第9話 茶葉の香
大学病院の見学は楽しかった。いくつかのグループに分かれて、韓国で注目されている最先端の精神科専門病棟を案内してもらう。ユンとは違うグループになってしまったが、私のグループの人たちも日本から来た私にとても親切にしてくれた。
新しい治療法や新型の療養設備を見て感心する一方で、日本ではどんな医療がなされているのかなど、私に質問がむくことも多かった。精神科の入院日数が長いことにおいては韓国も日本も似たような状況である。自然と話が盛り上がった。
今朝のカフェでの出来事など、思い出さないほど充実した時間を過ごし、解散したのは夕方の4時だった。地下鉄の駅へ向かいながら私はポケットの中の名刺を取り出した。少しその場で足を止めて考える。どうしようか…。
私は意を決してカバンから携帯を取り出すと、まず名刺にある番号を入力した。発信ボタンを押す前に一呼吸おく。エイっと発信の表示をタップした。
電話はすぐに繋がる。
「もしもし?」
駿の声が聞こえた。
「楓ですけど。今どこにいる?仕事中?」
努めて冷静な声を出す。
「仕事は終わったよ。今、梨花女子大の近くにいる。」
電話の背後が騒がしい。
すぐに向かうので、大学の正門で待っていてほしいと伝え、私は地下鉄の階段を下っていった。
13年前、短い夏の留学期間を過ごした梨花女子大。梨花駅で降りて大学までの道を歩くと、懐かしさが込み上げてくる。ここの屋台で指輪買ったな、この店で友達とチゲ食べたな、いろんな思い出が浮かんでくる。
正門が近づいできた。遠くから見ても駿のシルエットはすぐに見分けられる。すらりとした長身で引き締まった体つきは以前と少しも変わらなかった。10年前と比べると随分大人の雰囲気を漂わせており、立ち姿にも落ち着きが感じられた。どちらかと言えば目が細く、小顔で、短く切り揃えた髪がとてもよく似合っている。
向こうもこちらに気づいたようで、大きく手を振っていた。私はゆっくりと彼に近づいた。朝出会ったときとは対照的に、なぜか心の中は凪いでいた。
駿は確か今39歳になるはずだ。大人びて落ち着いた雰囲気になってはいるが、決して老けたという印象は受けない。年相応の品や貫禄が備わっていた。
「どこへ行く?」
私が尋ねると、すぐに答えが返ってきた。
「とりあえずお茶が飲みたい、できれば韓国の伝統茶というものを飲んでみたいんだけど。」
私はしばし考え、無難な線でガイドブックにも載っている仁寺洞へ行くことを選択した。
「じゃあ地下鉄乗って骨董屋の街へ行こうか。」
私が提案すると駿は笑顔で屈託なく
「いいねぇ。」
と応じる。
私たちは地下鉄の階段を降りて乗り場へと向かった。路線図を見てさっさと二人分切符を買うと、1枚を彼に渡す。
「韓国語はもう楽々話せるの?」
と駿が聞いた。駿のフランス語ほどではないと答えると、駿は少し照れたように笑っていた。
地下鉄に乗り、窓に映る自分たちを見ていると、昔見た「初恋」という韓国ドラマを思い出す。大学時代の同級生男女が偶然地下鉄の中で再会する。地下鉄が一周する間に二人が昔の思い出話をするという話だ。男の子は昔その女の子が好きだったのだが、女の子の方は大学の先生に恋をし、結ばれる。失意の男の子は写真家になるために海外へ行き、成功して戻ってきた。そして偶然地下鉄で再会…というストーリーである。
あの男の子も写真家だったなぁ、などと考えながらふと隣に立つ駿を見る。
「ねぇ、今日はカメラ持ってないの?」
と何気なく尋ねた。駿はなぜか一瞬目をそらし、少し考えてから
「このところしばらく写真は撮ってないんだ。」
と答えた。少し含みをもたせた口調に、それ以上聞いてはいけないような気がして私は
「そうなの。」
と軽く受け流した。
仁寺洞に着いて伝統茶の店を探した。ガイドブックなど持っていないので、駿に
「お得意の野生の勘でいい店を探してみてよ」
と言ったところ、ホントにいい店を見つけてくれた。店内のあちらこちらにあしらわれた古代布の鮮やかな色使いが、古い木の建物と調和していて何とも美しかった。
良い店を探す嗅覚は昔から天才的だったが、今もその能力は衰えていないらしい。
駿は席につくとメニューを見ながらどれを選ぶか悩み始めた。日本語の話せる店員さんにやたらと質問している。こういうところは変わらないんだなと思いながら、パリの紅茶専門店で一緒に紅茶を買った時の光景を思い出していた。私の帰国前日、いい香りの茶葉を買ってあげると言って私を店に伴った。馴染みの店らしく、店主の女性と話し込んでいる。フランス語なので内容はほとんどわからないのだけれど、とにかく話が長い。
パリにいる間も小旅行の間も、どこかの店に入るたびにその調子だった。あの頃は気が長くて横に立ってずっと聞いていたものだが…。
私は店員に韓国語で話しかけた。
「すいません、なかなか決められなくて。」
すると若い女性の店員は
「お茶がお好きな方のようですから、私も嬉しいです。ゆっくり選んでください。」
と笑顔で答え、その場を離れた。
私はナツメ茶が大好きだ。大抵これしか飲まない。初めて韓国人の友達に案内された店で飲んだ味が忘れられないのだ。味は記憶を呼び覚ます。おそらく、パリで駿に買ってもらった茶葉の香りを嗅げばあの時の事を思い起こすに違いない。
「あのさ…。」
駿が口を開いた。器の中のナツメの実を見つめていた私は、我に返って目線を上げた。
「もしもう一度会うことができたら謝りたいことがあったんだ。」
静かな口調で私を見る。私は、すかさず切り返した。
「エビスビールのことか。」
彼は黙って頷いた。
エビスビールのこと…。
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