第10話 琥珀色
エビスビールのこと…。そう、私たちの関係が決定的に破綻するきっかけになったビールだ。
彼はエビスビールが好きだった。フランスへ行って一番残念なのはエビスが飲めないことだと嘆いていたくらい。
私は、看護師になって初めてもらった給料でエビスビールを買って船便でフランスへ送った。
船便は届くのに半年ほどかかる。秋になったら届くだろう、サプライズプレゼントが彼の手に届く日を私は心待ちにしていた。
10月半ばのある日、何気なく彼が開設しているブログを見た。その頃には彼からのメールも電話もほとんど来なくなっていた。私は不安な日々を過ごし、時々彼のブログを読むことで彼が元気でいることを確認していたのだった。
彼は自転車で旅をしながら写真を撮るスタイルをとっていて、平気で国境を越え、北欧まで行くような人だったから頻繁に便りがなくても不思議はなかった。それでも寂しいことには違いなかった。
その日も旅の途中で撮った写真がアップされているかもしれないという軽い気持ちでブログを開いたのである。
「エビス」
というタイトルの記事が目に入り、ついに届いたのかと嬉しくなって読み始めた。
ー日本の友達にエビスビールを送ってもらった。ドイツ人の女の友人を家に招いて一緒に飲んだ。本場ドイツの人も「うまい!」とうなる。彼女と朝まで映画の話をした。こういう話ができる友人はありがたい。ー
すっと身体が冷たくなるのを感じた。自分の中で何かが音を立てて崩れ落ちていく気配がした。私はだまって椅子から立ち上がると、パソコンからそっと離れた。
窓を開け、秋風に吹かれながら「友だち」という言葉の痛みについて考えた。彼がフランスへ行く前、私は貧乏でろくに洋服を買うお金もなかった。ある時、安物のTシャツにジーンズ姿で彼と自転車で遊びに出かけた。その帰り道、彼は急に百貨店の前で自転車を止めた。
「ここで友達が働いてるんだ。ちょっと顔見て行こうかな。」
私はとまどった。この格好で百貨店中へ入るのは気が引ける。彼もそれほどいい服を来ているとは言えなかったが私よりはいくらかマシだった。彼も私のみすぼらしい服装が少し気にかかったのだろう。自分の羽織っていたシャツを
「これ着る?」
と尋ねてきた。私はそれを断って気まずい思いで彼に続きデパートへ入っていった。
入り口に近い、フランス系の人気ショップの中へ彼は入っていき、一人の若いスタッフに声をかけた。いかにもショップスタッフといった感じのその子は、そのブランドの服を個性的に着こなしていた。彼が話し込んでいる間、私は離れたところで並んでいる洋服を見るともなく眺めていた。しばらくして彼は私を手招きして彼女に紹介した。
「この人は楓さん。友だちなんだ。通ってる整形外科でお世話になってる。」
その女の子は頭を下げた。私もニッコリ笑ってあいさつした。
友だちという言葉が深く心に刺さったが、考えないようにした。自分がとてもみじめだった。
フランスに届いたエビスビールも「友だちに送ってもらった」と表現された。昔の苦い思いがよみがえる。
私の心の痛みは、どうやら嫉妬とは少し違う種類のもののようだった。その女性と、映画やアートの話をしたこと、その映画もアートも私にはわからないもので、彼らが生きている世界は自分が生きている世界と全く違う、そのことをはっきり突きつけられた気がした。友だちと言われたことよりも、その現実を思い知ったことが私に大きな絶望感を与えた。
その夜、私は彼に最後のメールを送り、彼のアドレスを削除した。そして大切にしまってあった思い出の品々をすべて処分した。もう彼の作品は私の手元に1枚もない。
あれ以来、私はエビスビールを飲んだことがない。周りで人が飲んでいても自分は決して口をつけないようにしている。グラスに入ったエビスビールは、琥珀色の輝きを持っている。私にとって特別な痛みを伴う輝きを・・・。
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