第8話 メフィストフェレス

「これは友達の話なんだけどな」

「友達?」

「そうだ」


 村岡が何かを言いかけたが、思い直したように頬を膨らませてコロコロと飴を舐めた。


「友達には両親はいない。母親は育児放棄のあげくに小さい頃に死別。父親はその後に失踪。結果、小学に上がる前に父方の祖父母の所に身を寄せた。祖父母は優しかった。これまで両親から受けた愛情を全てひっくるめた量を、たった一日で友達に注いでくれるくらいに。目覚めれば、おはようの挨拶から始まり、皺の刻まれた手から受け取る温かなご飯が盛られた茶碗。家に帰れば祖父が頭を抱きかかえるようにして迎えてくれる。眠る前に一緒に歯を磨き、おやすみの言葉で眠りに就く。両親と暮らしていた時には経験さえもしなかった生活だ。だけど満たされなかった。友達の心の中にぽっかり空いた穴は、何もかも飲み込んでからっぽにしてしまうんだ」


「ああ、それって仕方がないよねえ。量じゃなく、誰からかが重要なところだし」


 よく分かっているじゃないか。本当にお前は自分以外のことは理解できるんだな。

 俺は「例えば」と言って、わずかに残ったカルピスと解けた氷が混じりあい、薄く白濁した液体を底に溜めたコップを持ち上げる。


「誰かの家で遊んでいて、母親がおやつにこれを持ってくる。ただそれだけのことで、友達には自分の不幸を確認するには十分だった。悶々とした日々を過ごしていたある日、中学に上がった頃から同じ夢を見るようになった。出てくるのは少女と自分。少女は透けるような薄いローブをまとい、無垢な微笑を湛えて語りかける。あなたの願いを叶えてあげる。でも、代わりにあなたの大事なものを一つ、私に頂戴」


「それ、絶対に悪魔だわ」


「メフィストフェレスさ。錬金術師ファウストの望みを叶える代償に魂を要求した悪魔だよ。だけど少女が代償に求めたのは魂じゃない。大事なものだ」

「同じことでしょ」


 一見すれば冷めた表情の村岡は、こんな話に興味さえないように思えた。彼女の眠たそうに伏せられた黒い瞳は、一瞬たりとも俺の目から外れることはない。

 見透かされているな、と俺は思った。だけどこの話は、本当の話。嘘は一片たりともない。


「友達もそう考えた。大事なのは自分の命。それの対価に釣り合うものなんてない。だけど、そう分かっているのに、夢は高校に入学しても相変わらず見ていた。ふと考えた。もしかして、命を捨ててでも叶いたいものが自分にはあるんじゃないかと」

「それは何?」


 俺は肩をすくめた。


「それが分かれば、多分、世界中の悩み事の半分くらいが解決するんじゃないのかな。その友達のいい所は、自分の不幸を呪って世界を滅ぼす、なんて思いもしないあたりで、実に素朴な奴さ。夢に悩まされた友達は学校で友人に、その話をした」


「普通、そんな話は誰にもしないよね。心の中なんて誰にも知られたくない」


 それが村岡、お前の作り上げた強固な壁なんだな。師匠、壁を壊すために俺にその三節棍を貸してくれ。


「その友人だって心の中なんて知りたくもないだろうさ。そもそも、自分自身だって分かりやしないんだ。そうだろ、村岡?」

「あれ? 何で私」

「言ってみただけだよ。話を聞いた友人の答えは、発想そのものが違った。大事なものが自分の命とは限らない。お前の願いは大事なものと同じじゃないのかって。友達は、そうかもしれないと思い直した」

「それで?」


 村岡は飴を舐めるのをピタリと止めて言った。


「下校途中に探したんだよ。あれこれと。だけど探す必要なんかなかった。それはすぐ近くにあったんだから。家へ帰ると小学生の時と同じく、祖父が迎えてくれた。友達はすっかり大きくなり、逆に祖父は小さくなり、今では頭を抱きかかえることはできない。代わりに肩を抱きかかえられながら家に入る。老人が醸し出す特有のすえた匂いがする。台所では祖母が腰を丸めて夕食の支度をしている。そして彼女が作った料理が食卓に並び、三人で食べる」


 俺は喉の渇きを覚えて、極限まで薄まったカルピスを飲む。


「そこで友達は友人の言葉を思い出した。願いは大事なものと同じ。そうさ、同じなのさ。すでに友達は満たされていた。心に空いた穴はとっくに塞がっていたんだ。メフィストフェレスは契約を履行していた。願いは祖父母と過ごす時間が少しでも長く続くこと。大事なのは祖父母と過ごす時間。だけど遠くない将来、その時間を刻む時計は止まる。彼らは高齢だ。おそらく同年代の誰よりも先に、自分は肉親を失う」


「そんなの仕方ないんじゃないの」


「そうさ、仕方がない。だから、その時間を大切にしようと思った。自分が長い間、悩んできたのは何だったのか? むしろ問題はそっちだったのかもしれない。メフィストフェレスが夢に出てきた日に、願いはもう決まっていたんじゃないだろうか。ただ、見つけられなかっただけで。もし悪魔が現れて同じ交渉を持ちかけてきたら、お前ならどうする?」


 しばらく沈黙が続いた。コップに残っていた氷はすっかり解けて透明な水になった。


「分からない」


 考え抜いた挙句の村岡の答えだった。彼女は顔を上げ、師匠たちに目を走らせる。それからもう一度「私には分からない」と壊れたロボットのように繰り返し呟いた。

 すまない、師匠。どうやら俺には彼女を解き放つことはできそうもない。俺は沢木やジエリ相手ならどうにかできても、所詮はその程度の人間らしい。

 とは言え、それほど俺は落ち込んでいたわけではない。場合によっては時間が解決してくれる場合もある。完全な結果は、まだ出ていないのだ。


 俺は気分を変えようと、村岡にどうして少林拳が好きなのか聞いた。


「人間って凄いって思わない? 功夫クンフーを積めば、あんな動きができるようになるとかさ」


 村岡は視線を上に向けたまま、メリハリのない声で言った。


「憧れているのか?」

「別に。凄いとは思うけど。あれ? もしかしたら、そうかも」

「そうか」


 これは勝手な俺の想像だ。村岡は感情を剥き出しで戦う師匠たちに憧れているのだ。

 突然に村岡の携帯電話が鳴った。

 彼女は母親からだと言って電話に出る。どうやら、母親の帰りが遅くなりそうだといった内容のようだ。


「ごめん。家まで送れなくなった」


 電話を切った後、特に悪びれずに村岡が告げた。

 いいよ、と言って俺は立ち上がる。


「ちょうどバスに間に合う時間だ」


 俺は村岡の視線を背中に感じながら、振り返りもせずに家を出た。背後で玄関の扉が閉まる瞬間、バンッ、という音と共に荒々しく、それは再び開かれた。

 村岡が裸足で家から飛び出してきた。


「ねえ、もし私がメフィストフェレスに会ったら話を聞いてくれる?」


 答えは決まっていたが、俺は考え込むように間を持った。


「そうだな、カルピス一杯で聞いてやるよ」

「二杯でしょ」


 そう言ってから、村岡は何かに気づいたらしく、俺を指差した。


「あれ? 私、もしかして、もう会ってる。あんた、メフィストフェレスでしょ」

「お前の魂を喰っちまうかもな」


 村岡は沈黙で答えた。何とも言えない、意味深な沈黙だった。飴を転がす音さえもしない。

 俺が耐え切れなくなって片手を上げて駅のバスターミナルに向かおうとすると、村岡が声をかけてきた。


「今日はごめん、本当に。あんな話までさせて」

「あんな話?」


 俺が向き直って問いかける。


「あれ? さっきの友達の話じゃないでしょ。嘘だって分かったし。身の上話なんて人に聞かせたくないだろうなって思ったんだけど」


 村岡は首を傾げた。

 彼女は壮大な勘違いをしているらしい。それに一つはっきりしたことがある。俺はどうやら、あいつを友達と思っていないらしい。


「さっきの話、沢木のことだぞ」


 村岡は口の端を吊り上げて凄く嫌な顔をした。

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