第5話 フライングディスク

「フライングディスクで遊んだことはあるか?」


 ジエリは質問に答えずに、頬を膨らませて俺とは反対の壁側に体を捻った。

 こういう場合は、時間を置いて自然と機嫌が直るのを待つ方が得策だったが、それを待っていたら帰るのが遅くなる。ジエリの力なくして、元の世界に戻ることはできないのだ。


 とは言え、話も聞いてもらえないのでは、どうしようもない。ジエリの興味のありそうな話はなんだろう?

 やはり恋愛物だろうか。フライングディスクが単純な構造だからこそ飛ぶ、という話をするつもりだったが止めておくか。


「実は俺の祖父がフライングディスクの発案に手を貸したんだ。祖父はチャキチャキの江戸っ子で、短気で喧嘩っ早く、大雑把な上に、金はないのに見栄っ張り。まさに江戸っ子の鏡のような人だった」


「貴方に似て、嫌な人だったんでしょうね!」


 やっと口を利いたか。


「嫌な人間かは知らんが、良い人間ではなかった。中学を卒業して、すぐに家を飛び出して大工の棟梁の所に住み込みで働かしてもらった。祖父は言った通り、短気で大雑把。寸法を測るのも一寸刻み。当然、出来上がるものはデコボコのガラクタさ。怒られようものなら喧嘩を始める」


「まさにクズですね」


 ジエリが唾を飛ばしながら罵る。


「ああ、クズには当然、罰が下る。棟梁に叩き出され、それからも同じことを何度も繰り返しながら、北へ北へと流れていった。気づけば雪国。雪が舞い降る夜に無人駅に佇む自分。いつ事切れてもおかしくない電灯の下で、金もなく、行く当てもなく、もはや生きるのに疲れきった祖父は、ここで人生の幕を閉じてもいいかと考え始めた」


「ちょっと可哀想になってきま……死んじゃえばいいんですよ」


 途中で自分が怒っていることを思い出したようで「私は簡単にほだされたりしませんからね」と言って口を尖らせた。


「そこに一台の軽トラックが止まった。運転席から出てきたのは、眼光鋭い巨漢の男で、祖父に話しかけて事情を聞きだした。男は無言のまま祖父を助手席に押し込み、車を走らせた。着いた先は、屋根にうず高く雪が積もった今にも崩れそうな一軒家だった」

「この家みたいで……潰れちゃえ」


「男は祖父を少し離れた仕事場へと連れて行った。薪ストーブに火を入れ、その横に祖父を座らせて自分も座った。会話なんてない。ただ、窓から覗くしんしんと降り注ぐ雪を見つめながら、破ることが許されない張り詰めた沈黙に身を置いた。やがてストーブの上に置かれたヤカンが煩く鳴り響き、男は祖父にお茶を作って渡して出て行った。長い夜だった。考えることは多くあった。それは自分の愚かしさと浅はかさをたどる旅のようだった。祖父は泣いた。おそらく初めて泣いた。なぜ泣いているかも分からずに」


 少しずつだが、じりじりとすり足でジエリが寄ってきた。俺は声を少しずつ落としながら話していたので、近寄らなくては聞こえない。


「朝になって男はおにぎりを一つ、祖父に渡した。それは、無骨な男が作ったとはとても思えない、小さいながらも形が整った、ほんのりと温かいおにぎりだった。日の明かりの下、周りを見渡すと、男の仕事が分かった。陶芸家だ。使い古されたろくろに、作られたばかりの作品が棚に並び、名も使い道も知れない物がそこかしこに置かれていた。男はとにかく寡黙だった。仕事の始めから終わりまで口を開かない。でも、それは祖父にとって救いだった。話をするような気分ではなかった。ろくろの上を回る歪な粘土の塊が、男の手によって形付けられていく様に目を奪われた」


「陶芸なんて地味な話、知りたくもありません」


「ここからが大事なところだ。祖父は陶芸に興味を示した。でも、その程度だった。男に弟子入りしようとは思わなかった。そして決定的、あるいは運命がやってきた。昼時だ。仕事場の扉が開き、男の娘が昼食を持ってきた。髪の長い、雪のように白い肌の娘だった。祖父は全てを焼き尽くすような業火に身を焦がした。次の瞬間には男に頭を下げて弟子入りを願い出ていた」


「一目惚れしちゃったんですね」


 ヒッヒッ、と引き笑いを漏らしながらジエリは楽しそうに言った。


「そういうことだ。男は許さなかった。祖父も諦めなかった。そして一ヵ月後、男は祖父を認めた。日々は瞬く間に過ぎていく。十年だ。気づけば祖父は三十路に入り、娘は二十八。すでに娘は年頃を過ぎて行き遅れになっていた。彼女が望めば結婚相手なんて両手で余る程いたはずなのに。なぜか? 祖父を待っていたんだ。祖父は、そんな娘の気持ちを知りながら何も言い出せずにいた」


「ええ、どうして。言っちゃえばいいじゃないですか。どんな人でも好きな人といられるのが一番幸せなのに」


 じれったい、とジエリは地団駄を踏んだ。気づけば彼女は食卓の前に椅子を置き、俺と向かい合って座っていた。機嫌はすっかり直っていた。

 単純な奴だ。


「言っただろ、祖父は見栄っ張りなんだ。半人前の自分には、娘を貰う資格がないと思っていたのさ。そんな時に、男から日本皿陶芸展に出品してはどうかと提案があった。千載一遇。それで金賞を取れば娘に求婚できる。祖父は飛びついた。しかし、過去の金賞作品を見て驚いた。どれもこれも精巧で豪華絢爛。立ち昇るドラゴンの皿、ラフレシアが花開く皿。到底、自分には作れない。彼は江戸っ子チャキチャキ。結局、出来上がったのは手の平よりも二回り大きいだけの丸くて白い皿」


「貴方のお爺ちゃんは、やる気があるんですか! そんなんじゃ、金賞なんて無理。それで娘さんと結婚しようなんておこがましい」


「祖父には、それが精一杯だった。そして陶芸展の日はやってきた。審査会場に集まった出展者は祖父の他に五人。自らの作品を前にして、誰もが自信に満ちた表情をしていた。彼らの作品は、どれもこれも素晴らしく技巧的で複雑で色彩鮮やかだった。祖父のを除けば」


 もうダメだー、勝ち目がない、とジエリは両手で頭を抱える。


「審査員の中には人間国宝、佐藤泰造がいた。彼らは順番に、並べられた作品に目を通していく。素晴らしい、見事だ、傑作だ。口々に感嘆の声が審査員から漏れ聞こえる。しかし祖父の作品を見るや否や、猿が作ったのか、場違いだ、百円ショップの商品を持ってきたのはどこのどいつだ、と酷評した。ただ一人、佐藤泰造は何も語らず、顔に刻まれた深い皺の奥に落ち込んだ眼窩の底で、哀れむような憐憫に満ちた瞳で祖父の作品を見つめていた」


「ハッキリしやがらない人間国宝ですね。言いたいことがあるなら言えばいいじゃないですか」


 お前みたいに言いたいことを自由に言える方が珍しいだろう。


「彼は自分がお飾りだと分かっていたんだ。審査なんて形だけ。すでに金賞はあらかじめ決まっていた。自分がそれに箔をつけるためだけのお飾りだと」

「世の中、腐りきっています。何がなんでも私たちで正さなくては」


 使命感に駆られたのか、ジエリは拳を強く握り締めて立ち上がる。


「落ち着け。祖父は惨めだった。自分が過ごした十年は何だったのか。何より、背中を見守るように佇む娘に申し訳なかった。形だけの審査が終わり、審査員が別室に移動しようとした時、娘が進み出て声を張り上げた。貴方たちは本質を見失っています、と。皿は飾るものでなく使われて初めて意味がある。その真価は、料理をのせ、汚れれば洗い、そうした日々の中で彩られていくのです。娘の言葉は響き渡った」


「娘さんの愛が伝わってきますよ」


 ジエリは涙目になって言った。


「娘の言葉に、佐藤泰造の閉ざされていた瞳は見開かれた。彼は祖父の作品を手に取り、こう言った。この皿は一見、変哲のない、ただの白い皿だが、私には分かる。さざ波一つない海に落ちた神の涙から広がる真円の波紋が泡となって女神ヴィーナスのごとく立ち上がり、この皿は創生されたのだと」


「何を言っているのか分からないけど、何か凄い!」


「その瞬間、金賞は決まった。祖父は勝った。駆け寄ってきた娘を抱きしめ、そして求婚した。答えはもちろんイエス。会場は拍手の渦に巻き込まれた。ジエリ、過剰な装飾なんていらないんだ。必要なのは二つ。真摯な努力と愛だけだ。俺は相談室を、そんな風に作って行きたい」


「そうです、その通りです。心が洗われました。きっと、お祖父さんとお祖母さんは、その皿を今でも大切に毎日、使っているんでしょうね」


 感激しているジエリに対して、俺は頭を振った。


「いや、会場で出展者の一人が佐藤泰造に噛みついた。こんな餌皿みたいなゴミが金賞なんておかしいだろうって。言った通り、祖父は江戸っ子。カッとなった祖父は自分の皿を握り締めると、そいつに投げつけた。ジャイロ効果で皿は水平を保ったまま、脇目も振らずに真っ直ぐ飛んで、そいつの顔面と一緒に砕けた。それを見た娘は会場を飛び出して、フライングディスクの実用新案を特許庁に提出しに行った。まあ、佐藤泰造の方が一歩早くて駄目だったんだけどな」

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