第17話 離してはいけないもの
研修最後の日は素晴らしい青空だった。午前中に総括があって、ランチの時間にパーティーを催してめでたくすべての研修が終了した。
グループディスカッションや病院見学ですっかり打ち解けた参加者たちは、みんなで写真や動画を撮って記念にしている。もちろん私もたくさんの友人たちと連絡先を交換し、別れを惜しんだ。外国人で、時々コミュニケーションがうまく行かない私を、みんな本当に優しくフォローしてくれた。別れ際、ユンが
「明日空港へ見送りに行くね。今日は楽しい時間を過ごしてください。」
手を振りながらペコリと頭を下げた。私は手を振り笑って頷いた。
夕方4時。私は再びヨイナル公園の土手を下った。川縁に腰かけて、タブレットを取りだし、今日撮った記念写真を見た。楽しそうなみんなの顔を見て思わず笑みがこぼれる。
ふと後ろに人の気配を感じた。振り返ると駿が立っている。
「楽しそうだね。」
とタブレットを覗きこむ。私はタブレットごと駿に渡し、お尻についた草を払って立ち上がった。駿がタブレットの写真を少し微笑みながらスクロールしている。その表情を見て何だか懐かしい気持ちになった。フランスで再会した時、私は看護学校での生活を写した写真をアルバムにして持って行った。そのアルバムのページをゆっくりめくっていた時の駿もこんな風に微笑んでいたっけ。
私たちは船の時間まで、川沿いの遊歩道を散歩することにした。ローラーブレードをはいている人やサイクリングのカップルが通りすがる。
「ねぇ、おじいちゃんの墓参り行ったの?」
と私は尋ねた。
彼の最愛のおじいさんは、私がパリへ行った日の夜に亡くなった。彼はその夜、一睡もせず、呆然としていたそうだ。でも、そんなこと私には一言も言わなかった。最後の日に公園の水道で顔を洗っていたのは、涙を洗い流すためだったと私が日本へ帰ってしばらくたってから教えてくれた。
「うん。パリ大学の大学院の卒業証書を持って行ってきた。」
駿が少し淋しげに見えた。本当は、写真家として成功した姿も見せたかったのだろう。
あの頃私は、おじいちゃんが亡くなったことを教えてくれなかったことに、傷ついていた。一番辛いことを伝えて甘えられる存在ではなかったと思い知った気がしていた。
でもそれは、彼の優しさであり思いやりだったのかもしれない。
4~5年前から、彼が写真を撮らなくなっていることに私は気づいていた。
ネットで検索しても全くヒットしない。インスタグラムやFacebookも使っていない。アーティストであれば、自分の活動や作品を紹介するために何かしらの発信をするはずだ。何らかの理由で写真をやめてしまったのかもしれない、そう思っていた。
「最近作品の方はどう?」
聞いてもいいのかどうか少し迷いつつ、慎重に尋ねた。駿は一瞬黙って私から視線を外し、こちらを見ることなく答えた。
「写真、やめたんだ。色々あって、日本へ帰ってきた。」
私は、
「そうか…。」
とだけ言うと、あとは無言で歩いた。駿の顔には、この10年あまりの間に刻まれた影のようなものが現れていた。年齢を重ねれれば重ねるほど、人間の顔にはその人の人生の来し方が現れるという。若い頃には確かに見られなかった深い挫折や苦労の跡が駿の顔に刻まれているように見えた。
「楓は仕事うまくいってるみたいだね。さっきの写真見てわかった。」
駿が微笑む。
私は空を見上げた。
「私は人間を見るのが好きだからさ、ある意味趣味と実益を兼ねてるんだと思うよ。急性期のバリバリの看護師を夢見てたのに挫折して、とりあえず免許使って食っていかなきゃならないから探したのがこの仕事ってだけなんどけどね。初めは精神科なんて全く興味なかったのに気がついたらどっぷりはまっててさ。人生ってほんとわかんないよね。」
駿は微笑みながら黙って聞いている。
私はそばを通って行く自転車を見ながら聞いてみた。
「今でも自転車でとんでもない距離を移動したり、野山をランニングしたりしてるの?」
「それは相変わらずやってる。最近は水泳も。体力はまた落ちてないよ。」
駿が自信ありげに答える。確かに体つきを見ればわかる。日ごろからアスリートのように運動している人の身体だ。
「私さ、昔は駿の健康さがうらやましかったんだよね。同じようになりたいと思ってたし、一緒に遊ぶなら同じくらい元気にならなきゃと思ってかなり無理してた。」
駿が驚いた顔をする。
「そうなの?あの頃は本当に元気だったじゃない。一晩中ライブで踊ったりして。」
そんなこともあったな、そういえば、と苦笑する。まだ20代だったからな、あの時は。
「じつはね、駿がフランスへ行った後、必死だった。次に会う時までに、本当はダメな自分を何とかしたい、駿に似合う元気でバイタリティー溢れる人にならなきゃって。それが自分の心を痛めてることにも気づかずに。」
私は告白した。
「駿は健康的でスポーツが好きでアウトドアが好きで・・そんな家で育ってきたでしょ?私は違った。本当は外へ出て過ごすのは苦手。必死で俊に合わせてたんだよ、あの時は。そして思った。私も駿みたいな家に生まれてたら良かったのにって。たぶん駿とずっと一緒にいるのは無理だった。だってあの頃の私は演技だもの。一緒にいるのが短い間だったから演じきれただけ。」
駿は言葉を発しなかった。
「でもね、今私は自分のことわりと好きなんだと思う。なりたいと願った自分とは違ったけど、今の自分は苦労して作り上げた作品みたいなものだもん。」
私は続けた。
「大好きな韓国のドラマのなかで、おじいさんが孫たちに言ってたセリフがあってさ、『自分を大切にできない人は他の人も大切にできないし愛されない。』っていうんだ。今はその意味が分かる。その通りだと思う。自分で自分を認められるようになってから私は人間が好きになった。駿と日本で別れた頃、周りの人がみんな死んじゃえばいいのにって思ってたんだよ、本気で。」
荒んでいた自分を思い出して私は少し笑った。あんな自分でも今となっては愛おしく感じる。
「俺は・・。」
駿が口を開いた。
「あの頃の自分のまま、ずっと生きていけると思ってたんだ。ああいう自分が理想だったし、そうやって生きてる自分に満足してたのかもしれない。周りの人も、もちろん楓も、そんな俺を面白いと言って魅力を感じてくれた。」
私は彼の横顔を見つめていた。彼はただ前を見ている。
「パリでも俺を面白いと言い、魅力を感じてくれる人はいた。写真家になりたいという夢を応援してくれる人もいた。生活は大変だったけど着実に夢に向かっている気がして、ある意味満足してたのかもしれないな。」
それは私が知っている駿そのものだ。最後に会った時の駿はまさにそんな感じだった。
「ある時、積極的に俺の活動を手助けしたいという男性が現れて、芸術関係の人が集まるパーティーに連れ出してくれたり、写真を自分の店に飾ってくれたりしたんだ。
俺はそれをチャンスだと思い、その人を心から信頼していた。大切な友達でもあったんだ。でもそれは。」
駿の表情は固く、その声は温度を失っていた。
「純粋に俺の作品に魅力を感じていたわけじゃなかった。俺を性の対象として見てたんだ。写真家としてやっていける手助けをする代わりに・・・というところかな。」
私は足を止めた。駿の方を見ることができず、ちょうどそばにあったベンチに腰を下ろした。駿も隣に腰掛け、しばらく黙っている。
けれど不思議なことに、その沈黙は決して苦痛ではなかった。この沈黙をむしろ心地よくすら感じていた。
しばらくして顔を上げた駿は、少し微笑みを浮かべていた。
「カメラを触ることはこの先もうないだろうなと思ってたけど。さっきこの川を見たとき、ふっと撮ってみようかなと思った。なぜかわからないけど。」
船に乗り込むまで、私たちはそれ以上なにも話さなかった。ただ一緒にいた。亀裂が入ったのではない。ただ言葉のない空間で一緒に時を過ごしていた。
あの頃、私にもう少し勇気があれば、そしてもう少し一緒に過ごせる時間があれば、駿のことを理解する努力もできたのだろうか。つかみどころがなかった駿をはっきりとした「像」として自分の心の中で結ぶことができただろうか。いや、おそらく無理だっただろう。
遊覧船乗り場にたどり着き、私は
「切符を買ってくる」
そう言って売り場へ向かった。以前来た頃と違い、いくつものコースがある。料金もまちまちだ。韓国語でやり取りをしながら、往復できるコースを選び、乗船券を2枚購入した。
駿は切符を受け取り、
「すごいな。パリで見た時より韓国語うまくなってる。」
と笑った。
私たちは、船の方へ向かって歩き出した。夕日がまぶしくて思わず目を細める。
いよいよだ。夢にまで見た漢江遊覧船が私たちを待っている。
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