第2話 異界管理員
祖母が入院して二ヶ月になる。
これまで食事の支度を祖母に任せて、キッチンに立つことなどなかった俺だが、いくらか料理が作れるようになっていた。
この町では火曜と金曜の午前九時から十二時までの限られた時間を逃すと、一切の食料品を買うことができない。
コンビニに行こうとすれば、ハーフマラソンを完走しなければならず、これが、ましてや極寒の冬の時期となれば、冬山登山並みの装備でも生きて帰れる保障はない。
結果、人間様を押し退けてキッチンに座する、巨大な石碑のような冷蔵庫に、学校近くのスーパーでタップリと買いだめした食料品が詰め込まれている。
両親はいない。
母は若くして他界。
それを機に、放蕩息子と祖母が評する父は、結婚後は静まっていた病気を再発させた。
俺を彼女に預けてアメリカンドリームを掴んでくると言って船で――飛行機に乗らないとは、さすが放蕩者だ――アメリカに旅立った。
おそらく、どっかの汚い路地で、永遠に覚めることのないアメリカンドリームに浸っているのではないだろうか。
祖母のささやかな年金と、国からのおこぼれのような補助金で暮らしているが、金には困っても、生活に困ったことはない。
その日、夕食を終えて自室に戻ると、部屋の床にポッカリと穴が開いていたのである。
直系は約一メートル。
まるで底が見えず、浅いのか深いのかさえ判然としない暗黒の穴。
不用意に近づけば、たちどころに吸い込まれてしまいそうだった。
「やっと戻られましたね」
穴からヒョッコリと女が顔を出した。
後ろでまとめた茶色の髪をプラプラと尻尾のように振りながら、彼女は穴からはい出して俺の前に立った。
ピッタリと体に張り付いた白の全身タイツに目がいく。
贅肉がどうにか胸辺りに確認できるだけで、それでいながら筋肉質なわけでも、骨ばっているわけでもない、人間離れした実に無駄のない体付きだった。
歳は俺より一つか二つ上といったところで、顔の作りは精巧で人間味を感じさせない反面、目だけがやけにキラキラと、それこそクリスマスプレゼントを待つ子どものようだった。
俺はしばらく呆然と立ち尽くした。
頭の処理が追いつかない。
「すいません、こんな不躾で」
その言葉で若干、自分を取り戻した。
「本当にそうだ」
俺は素っ気無く言った。
「だから謝っているじゃないですか」
「謝るくらいなら、今すぐ穴に戻って、それを閉じたら二度と来るな」
こいつが居なくなれば、何も無かったことにできる。
半ば思考停止に陥りながら、俺はそう考えた。
どこかの未来の道具よろしく、部屋に空いた穴の存在も全身タイツの女も忘れられる。
「ええ、そんなに怒らないで下さい。せっかく、こうして来たのに」
女が眉間に皺を寄せる。
「人の家に来るときに不意打ちで、さらには穴から出てくる奴がどこにいる」
「じゃあ、どうやればいいんですか?」
彼女は口を尖らせてケンカ腰になって言った。
「普通は玄関で呼び鈴を鳴らして名乗るもんだろう」
「じゃあ、そうしますよ。まったくもう」
渋々と女が穴に戻り、部屋は普段と変わりない姿に戻った。
呼び鈴が鳴った。ピンポーン、と昔ながらのアナログ音が響く。
この家に液晶付きのインターホンなどというハイテクノロジーな物は存在しない。
俺が知らない振りを決め込んでベッドに横になる。
呼び鈴は絶え間なく鳴り続け、次第にその間隔を縮めていき、最後には一秒間に十六回は鳴り響いた。
諦める気がないな、と俺が諦めて玄関に行き「どちら様ですか」と尋ねる。
「夜分に申し訳ありません、ジエリと申します。突然のお願いで恐縮ですが、ご相談したいことがございます」
こう言われてはドアを開けないわけにはいかない。
鍵を外してドアを開けると、満面の笑みを浮かべるジエリが立っていた。
「これでいいんですよね」
台無しだ。
俺は段々と面倒になり、どうせ無理に追い返したところで彼女が諦めないのを悟り、仕方なく居間に通した。
もう深く考えるのは止めよう。
テーブルを挟んで向かい合って座る。
「相談って何だ?」
俺が切り出すと、ジエリは待っていましたと言わんばかりにテーブルに両手をついて身を乗り出した。
「はい、私は異界管理員って仕事をしているんですが」
「異界管理員って何?」
言葉を続けようとするジエリを遮って俺は聞いた。
「そっから説明かあ」とやや不満そうに彼女は言った。「異界管理員は、いくつも異なった世界を管理しているんです」
そのまんまだな。
俺が要領を得ない話にとぼけた表情でいると、ジエリは、どうしようもない奴だと呆れた風に肩をすくめた。
「この世界の他に、こことは違ういくつもの異世界があって、そこに芽生えた知的生命体が絶滅しないように管理しているんです。私は新人なので二つの異なる世界を管理しています。知的生命体は」
「もういい。何かどうでもよくなってきたから、本題に入ろう」
「えー、ここから深くてイイ話しなのに」
不満そうに口を尖らせる。
コロコロと表情が変わる女だ。
「いいから早く言え」
「私、いつも貴方が汽車でお友達の相談を解決しているのを見てきました。とても感動しました。ほら、テレビとかラジオとかの何とか相談って、嫌いなんですよね、私。あいつら、開口一番、どうしたいの? って偉そうに言うじゃないですか。もう腹が立って腹が立って仕方がないんです。だって、どうしていいか分からないから聞いているのに。その点、貴方は違います。あんなに人を納得させられるなんて。あれを異世界でもやって欲しいんです。向こうはまだ中世レベルで、相談相手に困っている人が一杯いるんです。だからみんなの相談に乗って欲しいんです」
こいつのキラキラした目は多分、物凄い節穴かガラス玉なんだろう。
相談相手が沢木だからできているだけの話だ。
「それをやって俺に何の得があるんだよ」
俺は話にならないと顔を背ける。
「お金上げます」
そう言って、どこからともなく百万はありそうな皺一つ無い札束をどさりとテーブルに置いて、そっと俺に差し出した。
「お前はどこかの令嬢か? どっからこの金を持ってきたんだよ」
「造幣局からですよ」
「犯罪だろ」
「千兆円も借金しているんだから、こんな端金、誰も気にしませんよ」
妙な説得力に俺は負けた。
いや世間に負けた。この資本主義社会という世間に。
「危険はないんだろうな」
「もちろんです」
「分かった。だけど条件がある。長い時間はごめんだ。勉強もしなきゃいけないしな。だから時間は十分。それならやろう」
「たった十分かあ、それなら」
ジエリはヒョイと札束を取り上げて、そこから一枚だけ抜き取って俺の目の前に差し出す。
「報酬はこんなところですね」
俺はしばらく考えた振りを続けた。
場合によっては、報酬が釣り上がるかもと期待して。交渉は弱みを見せたら負けだ。
ほれほれ、とジエリがこれ見よがしに諭吉様をヒラヒラとさせる。
俺は再び世間に負けた。
金を受け取ると、ジエリは悪事を企む代官そこのけにニンマリと笑った。
「それ手付金なんで、私の相談に乗ってくれますよね」
もはや嫌だとは言えなかった。
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