにした。

 「にしても雨凄いね。今日は止みそうにないねー。」

彼女からの返答はなかった。何かを思い出したように下を向いたままだった。あきらかに様子が変だった。

 「…だ、大丈夫?変なこと聞いてしまったかな…。」

一回深い深呼吸をして、彼女は答えた。

 「…私、なんでこの名前なのか、知らない。両親、いないから。」

重たい。あまりにも空気が重たすぎたので、咄嗟に口走った。

 「ば、場所、変えようか。」

彼女は小さく頷いた。

 外の雨は一層勢いを増していた。道路脇の側溝からはもはや水が溢れ出していた。しかも運の悪いことに、傘立てに置いといた傘は、見事になくなっていた。

 「…車まで走る、しかないか。大丈夫?走れる?」

 「嫌だけど、しょうがないでしょ。傘ないし。」

 びしょ濡れになって車に戻って、すぐにエンジンをかけた。

 「すごい雨だね…はい、タオル。」

 「…ありがと。」

ちょうど後ろの席に置いてあったタオルを彼女に渡すと、すぐに髪を拭き始めた。濡れた彼女の長い黒髪は、なかなか魅力的だった。ストレートではなく、ちょっとクルッとしていて、何より、運転席からでも毛先の痛みがわかってしまうところが彼女らしかった。髪を拭き終えると、タオルをこっちに放り投げて言った。

 「…ありがと。場所変えてくれて。」

彼女に笑顔はなかった。

 「なんか聞いちゃダメなこと聞いたみたいで…ごめん。」

 「いいよ、別に。もう移動するの面倒だからこのまま車の中で話すのはどう?」

 「うん、俺はそれでいい。」

そう言って、二人とも黙り込んでしまった。車のフロントガラスをまるで滝のように流れる雨を、二人で見続けた。

 彼女が、そっと口を開いた。

 「…お父さんは、私が生まれてすぐ事故かなんかで亡くなったみたい。よく知らないけど。三歳ぐらいだったかなぁ。お母さんが、泣きながら去っていくのを施設の玄関で見届けたのが私の一番古い記憶。そのときも、こんな土砂降りの雨だった。」

ふと横を見ると、彼女は涙を流していた。ふさぎ込むわけでも手で顔を隠すわけでもなく、ただフロントガラスに容赦なく打ち付ける雨を見て。

 「『愛』が、『空』に、『咲』。咲空愛って書いて『さくら』かぁ。よく考えたよね、ほんと。不思議な名前。けど、大好きな名前。だよ。」

自分に話しかけるわけでもなく、そう呟いた。きっと、上から見守ってくれているだろう父親に、どこかで彼女を思い続けてくれているだろう母親に向けて。


 雨はだんだんと弱くなってきた。そうだ、一番肝心なことを言わなくては、と、今日の重大任務を思い出した。

 「あ、そうだ。綺麗になる近道、知ってる?」

話題が変わって、彼女はまたいつもの彼女に戻った。

 「聞き流してって言わなかった?あんたには無理だって。」

 「質問の答えになってないよ。知ってるか知らないかで答えてよ。」

少し間を置いて、おもしろくなさそうに答えた。

 「…知らない。」

 「恋をすること、だってよ。」

彼女は座席によしかけていた身体を飛び起こし、怒ったように言った。

 「…だから!?恋?私に一番似合わない言葉なんだけど。だいたい男なんて…」

彼女の吐き出す言葉を遮って、勇気を出して言ってみた。

 「恋、しない?俺と、恋してみない?」

もうあからさまに驚いた顔をして、彼女はフリーズしてしまった。開いた口が塞がらないとはこのことだろう。そのまま倒れこむようにして座席に突っ伏して、向こう側に顔を向けてしまった。そして、しばらくの沈黙のあと、彼女は言った。

 「…あんた、馬鹿すぎて言葉が出てこない。私なんかと恋してどうなるってのよ。呆れた。ほんと呆れた。」

 「それはわかんないけども…。咲空愛さんと、恋してみたくなりました。」

彼女の身体が震えていたので覗き込んでみると、彼女は笑っていた。

 「…なんで急に敬語?あーなんかもう疲れた。帰ろ。」

勢いよく起き上がってドアを開けようとしたところを引き留めた。

 「あ、えっと電話…」

 「番号でしょ?これ以上仕事中に邪魔されても困るしね。はい。あ、あたしメールとかわかんないから。電話で。あと、面倒だと出ないから。あまりにもしつこいと着信拒否するからね。」

電話番号の書かれた小さな紙切れを放り投げて、ドアを勢いよく開けて飛び出していった。が、すぐに戻ってきてドアをちょっとだけ開けて、言った。

 「あと、さん付けはもういい。咲空愛でいい。私も太一って呼び捨てにするから。」

小雨が降る中を走っていく彼女は、なんだか嬉しそうだった。









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