第7話 少林拳

 村岡が選んだ玩具は、スポンジの小さなフライングディスクを打ち出す拳銃だった。

 彼女が代金を払っている間に、俺は店員から商品を受け取り、気づけば俺が荷物持ちになって村岡の家へと向かっていた。


 日はとっぷりと暮れ、帰りの汽車はすでに終着駅に着いている時間だった。つまりは乗り過ごしたのである。帰るタイミングを逃したというのも多少あるが、何となくだが村岡が一瞬だけ見せた愁いが気になったのだ。


 しかし特に聞き出しもせず、会話らしい会話も無く、村岡のカラコロと飴を歯に当てて転がす音を聞きながら家へとたどり着く。

 村岡の家は小さな庭を正面に構えた小奇麗な一軒屋だった。

 俺はプレゼントの入った手提げ袋を渡して、道を戻って駅まで行こうとすると村岡に呼び止められた。


「帰りの汽車はあるの?」

「ああ、今行けば、ちょうど発車する時間だ」


 汽車はもう出ていたし、代わりになるバスまで二時間近くあったが、俺は嘘を言った。

 村岡は無表情に首を少し傾げ、重力に負けてまぶたが半ばまで下りた瞳で、じっとりと俺を眺めた。


「本当は、もう行ったんでしょ。親に送らせるからさ。もう少しで帰って来るから、中で待ってて」


 村岡は俺の意思を確認もせずに家の中に入り、俺はいくらか躊躇しながらも、それに続いた。女子に招かれるのは何年ぶりだろうか。


 それにしても、どうして汽車を乗り過ごしたと分かったんだ?


 二階の村岡の部屋に通される。

 扉を開けると同時に俺の目に飛び込んできたのは、三節棍を正面に構え、吼えるように口を大きく開けた眼光鋭い坊さんだった。

 いや、坊さんではない。確かに頭は坊主だが、着ているのは柔道着のような物で袈裟ではない。


 少林寺だ。

 少林拳だ。


 村岡の部屋の壁はおろか天井まで貼られたポスターの中で、少林拳の使い手たちが思い思いの構えで、俺には見えぬ敵と対峙していた。


「座ってて」


 村岡はベッド横の折りたたみテーブルを指差してから階段を下りていった。

 俺は正座でテーブルに視線を落として村岡を待った。


 落ち着かない。

 物凄く落ち着かない。


 少林拳の達人たちの双眸から放たれる殺気に気圧され、いつ背後から三節棍が飛んで来るかも分からない、到底、起こりようもない命の危機を感じずにはいられなかった。

 この部屋では眠るのはもちろん、気を休めることも叶いそうにない。


 村岡がカンフー少女なのか、ただ少林拳が好きなだけなのか分からないが、意外な趣味に俺は驚いていた。


 何事にも、どこか無関心を決め込んでいるような彼女の形振りからは想像もできない。無機質な部屋か、あるいは、メルヘンチックな少女思想で、ぬいぐるみが並べられていた方が納得いった。


 この部屋は臭うはずのない汗臭さで充満している。甘い匂いも、心躍る清らかさもない。「ハッ、ハッ、ハッ、ハッハッ!」という掛け声が聞こえる気さえした。


 村岡はカルピスの入ったコップを二つ持ってきてテーブルに置いて、俺の前に座った。

 俺は差し出された飲み物を一気に喉に流し込んだ。やたらと喉が渇いていた。

 それを見て、村岡が自分の分を俺に渡した。それも一気に飲んだ。


「もっといる?」

「いや、もう腹が、というか胸が一杯だ」

「ああ、師匠たちが気になるの?」


 村岡が部屋を見渡して、相も変わらずに無表情で無気力に言った。どうやら、少林拳の使い手たちを師匠と呼んでいるらしい。


「気になるどころか、いつ殺されるか気が気じゃない」

「ただのポスターだけど」


 そうはそうだが、と俺は言葉を濁して言った。お前のキャラと趣味が結びつかなくて、扱いに困っているとは言えない。

 村岡はまたじっとりと俺を見つめてくる。心の中を見透かすように。


「ああ、私って、そんなにイメージと違う?」

「違うというか、こういのが好きだとは思わなかった」

「同じ意味でしょ、それ」

「学校で、少林拳が好きだって聞いたことがなかったからな」

「そりゃそうでしょ。誰にも言わないようにしていたから」


 じゃあ、どうして俺をこの部屋に招き入れた。一発でばれるだろ。

 彼女が何を考えているのか、さっぱり分からなかった。学校で自分の趣味を明かさない理由が、恥ずかしいだけなのか、他に理由があるのか見当もつかない。俺にとっては、この目の前にいる女は地球外生物と同類だ。


「だって、あんたが何か話したそうな顔してたし」


 まるで頭の中を覗き見られたような言葉に、心拍数が跳ね上がる。しかし、それはすぐに静まった。相手が話を切り出してきたのだから、それに乗っかろう。


「玩具を選ぶとき、何か悩んでいただろ」

「ああ、あんたって凄いねえ。私の心の中でも覗き見たの?」


 それは俺のセリフだ。


「癖があると何とか言っていたけど、弟に何か問題があるのか?」

「何で? なんにもないけど。凄く可愛いし。ちょっと、やんちゃなところがあるだけで。悪さするとしゅんとなる所とかやばいし」


 何だ、見当違いか。それなら、それでいい。


「ただ、今はまだ七歳だからいいけど、そのうち大きくなって、私と血が繋がっていないって分かったら、弟がどう思うのかなあって」


 表情も変えず、村岡は抑揚のない口調で言った。

 それでようやく気づいた。彼女の無感情は、それ自体が感情の表れなのだと。こいつは気持ちを押し殺している。


「お前はどうなって欲しいと思うんだ?」

「私? 何で」

「言いたくなければ、言わなくていい」

「このまま仲良くいられたらいいなあ、って思うだけだけど」


 おそらく、素直な気持ちを村岡は述べた。淡々とだが。しかし、俺にはそれで十分だった。彼女は話したがっている。


「いられなくなる原因があるのか?」

「ああ、一回、私は家族を壊しちゃったからさあ」


 重い。とてつもなく重い言葉も、村岡にかかれば朝の挨拶のように軽いものに聞こえた。もちろん、そんなはずはない。俺は黙ったまま、彼女が話し始めるのを待った。


「何となく人の気持ちが分かるんだ。特に嘘とか。子どもの頃に面白がって本心を当てて回っていたら、学校じゃあ孤立するし、親は離婚するし、気づいたら里子に出されるし。今は余計なことは言わないように気をつけているけど」


 嘘を見抜く相手。


 それは俺にとっては天敵だ。てきとうな話をでっち上げて丸め込む訳にもいかない。

 そもそも本当に嘘が分かるのだろうか。その片鱗は垣間見た気はするが、確信には至らないし、確かめる気にもならない。村岡がそうだというなら、そうなのだろう。


「それで、言いたいことも言えず、気持ちを押さえ込むようになったのか」

「あれ? そんなつもりないけど」

「だったら、なおさら悪い。そもそも、俺を部屋に連れてきたのはどうしてだ? 趣味を隠していたんだろ。リビングで待たせればいいのに」


 俺が聞くと、村岡は「あれ?」と言って首を何度も傾げた。それから俺の目を見た。


「なんでだろ?」


 人のことは分かっても、自分のことは分からないらしい。


「よく考えてみろ」


 村岡は目を瞑って「うーん」と唸り始めた。

 長い時間、俺は口を開かずに村岡の悩む姿を眺めた。

 やがて彼女の目がゆっくりと開かれる。


「沢木の相談を聞いている戦闘民族を見て、私も話を聞いてもらいたくなった? とか」


 台本でも棒読みする風だった。俺程度の人間では、村岡の抑揚のない言葉から、その心情を読み取ることはできない。

 しかし、自覚もなく、何が自分を悩ませているかも理解できない相手を、面倒だからと言って投げ出すわけにはいかない。ましてや彼女はクラスメイトだ。


 ヒントはどこだ。

 村岡は何を悩み、どうしたいのか。その手がかりは……。

 ふと顔を上げると、三節棍を持った師匠と目が合った。彼の大きく開かれた口から、今にも咆哮がほとばしってきそうだった。


 いや、俺には聞こえた。師匠の叫びが。


「刮目せよ! そして彼女を解き放て!」


 いいだろう、師匠。やってやる。


「これは友達の話なんだけどな」


 俺は静かに、だが力強くそう言った。

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