粘り勝ち。

 あの日から、自分の頭の中は彼女のことで一杯になった。「諦めたほうがいい」と、言われても、なかなか諦めきれずにいた。どうしてももう一度話す機会が欲しかった。もう本屋で偶然会うなんてことはないだろうから、会うためには彼女の仕事場であるスーパーの野菜売り場に行くしかなかった。

 仕事帰りにスーパーに寄ってまず野菜売り場に向かうという日々が始まった。しかし、何日通っても彼女を店内で見かけることはなかった。スーパーに入って買い物カゴを手に取ったからには、何か買わないといけない気がして、とりあえず安売りの豚肉やらモヤシやらを買って家路に着いた。おかげで部屋の小さい冷蔵庫は缶ビールを冷やす場所もないくらい満杯になった。

 スーパーに通いはじめて一週間ぐらい経った日のことだった。半ば諦めムードでいつものように野菜売り場へ向かうと、彼女はいた。後ろ姿だったが、長い髪と青いシュシュですぐに彼女だとわかった。キャベツの山を整理して入れ替えしているところだった。姿をみつけると妙に緊張した。果たして仕事中に話しかけてよいものかどうか迷ったが、もうおそらくここでしか機会がないだろうから、思い切って行くしかなかった。ばれないように、ゆっくりと彼女の横まで足を進めた。

 「あのー…すいません、仕事中に。」

彼女は手を止めることなく、睨み付けるようにしてこっちを見た。

 「…しつこい。なんなの。まだ何か!?」

相変わらずの小さい声ではあったが、もう明らかにキレていた。そんな彼女をみて萎縮してしまった自分が恥ずかしかった。

 「いや…あ、いや特に…。まぁなんていうかもうちょっと話せたらなぁとか思って…。この前本当に五分ぐらいだったし…。」

彼女は溜息をついて一端手を止めた。

 「で、わざわざ私の仕事場まで来て話しかけた、と。あんた、馬鹿でしょ?ほんと馬鹿。興味がないって言ってるのに。しかもこんな私に。」

 「いや、けど…。」

 「けど、何?ほんとに友達になりたいわけ?ここまで言われて話が合いそうって?」

もう何も言い返せなかった。たしかに馬鹿だ。けど、けど。けど、どうしても彼女と話がしたかった。別に彼女にこだわる必要なんてまったくなかった。自分にもっと優しく接してくれる人だって、面倒だけどまた街コンにでも行って頑張って探せば見つかるはずだった。けどどうしても彼女だった。諦めるのは簡単だ。けどこれ以上のチャンスは絶対ないし、ここで諦めたら後で後悔する。そうとしか思わなかった。少しの間下を向いて黙っていると、彼女は大きな溜息をついて言った。

 「…いいや、もう。なんか疲れた。もしまだ私と話がしたいって本気で思うなら、店の裏の駐車場で待ってたらいいよ。あと三十分で仕事終わるから。本気で思うならね。」

そう言い残して彼女は台車を押して行ってしまった。

 本気で思うなら。もちろん自分は本気だった。じゃないと、ものすごく飽き性で面倒臭がり屋の自分が一週間もスーパーに通い詰めたりはしなかった。彼女がチャンスを与えてくれたことがとても嬉しかったし、本気で答えたいと思った。


 指定された従業員専用駐車場で待っていると、時間通りに彼女は裏口から出てきた。胸のところに小さなワンポイントのマークがついた黒のTシャツとジーンズと100均でも売っていそうな青と白のボーダーの手提げバッグ。オシャレなどにはあまり興味がないのだろうか。しかし、この前ファッション雑誌を買ったと言っていたことを思い出して、不思議な感じがした。まぁ仕事に着ていく服だからなんでもよかったのかもしれない、とそのときは思っていた。彼女は自分の姿をみつけると、ゆっくりと近づいてきて言った。

 「…本気なんだ。てっきり逃げ帰ってるんだろうと思ってた。今日は特に予定ないし、まぁあんまり遅くならないようなら話相手になってあげる。」

 この上から目線な言い方にちょっとイラッときたが、そこは抑えてとりあえず自分の車で話せる場所へ移動することにした。

彼女は助手席に乗り込むと、自分の許可も得ずに煙草に火をつけはじめた。この行動にはさすがにちょっと呆れて、少し強い口調で言った。

「…いやいやいや、煙草吸うんなら一言言ってよ。別に禁煙車じゃないけどさ。言っておくけど、灰皿ないよ、この車。」

「携帯灰皿持ってる。」

彼女は悪びれもしなかった。こんな人だったとは…自分勝手というか常識がないというか。自分はこの人のどこに惹かれているのだろうか、自分の思い違いじゃないのか、と思い始めてきた。

 「で、どこに向かってるの?」

少し車を走らせてから彼女にそう言われて、はっとした。そうだ、目的地なんて考えていなかった。

 「…喫茶店。」

咄嗟に口に出したが、最近はデートなんてしたこともないから女性と二人きりで行く場所なんてまったく知らなかった。オシャレなカフェも知らなかったし、景色が綺麗な素敵なレストランも何一つとして知らなかった。唯一知っているのは、本屋の前のあの喫茶店ぐらいだった。

 「喫茶店?この前の?まぁいいけど。」

 「ごめん。そういう場所、ほんと知らなくて。どこかいいカフェとか知ってる?」

と、彼女に聞いてから思った。彼女の名前をまだ知らなかった。

 「そういや、名前なんていうの?俺は太一たいちって言うんだけど…」

まだ話終わる前に彼女は口を挟んできた。

 「…さくら。花が咲くの『咲』に、『空』に、愛するの『愛』で、咲空愛さくら。ちなみに私もカフェとかまったく知らない。だからあんたに任せる。」

 「いい名前だね。漢字が凄いけどね。教えてもらわなきゃまず読めないよ。」

自分は笑って答えたが、彼女はただ通り過ぎる窓の外の景色をつまらなそうに見ているだけだった。

 喫茶店に到着したころにはすっかり日が暮れていた。本屋の駐車場に車を止めて気付いた。いつものように喫茶店にあかりが灯っていない。もしや、と思い近づいてみると、入口に臨時休業の貼り紙がしてあった。

 「あーあ。今日休みだってよ。どうしよ。」

彼女は特に慌てる様子もなく右後ろを指さして言った。

 「…あそこの公園でいいじゃん。」

彼女の言った通りにすぐ近くにある自然公園に歩いて向かった。昼間はランニングする人達や犬の散歩や近くの保育園の園児達で賑わっている公園も、夜は誰一人歩く人影もなく、シーンと静まり返っていた。途中にある自販機で缶コーヒーを買って、今にも消えそうな街灯に照らされたちょっと薄汚いベンチに座ることにした。なんだか妙に緊張した。夜の公園、ベンチ、女の人と二人だけ。彼女の雰囲気からしてなにかが起こりそうな気配はまったくなかったのだが、ベンチに座ったとたんなぜか緊張してしまって、何を話したらいいのか、言葉がうまく出てこなかった。自分が缶コーヒーを両手で握りしめてずっと黙っていると、彼女が呆れた声で話しはじめた。

 「…はぁ。自分から話したいって言っといてこれか。緊張してんの?手でも繋いでみる?キスでもしてみる?そのほうが逆にほぐれるかもよ。」

自分は慌ててムキになって反論した。

 「…っ、何言ってんの!?緊張してないし!何から聞こうか考えてただけで別にそのなんていうか、その…とりあえず緊張してないし!」

 「…冗談にきまってるでしょ。ほんと男ってそういうとこが馬鹿よね。あんたはそんな度胸ないだろうけど、今現時点の段階でもし私に指一本でも触れたら思いっきりビンタしてから普通に警察呼ぶから。『この人痴漢です。』って言って見知らぬ顔で明け渡す。」

 自分に比べて彼女は驚くほど冷静だった。緊張した様子もなく、さっき買ったばかりの缶コーヒーを飲みながら、目の前の真っ暗な林の向こう側を行きかう車のライトをぼんやり見ていた。

 「私が他人と、しかも男と二人で話すことなんて滅多にないんだから、早くなんか聞きなよ。時間過ぎてくよ。じゃないと私本気で帰るよ。」

 「そうだね。自分で誘っておいて話さないとかアホだよな。じゃあこの前も言ったんだけど…咲空愛さん、その青いシュシュ好きなんだね。いつもつけてるし。」

彼女は、急に何を言うか、と、ちょっと慌てた様子でこっちを向いて言った。

 「あんた、もしかしてストーカー?いつもつけてる、って。さすがに毎日はつけてない。けど、あんたの言うとおり、このシュシュ大好きだけどね。」

そのとき自分ははじめて見た。そしてやっとわかった。そうか、自分は彼女の笑顔が見たかったんだ。ずっとぶっきらぼうだった彼女の顔からこぼれた笑みは、とても新鮮だった。

 「初めて見たときから、綺麗だなぁって思ってて。なんか気になってた。そういや、この前ファッション雑誌だっけ?買ったって言ってたけど、服とか興味あるの?」

 「興味ないこともないけど…。苦手なだけ。前にも言ったけど、私友達もいないし男にも興味ないし。だから余所行きの服なんてどうでもいいんだけど。だけど…。」

彼女は急に黙ってしまった。なんか悪いことを聞いてしまったのだろうか、と心配していると、彼女は下を向いたまま、いつも以上に小さな声で囁いた。

 「綺麗に、なりたい。」

綺麗になる?どういうことだろうか?綺麗という言葉とは無縁の、さらに恋愛経験の少ない女性の気持ちがまったくわかりもしない男の自分には、理解できなかった。

 「…どういうこと?外見が?綺麗になるって?」

彼女は顔を上げて答えた。

 「外見も、中身も。自分で調べてもわからない。綺麗になるってどういうことなのか。昔から超がつくほどの面倒臭がり屋でさ、女なのに化粧道具もろくにもってないんだよ。自分でも笑えてくる。けど、気づけばもう二十五歳。このままじゃダメだ、変わらなきゃって、最近思うようになってきた。けど誰かに聞こうにも友達いないし。流行りとかもまったくわからないし。」

遠くを見つめる彼女の横顔はちょっと寂しそうだった。こういうときこそなにか言ってあげないといけないのに、慰めの言葉一つもかけられずただ黙って隣に座っているだけの自分は、とても情けない男だと思った。

 「…あんたに言ってもしょうがないか。男にはわからないよね。今の言葉聞き流しといて。」

たしかにわからなかった。けど、なんとかしてあげたかった。彼女の力になりたかった。なんにも策も思いつかないまま、咄嗟に口から言葉が出てしまった。

 「…げる。俺が、咲空愛さんを綺麗にしてあげる。」

彼女はキョトンとして、持っていた缶コーヒーを地面に落としてしまった。

 「…は?あんたが?何言ってんの?なんか作戦あんの?なんもないでしょ。」

また黙り込んでしまった。なんでそんな言葉を言ってしまったのか、自分でも理解できなかった。

 「気持ちは嬉しいけどね。あんたは無理。男にはわからない。…以上。今日はもう帰る。ちょっと喋りすぎた。」

彼女は勢いよく立ち上がると、すぐに歩き出した。

 「あ、ちょっと待って。ちゃんと送ってくから。」

 「残念。私の家、すぐそこだから。後つけてきたら通報するから。じゃ、また。」

そう言いながら、暗闇の中を彼女は足早に去っていってしまった。

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