第3話 シュレーディンガーの猫
シュレーディンガーの猫 = いつも箱に入れられて生きているか死んでいるかも
分からない、あやふやな状態にさせられて、
しまいにはふて腐れて箱から出てこなくなる猫。
猫 = ごく一部の界隈で「受け」のこと。BL語。
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「結構、ハードな話なんですけど」
ジエリはそう前置きしてから話し始める。
「このまま行くと、私の管理している異世界同士が特異点で衝突して対消滅を起こして消えちゃうんですよね」
ハード過ぎるだろ。到底、俺ごとき一介の高校生に解決できるような問題じゃない。
しかし、金をもらった以上は相談には乗る。
「お前が何とかできないのか? 管理員だろ」
「私が干渉できる領域じゃないので。上主さまでも無理ですねえ。それで困っているんですよ。ようやく管理員になれたのに、その世界が消えちゃうなんて」
ジエリが悲嘆にくれるように俯いてかぶりを振る。
あまりに振りすぎて、ポニーテールがぐるぐると回転し、飛んでいたハエを叩き落した。
「それは、いつ起こるんだ?」
俺はザワツク胸を押さえ込んで平然を装って聞いた。
「二百億年、正確に言うと……」
「言わんでいい」
二百年先すらどうでもいいというのに、そこに億がつけばどうでもいいを通り越して、もはや意味が分からない。
空が落ちてくるようなハードな相談は、今や道端に落ちている軍手も同然だった。
「二百億年って日数で言えばいくつだと思う?」
「七十三兆飛んで……」
「言わんでいい。秒数にすると?」
「六十三京七百二十兆ですかね」
即答とは計算が速いな。
考えた様子すらジエリには見受けられなかった。ただの能天気なお馬鹿だと思っていたが、案外、頭はいいのかもしれない。
俺の頭の中のソロバンは、まだ珠を弾いている途中だった。
「そんな遥か先の話、今、考えたところでしょうがないだろ」
「えー、そんなのすぐじゃないですか」
どうやら時間の感覚がそもそも俺とは違うらしい。
こうなると、この線で責めるのは不可能だった。
違う方向性で行かなくては。
「シュレーディンガーの猫というのを知っているか?」
「それぐらい知っています。量子力学を説明するときの思考実験ですよね。箱に入れた猫は、観測者が箱を開けるまで生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている、生きても死んでもいないっていうあれですね。あっ、何か分かっちゃった。私が見なければ、衝突しても二つの世界が消えてもいるし、消えてもいないって誤魔化すつもりなんでしょう。浅はかー」
シッシッ、と声を殺して嬉しそうにジエリは笑った。
それぐらいで腹を立ててはこいつのペースに飲み込まれてしまう、と俺は我慢を決め込んだ。
「お前は、実はシュレーディンガーの猫の本当の意味を知らないだろ」
挑発気味に俺は言った。
「そんなの知らないですよ」
「十七世紀、場所は今のオーストリア。あの魔女裁判や異端審問が頻繁に行われ、みんなが怯えて暮らしていた時代だ。魔女や異端と見なされれば、即、火あぶりの刑だからな」
「嫌な時代ですね」
嫌悪感を隠さずにジエリは顔をしかめた。
「ああ、そうだな。そんな時代を生きる若い修道士の話だ。彼は大変な物知りで、同輩の修道士はおろか、助祭、司祭、さらには司教まで彼の知識を借りに話を聞きに来た。彼は聞かれれば、すぐさま正しい、一片の齟齬もない回答をくれた。彼は次第に有名になった。でも、有名になればなるほど、当然、彼を好ましく思わない、妬む奴が出てくる」
「そいつこそ火あぶりにするべきですよ」
「その通りだな。修道士はある日、妬んだ奴にはめられて異端と判断され、異端審問にかけられた」
「そんなの酷い。火あぶりにされちゃう」とジエリが両手で口を覆った。
「これは彼がどうやって切り抜けたか、そういう話だ。異端審問官は、修道士を憎む連中の急先鋒で、修道士を火あぶりにすべく罠を用意していた。彼はいつも連れている金髪で幼顔の美しい助手を連れ、修道士と審問で対峙した。修道士は、自分に何の咎があるのか、と冷静に異端審問官に問いかけた。答えはこうだ、お前は知り得ないことを妖術を使って知り得た。神の摂理を蔑ろにしたのだ、と」
「そんなの難癖じゃないですか」
ジエリがバンバンとテーブルを叩く。
「異端審問は大抵、難癖だ。修道士はどうして私が妖術を使ったと証明できるのかと反論する。審問官はニヤっと笑って、一つの箱を助手に言って持ってこさせた。この中に猫が入っている。猫が生きているか死んでいるか、私に教えてくれと言った」
「それって分からないって言えばいいんじゃないですか?」
率直な疑問に俺は頷いて見せる。
「普通ならそうだ。でも、そこが異端審問の肝なのさ。生きていると答えて、猫が本当に生きていたら、妖術を使って知ったのだと言って火あぶり直行、逆に死んでいれば嘘をついて白を切ろうとしていると言われて、拷問の果てに自白して火あぶり。分からないと答えても嘘をついていると断罪されて、同じことになるのさ」
「じゃあ、八方塞じゃないですか」
「そう、八方塞だ。でも、そこはさすが修道士、罠を見抜いた。私には猫が生きているか死んでいるか分かりません。審問官は勝ったと思った。しかし修道士は話を続けた。しかし、その箱が空なのですから、それぐらいは私にも分かります。そう、確かに箱は空だった」
「どうして、そんなことが分かったんですか?」
「簡単さ、助手の腕には力が入ってなかった。猫も、それなりの重さのはずなのに。審問官は、空箱だと見抜けなかった彼の間抜けっぷりを曝け出させて、公然の場で辱めるつもりだったのさ」
「さすがは修道士さま、危機を乗り越えたんですね」
ホッと息を吐いて、ジエリが胸をなでおろした。
「まだだ、審問官はさらなる罠を用意していた。また助手に言いつけると、助手は奥の部屋に消え、出てきた時にはあるものを三匹、胸に抱えてやってきた」
俺は言葉を切り、しばらくもったいぶった。
「何が、何が」とジエリが急かした。
「それはチワワだった。それも普通のチワワじゃない。猫のようなチワワだった。毛づくろいする姿はまさしく猫。でもチワワだった。そのつぶらな瞳に射抜かれて、修道士はとろけるような感覚に襲われ、今すぐにでも助手に駆け寄ってチワワを奪いたい衝動に駆られた」
「それ、すごい分かります」
「審問官は心の中で勝利を確信した。もう自分の術中にはまったと。彼はこの中に一匹猫がいる。その猫は異端の秘術によって生み出されたもので、今すぐにでも火あぶりに処さねばならない。私のような愚か者には見分けられないので、このままだと三匹とも灰にするしかない。異端ではなく博識であられる修道士殿には、どれが猫か一目瞭然でありましょう」
俺はその時の審問官を想像して、ビシッという感じでジエリの眼前に向けて指を突きつけた。
彼女はあからさまに不快な顔をして俺の指に噛み付いた。
「きょのむなくちょわりゅいきゃつめ」
「俺は審問官じゃない!」
ハッとなって彼女が指を離す。指にはしっかりと歯型がついていた。
「ごめんなさい」
「いいよ、別に。それで修道士は敗北感に打ちのめされた。彼には分かっていた。自分は、もう終わりだと。一匹のチワワを猫だと断罪すれば自分が助かっても、チワワは火あぶり。こんな愛くるしい者を殺すことはできない。これは猫ではなくチワワだと言えば、かばったと見なされて自分が死ぬ。黙っていれば、自分は生き残っても、三匹とも火に焼かれる。しばらくして、このチワワとも猫ともつかない三匹を救うためならば、命を投げ出そうと決めた。その瞬間、彼の脳裏をチワワの曇りの無い瞳から放たれる一筋の光が貫いた。それは、まさしく蜘蛛の糸だった」
「おお」
「修道士は言った。ここには猫はいない。しかしチワワもいない。いるのは、猫であり、チワワでもある、全く別の何かである。審問官は戯言を、と一笑した。修道士は続けた。裁判官殿、参事官殿、ならびに御覧の方々、この愛くるしい生き物の瞳を見ながら、これがチワワだ、あるいは猫だと断言できる者がおりましょうか。おられたら起立を願いたい。修道士は待った。その様子をチワワは不安げに、少し首をかしげながら落ち着きなく見ていた。当然、誰も立ち上がらなかった。これはチワワであると同時に猫でもある。神は二つを掛け合わせ、このように世にも愛くるしいものを私たちに与えてくれたのだ。修道士の勝利を宣言するような朗々たる声は部屋中に響き渡った。誰もが納得した。納得しないのはただ一人、審問官だ。だが、もはや彼に勝ち目はなかった」
「やった、助かったんですね。ザマミロですよ、腐れ審問官」
手を叩いてジエリは喜んだ。
「この一件から、優れたもの同士を合わせて、より優れたものを生み出すことを、シュレーディンガーの猫と言うようになったんだ。しかし、後年の思考実験の方が有名になってしまい、こちらは忘れられてしまった。どうだ、ジエリ。たとえ、俺の世界と異世界が衝突しても、その時までに素晴らしい世界を作り上げていたら、それは合わさり、より素晴らしいものになるってことが分かっただろ」
ジエリは立ち上がって俺の手を取って、上下に激しく振るう。
「分かりました。すごい分かりました。一緒に、素晴らしい世界を作りましょう」
「ああ、もちろんだ」
「よかった。本当に貴方に相談してよかった。一万円ぐらいの価値はありました」そこでようやく何かを思い出したようだ。「あれ、シュレーディンガーの猫のシュレーディンガーさんはどこに?」
もっともな意見だ。
「話しには実は続きがある。修道士は審問官を完全に追い込む、とっておきのネタがあった。彼は言う。しかし、ここには猫がいます。そして彼は審問官を指差した」
ジエリはゴクリと音を鳴らせて唾を飲み込んだ。
「彼が猫です。助手シュレーディンガーの猫です」
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